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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《戦争体験》率直な思い出をお聞かせください)

戦争体験:淡々とした思い出と戦時下の日常風景

このQ&Aのポイント
  • 戦争体験者の率直な思い出に迫る。戦時中のお気持ちや雰囲気はどうだったか?
  • 戦争体験者の冷静な語りと、フィクション化されたイメージとのギャップについて。
  • 戦争を経験した人にとっての戦争体験は淡々としていて意外な一面もある。戦時下の日常風景を知りたい。

質問者が選んだベストアンサー

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  • chaff
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回答No.2

「本当に戦争を経験した人にとっての戦争体験」ということなので、本当に戦線で戦争を体験した祖父から聞いた話です。 本人的な脚色はあるかもしれませんが、できるだけ聞いたとおりに紹介します。 祖父は関東軍の兵士で、中国東北部を中心に重機関銃を担いで各地を転戦していました。 1)自分の機転で部隊を全滅の危機から救った話 祖父の部隊がある街を占拠していたところ、いつのまにか町の周りを敵によって包囲されてしまう事態になりました。 逃げ道はありそうになく、友軍との連絡も絶たれ絶体絶命のピンチ!彼の部隊の急務は「なんとかして突破口を見つけ脱出を図る」点にありました。 祖父は一計を案じ、「本来の突破口とは別の場所(城壁など外から見えない場所が良い)で囮の爆弾を爆発させ、敵がその場所にひきつけられている間に本来の突破口から脱出を決行しよう」と部隊長に進言しました。 その案は実行の運びとなり、彼らの部隊は無事脱出に成功したということです。 2)戦死者と生存者を区別する話 戦闘が終わった後には、敵の死体が累々と地面に横たわっていることがあります。 戦死者は敵といえども弔ってあげねばなりませんし、生存者は捕虜にする必要があります。 でも、横たわっている人間は見た目には「死んだふり」をしているのか、動けないのか、死んでいるのか判りません。 そんなときの関東軍のやり方は、「横たわっている人間のお尻を銃剣で刺す」のだそうです。 順番にお尻を刺していくと意識のある者は「何らかの」反応を示し、荒っぽいけれども大変効率が良かったそうです。 3)元敵に命を助けてもらう話 敗戦後、祖父は武装解除され満洲から内地へ撤退することになります。 途中で食料も水も尽き、飢えと寒さで「行き倒れ寸前」状態となってしまいます。 そんな時、山の中で見つけた一軒家で(戦時中はあれだけ迷惑をかけたはずの)中国人から暖と食事を恵んで貰うことができたそうです。 祖父は「ああ、やっぱり戦争はいかんなあ」と、思ったとか。

noname#12371
質問者

お礼

詳細な聞き書きを拝見して、「自分も祖父や祖母にちゃんと聞いておけばよかったな」と思いました。 >自分の機転で部隊を全滅の危機から救った話 映画で描かれそうなエピソードですが、実際には各地でそのような“非日常的な光景”が日常的に繰り返されていたのでしょうね。 とりわけ戦争を知らない世代は、物語としての戦争体験ばかりに目が行きがちです。 ですが、その光景がわずか数十年前には、日常の延長線上に実在していたことを見逃してはいけないと思いました。 >荒っぽいけれども大変効率が良かったそうです。 すごくリアルな話ですね。 ともすれば地味に聞こえてしまう戦争体験ですが、このような話にこそ現実感があります。 >元敵に命を助けてもらう話 質問文に挙げた現代民話集のなかの、「昼間は敵同士として撃ち合い、夜間はタバコを交換していっしょに吸っていた」という体験談を思い出しました。 ひとたび戦場を離れると、そこにあるのは人と人との関係。 「国境をなくそう!」などと声高に叫ばずとも、人間同士のつながりは確かにあるんですよね。 安易な平和論に走るつもりはないのですが、その“つながり”をおかしくしてしまうイデオロギーの摩擦、自分たちが思う以上に慎重に対処しなければならないんじゃないか?と思いますね。

