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明日香村の巨大古墳
本日新聞報道によると明日香村で巨大なピラミッドが発見されたとの報道があり、写真が掲載されていますが、形状が中朝国境の高句麗の石を積み上げた古墳と酷似していますが、日本のリーダーの祖先はやはり朱蒙でしょうかどなかかご意見があればご投稿下さい。
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日本人の赤子には蒙古班という青あざがあります。日本言語の文法もモンゴル、朝鮮と同じです。モンゴル力士が日本語を流暢に喋るのはそのためです。中国人は日本に長く住んでも日本語が上手にはなれません。 日本人のルーツは朝鮮の北方にいた民族だと言われています。この地方の民族を古くは漢の時代に鮮卑と呼ばれていました。随分と下げすんだ名前をつけられたものです。漢の時代は国力が旺盛で、モンゴル地方の匈奴を攻めて蹴散らすのです。その影響で鮮卑は南下して朝鮮半島に入り支配者になるのですが、その一部が日本列島に入ってきたと言われています。それが古墳時代の始まりです。 古墳とは地面を盛り上げて墓を作る習慣です。これは遊牧民の習慣なのです。地面の下に親の墓を作ると遊牧して戻ってきたときに親の墓の位置が判らなくなるためです。古墳の原型は石積み古墳です。日本でも初期の古墳は石積み古墳で長野県に多く存在します。この地に渡来した人は朝鮮半島を経由せずに今の北朝鮮から直接渡来した人達だと考えられています。高い土地に住んだのはもともと寒冷地に住んでいて暑さが苦手であったからです。 北朝鮮の客船が新潟に来ていましたが、北朝鮮からの最短距離が新潟なのです。そこから山に登り長野に入ったのです。長野の善光寺には日本で最も古い仏像があります。飛鳥寺の仏像よりも古いのです。高句麗から来た仏像と言われています。飛鳥寺の仏像は百済から来たもので、朝鮮半島では敵対関係の国です。 我々が良く知っている飛鳥地方の古墳は韓国の釜山近郊にある古墳に酷似しています。金官伽耶は小国連合の国であったと言われています。この小国が日本の支配者の母国です。教科書で任那日本府と教えられた場所です。いずれにしても日本は高句麗、新羅、百済、金官伽耶の植民地であったのです。アメリカ大陸がフランス、イギリス、スペインの植民地であったのと同じです。朝鮮半島の本国が滅ぶことによって日本は独立できたのです。
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- izuhara
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朝鮮半島の文化を取り入れていたというレベルです。
- IXTYS
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>形状が中朝国境の高句麗の石を積み上げた古墳と酷似していますが、 古墳の形式として重要なのは中に描かれている壁画です。 東西南北を守る四神図(青龍、白虎、朱雀、玄武)の描かれ方で出どころが判明します。 中朝国境の高句麗と中国大陸のそれとは青龍の描かれ方が大きく違っています。 古墳時代の後に登場する隋、唐の時代の壁画に登場する蛇(青龍)は数匹がうなだれるように描かれているのに対し、高句麗時代の壁画のものは数百匹がまるで激流のように勢い良くのたうちまわっており躍動感が両者では大きく違います。 この壁画を見れば、当時の日本の為政者が高句麗に代表される北方騎馬民族の子孫か中国大陸の温暖な地方の農耕民族だったのかが判明するのです。 ご指摘のあったように古墳時代の為政者は高句麗に代表される北方騎馬民族だったと思われます。 しかし、その圧倒的な機動力と鉄器という優れた武器を装備していた高句麗が6世紀の後半、急速に衰退します。 新しく中国大陸に起った隋との度重なる戦さに敗れ、次の唐の時代に入ると早々に滅亡します。 そしてそれ以降13世紀にも及ぶ長い隷属関係に入ったのです。 高句麗がどうして滅亡したのか。 日本の古墳時代がある時を境に忽然と姿を消したのは何故か。 この二つの事件は実は密接に関係し合っているのです。 ここには全世界的な天変地異が深く影響していると言われています。 西暦535年にジャワ島にあるクラカトアと言う名前の活火山が大噴火を起こします。 その膨大な噴煙が天地を六カ月間覆い、陽光を遮ったと中国の歴史者は記録。 この異常気象で大飢饉が世界各地に起り、全人口の80%が死滅。 新しい勢力が世界に台頭したと伝えています。 世界史的に見ると古代から中世に移る象徴的な出来事が起っていたのです。 日本では聖徳太子が現れ、隋に使者を送っています。 近年の研究では聖徳太子が隋の煬帝(ようだい)とは個人的に何ならかの面識があった可能性が否定出来ないと言われています。 彼の手紙が横柄だったとして皇帝を激怒させたと伝え聞いています。 その話には続きがあります。 隋は文部官僚だった裴世清(はいせいせい)を答礼使として日本に派遣しています。 古墳時代に既に大陸と日本列島は密接に結びついていたと考えるべきでしょう。
- kingyo_tyuuihou
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報道によると、蘇我稲目の墓説が有力ですね。 http://www.asahi.com/articles/ASG8C2FH0G8CPOMB001.html 当然、蘇我氏が渡来人である説は現在のところ否定されていますが、、 あちらの文化を強く受けていることは間違いなさそうです。 半島の最新文化を背景に勢力を伸ばした。といったところでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F
- あずき なな(@azuki-7)
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古代の豪族は渡来人ですよ 蘇我 物部 中臣 秦 小野 明日香を拠点にしていたこれら豪族はみな渡来人 ですから 古墳が中国の影響を受けていてもなんら不思議ではありません 古墳に土偶を埋葬するのも中国の影響です あまり知られていませんが 日本各地にはピラミッド状の古墳がいくつもあります(今は木に覆われてただの山に見えるため気づかれていませんが)
- ikuzecia
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ピラミッドではなく階段状の方墳ですね。 明日香村というならたぶん蘇我一族の誰かの 墓でしょう。 蘇我氏はほぼ間違いなく朝鮮からの渡来人です。
お礼
大化の改新のような内乱も半島の内乱の影響であると言われています。都を大妻で後退させたことは如何に中国の侵攻を恐れたか分かる気がします。