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武士の凋落

こんにちは。 時代劇で、明治初期、遊郭には武士の奥方や、娘が多かったという話が出てきましたがまじですか?その実態を教えていただければ幸いです。 なぜ誇り高い武士がそこまでしなければ生活できなかったのでしょうか?西南戦争など武士の反乱は特権を奪われたことへの復しゅうだったのか、それとも惨めな生活を強いられたことへのプライドの爆発だったのか? きたの0年でももと家老が元低い身分の男に雇われ、頭を下げているシーンが出てきますが、そういう話もご存知でしたら教えてください。 よろしくお願いします

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  • titelist1
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回答No.2

NHK朝の連続ドラマ『花子とアン』を見ていますか。その中で仲間由紀恵さんが演ずる柳原白蓮が出てきます。父親は伯爵の柳原前光です。白蓮の父方の叔母は明治天皇の側室で大正天皇の母親なのです。 しかし、母親は柳橋芸者のおりょうさんです。そのおりょうさんの父親は旗本で外国奉行の新見正興です。つまり旗本で奉行の娘が芸者になったのです。しかも姉も芸者です。いかに困窮していたかが分ります。

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noname#224207
noname#224207
回答No.1

>時代劇で、明治初期、遊郭には武士の奥方や、娘が多かったという話が出てきましたがまじですか?その実態を教えていただければ幸いです。 実態と言われましても、娼婦の出自を一々系統立てて記録されるということはありませんでした。 いわゆる状況証拠から、そのような人もいたであろうということができるだけです。 >なぜ誇り高い武士がそこまでしなければ生活できなかったのでしょうか? 明治維新により武家は雇用主である藩主がいなくなりましたから、完全な失業者です。 明治政府は、救済措置として金禄公債(きんろくこうさい)という現在の国債のようなものを発行して支給しました。 この配当金で生計をたてろ!ということですが。 スタートしたばかりの明治政府には財源がありませんでしたから、毎年支給される配当金も当時の庶民の年収を遥かに下回っていました。 官僚として国や都道府県に採用されたのはごく僅かな人達だけでした。 四書五経や武芸などは、官僚には必要がありません。 実務ということになれば町人のほうが遥かに有能でした。 戸籍上は士族と平民に分かれてはいても、それが収入につながる時代ではありませんでした。 誇りもへちまもありません。生きていかなければなりません。 >西南戦争など武士の反乱は特権を奪われたことへの復しゅうだったのか、それとも惨めな生活を強いられたことへのプライドの爆発だったのか? 生活苦に基づく反乱などと土一揆と同列に扱う人もいますが、現在の学会の常識では認められていません。 西南の役や佐賀の乱に参加した士族の生活が苦しかったであろうことは認められています。 地方の旧藩士よりも生活が苦しかったのは江戸の街以外に生活の場を持たかった幕臣です。 江戸生まれ江戸育ちの人間が、見たことも聞いたこともない西国までわざわざ出掛けて命がけの戦をするということはありませんでした。 その気になれば地元でいくらでもやれました。 武家の商法とバカにされながら町人と肩を並べて働いていました。 >きたの0年でももと家老が元低い身分の男に雇われ、頭を下げているシーンが出てきますが、そういう話もご存知でしたら教えてください。 こんなことを一々記録していた人はいません。 これも状況証拠から、有り得たかもしれない、というだけの話です。 家老職を務めていた人間に使用人の仕事をこなす知識も経験もありませんから、わざわざ雇う人間などいなかったでしょう。 生活費の面倒を見ていた人はいたかもしれません。 昔の腹いせに元上司をイジメルなどというのはひねくれサラリーマンの発想です。 明治政府にとってはこの武家層の取り扱いが最大の難題でした。 刀を持たずに鉄砲だけ担いでオイチになどいう軍隊へは応募しませんでした。 軍人が社会的地位を獲得するのは日清日露の両戦争後のことです。 鉄砲を扱うのは鉄砲足軽と呼ばれた下級武士(卒)の仕事でした。 警察官は、不浄役人と呼ばれた奉行所の人間がやる仕事でした。 要は新しい時代のどこにも座席が無い人達でした。 政府も何時までも多額の金を払い続ける訳にはいきませんでした。 時代に対応してそれぞれ仕事を見つけて行きましたが、当然それができなかった人や家族が大勢いたかと思います。 何時の時代どこの国でも、変革期というのは社会的混乱を招きます。 第二次世界大戦終了後の職業軍人と呼ばれた高級将校の人達がどのような生活をされていたかご存知ですか。 オレはもと中佐だ大佐だと言って収入が保証されていたとお考えですか。