その他の回答 (6)

noname#21649
noname#21649
回答No.7

生の内容は. 今度東京が空襲に遭ったり関東大震災にあったり(東海沖地震関係の予知情報に関係する法令ができた頃の話です)すると.また学校で「助けてくれ」と泣き叫ぶ人たちをもすことになるだろう。医学部があっても患者が多くで薬なんかすぐになくなってしまうし.助けようがないから燃すしかない。戦争だからしかたない。また.学校の庭で俺の代わりに仕事をしている奴が(大学病院に担ぎ込まれて「痛い・助けてくれ」と泣き叫ぶ患者を山積みにして)火をつけて燃すだろう です。ただし.方言等を現代語。共通語に直しています。

noname#21649
noname#21649
回答No.6

>直接聞いた」当時の日常風景・情景をお聞かせください。 租界先の空襲の後.燻製の死体や半分こげた死体が転がっていて.食料がない人々は食べていました。これが.死後硬直でその後.緩んでくるから.糞尿臭がひどいの何の。私の倍は.不在地主から在郷地主に代わった直後なので食料はまた会ったころです。 「埼玉県某所で食料供給を受けろ」の命令のもと.該当地区に出向くも食料なし。よって.該当舞台は.村人を殺して食べました。該当兵が同僚です。 自分で歩けなった兵隊は.戦死として.銃殺。逃げてきた兵隊は敵前逃亡として銃殺。人を殺して「おまえも一人前になった」と誉められる。これがいやで脱走して.死亡したのは既に記載した通り。 深川地区の話は.戦争が終わって.学校関係で都内に出た時に聞いた話です。同僚で柔道やっていたのがいて.その先生が江戸城の堀で子供を仁王立ちで抱きかかえ助けて自分は茹蛸になり死亡した話しが聞いています(かなり有名な花氏らしいのですが.どの程度有名なのか不明)。 都内の某学校の庭で.やけどで動けなくなった人間を生きたまま火をつけてもしていたのが同僚です。戦争が終わって「もう生きたまま人を燃さないで住む」ということで.自宅から都内に運び込んだ米で酒を造って飲んだくれになり.米がなくなって実家に帰ってきました。勤め先で知り合いました。このときの話しから考えると.都内で大規模な火災が発生すると.適正な治療もされず放置される可能性が高い(ベット数が絶対的に不足)です。 子のような内容ならばよろしいでしょうか。

noname#21649
noname#21649
回答No.5

>栄養不良で亡くなった叔父(乳児でした)のことくらいです。 食料が良かったのですね。生き残ったのは私の兄弟では弟と私の2人でした。1名は過労死.残りは栄養失調に伴う免疫低下で結核による死亡です。 戦争前は20歳前に半数が死にます。1歳ま未満で死ぬのが1割ぐらいいますので.1歳の誕生日を迎えてから出生届を出すのが普通でした。 戦争で疎開する前は.当時の人口分布そのものが使用人を含めた私の家の年齢構成で平均的家庭かと思います。 1名だけしか死ななかったのはよほど食料供給が良くて.かつ.衛生条件が良く(丁稚の家では20歳前に子供の6-8割が死亡).労働条件が良い家庭なのでしょう。丁稚の家のほとんどが空襲で燃えてしまい.戦後連絡が取れたのは.私よりも年下で子守りをしていた人間(先日葬儀に出席してきました。85歳の親を残して65歳の子供が死ぬのはやりきれないです)だけでした。 >「自分の境遇でしか語れない」。 そうです。生き残った人だけしか語れません。東京大空襲で丁稚の家族は燻製になる(深川の学校に避難していた話しが有名でしょう)か燃えてしまい.丁稚は戦争からかえって着ませんでした。結果的にもっとも悲惨な経験は本人死亡ということで語られず.生き残った人々.つまり.比較的良い条件の立場にいた人々の内容しか語られません。

noname#12371
質問者

補足

「個人個人の率直な(主観的な)体験を聞きたい」という質問の本題から、だんだんずれてきているように感じられます。 ほかの投稿文に対して「それはまだマシなほうでもっと悲惨なことが‥‥」という文脈は、なにとぞご遠慮ください。戦争体験の一側面(たしかに大きな要素ですが)ばかりを強調しがちな流れとなってしまいます。 死亡者のお話については、個人的に興味深く読ませていただきました。 とくに「いちばん悲惨な体験は本人死亡で語られない」という事実。 ただこの質問文の本来の意図から流れが変わりそうですので、くわしい感想は避けたいと思います。 ほかにこの質問をご覧になってくださる方がおられましたら、かならずしも戦争の悲惨さのみを強調した内容でなくてけっこうですので、あなたが「肌で感じた」「直接聞いた」当時の日常風景・情景をお聞かせください。

noname#21649
noname#21649
回答No.4

3番です >彼らの部隊は無事脱出に成功したということです。 生きて日本に帰れたならば運が良かったです。 私の聞いている話では.脱出して親部隊に戻ったらば.「敵前逃亡である」として.全員銃殺になりました。 親部隊の指揮者が部下に対して「銃殺を命じ.発砲が送れる等従わない部下は指揮者が銃殺する」という作業です。

noname#12371
質問者

お礼

体験した人の数だけ戦争体験があるということですね。 一般にとかく悲惨さだけが強調されがちだと思うのですが、 比較的ぶじに過ごせた人にも、その人にしかできなかった《体験》があると考えます。 犠牲が多かったからカワイソウ/犠牲が少なかったからカワイソウではない・・というワクでとらえたくないのです。 どのような話も、今となっては貴重なお話です。 ちなみに自分の身内には、めずらしく戦死した人間がいません。 当時のことですから兄弟は多かったのですが、みな幼年だったからです。 また両祖父もそれぞれ、病弱のために徴集されなかったり、警官だったために終戦直前に内地の兵役についただけでした。 そのせいか親戚の集まる席で「戦争では‥‥」という話を聞いたことがありません。 唯一語られたのは、栄養不良で亡くなった叔父(乳児でした)のことくらいです。 「自分の境遇でしか語れない」。 これが《体験談》の正しい方向性だと思います。

noname#21649
noname#21649
回答No.3

>ここのえ」とはどのような意味なのでしょう? ここのえ連隊。天皇の護衛の為の部隊です。 >者名か出版社名だけでも教えていただけませんか? 資料形態 :郷土図書 書  名 :土      ツチ 著 者 名 :長塚 節作 / ナガツカ,タカシ シリーズ名:岩波文庫 出  版 :東京 : 岩波書店 , 1970.6 ページ等 :403p ; 15cm MARC番号 :LKS200001369 分  類 :913.6 (8) 913.6 (9) 請求記号 :001051836201 /    - 099    - 1183 -       出展 茨城県立図書館 http://www.lib.pref.ibaraki.jp/opac/index.html

noname#12371
質問者

お礼

くわしい情報をありがとうございました。 書店では入手困難になっているようですが、 郷土史的な扱いの本なら図書館のほうが見つけやすそうです。

noname#21649
noname#21649
回答No.1

戦争中は.比較的平和でした。 宣伝に乗って騒いでいるだけ(戦地の情報がほとんど入らないという.情報統制がなされていたため)でした。 非日常的ないようとしては.兵隊から逃げて家に隠れ住んでいた近所の息子がここのえにつかまって.家の前でご近所・家族全員が見守る中で.撲殺死したことでしょうか。 食べ物は.都内に済んでいる頃は.他の家に売らないでも私の家には売りに来ましたので苦労しませんでした。 苦労したのは.終戦の年の春に疎開しました。ここからが.配給の略奪.農作物の略奪.暴行.窃盗など.疎開先の人々が行う犯罪行為との戦いです。 疎開者に対する日常的嫌がらせ行為は.「土」という小説に記載されている行為とほぼ同じなので.こちらを参照してください。 ただ.気分良く読める小説ではありませんので.それなりに覚悟してください。茨城県真壁町周辺での差別の内容を描いたものです。

noname#12371
質問者

お礼

貴重な体験談ありがとうございます。 戦時の恐怖は、とりわけ疎開先での治安や人間関係にもあったのですね。 そんな記述を読んだことはありますが、現代ではあまり強調されない当時の風景なので、ついつい忘れがちです。 語る人間の心理として、自国民に不利なエピソードはどうしても水面下に沈められてしまうのでしょうか。 >近所・家族全員が見守る中で.撲殺死したことでしょうか。 生の目撃談であるだけに、なおさら衝撃的な事実ですね。 このような行為が、自分が生きてきたこの国で“合法的に執行された”となると、背筋が寒くなります。 過剰に不安をあおるつもりはありませんんが、昨今の中東情勢も対岸の火事ではない、と思わされます。 ところで、「ここのえ」とはどのような意味なのでしょう? 官憲のことでしょうか? >「土」という小説 さしつかえなければ、著者名か出版社名だけでも教えていただけませんか? 検索で探してみたのですが、該当しそうな本を見つけられませんでした。 お話をうかがって、いろいろな考えを触発されました。 ですが、本題から大きくずれる長文となりそうですので、このあたりで止めておきます。