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王政復古以前の天皇家とは
王政復古の大号令が発令される以前の戦国時代、江戸時代における天皇家とはどのような位置にあったのでしょうか。 宜しくお願い致します。
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江戸幕府にとっては極めて微妙な問題でした。 そもそも征夷大将軍なる称号は天皇から下賜されたものです。 江戸幕府というのは、徳川氏が天皇から委任されて、他の大名を統治するための機関でした。 「幕府」という言葉自体、戦場での総司令部を幕で囲った状態を意味する言葉です。 天皇から委任されたものですから幕末に大政奉還などという手続きが取られました。 この手続きの延長線上で、薩長の武家が政権を確立させました。 このような形態のために、明治革命とは呼ばれずに明治維新と呼ばれます。 平たく言えば単なる武家同士の政権交代です。 新しくできた政権が、後にしぶしぶ庶民の選挙権を認めただけの話です。 天皇家の立場や法的根拠から言えば、徳川氏が気に入らなければ、さっさと称号を取り上げて他の大名を征夷大将軍に任命できます。 明治憲法が公布されるまでは、遠い昔に定められた大宝律令がそのまま残っていました。 日本の統治者はあくまでも天皇であり、日本中の土地も天皇が自由に処分できる権限が残っていました。 荘園とか大名領というのは、そういう意味からすれば、その土地からの収穫に対する徴税権のようなものです。 理屈の上からはこのような状態でしたから、残るのは天皇家と徳川家との実質的な力関係でした。 幕府発足当初「紫衣事件」というのが起きています。 紫衣事件 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/紫衣事件 武力を握っていてまだまだ元気だった徳川家は、天皇家に対して禁中並公家諸法度なるものを押し付けました。 禁中並公家諸法度 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/禁中並公家諸法度 後に松平定信がこれを理論武装した大政委任論なるものがありました。 大政委任論 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/大政委任論 このように実質的には徳川家が力で抑え込んでいましたが。 何分にも官位だけは朝廷だけが決められるものですのでどうにもなりません。 官位相当表 www.nobunaga-lab.com/hall/furoku/kanisoutouhyou.html 幕府の官僚はこれを逆利用しました。 各大名に代替わりのたびに朝廷に官位を付けてもらうようにしました。 この官位下賜の申請窓口を幕府が独占しました。 大名が勝手に申請しないようにしました。 武家官位と呼ばれています 武家官位 - Wikipedia a.wikipedia.org/wiki/武家官位 江戸城内での座る場所やらなにやらは、この武家官位に基づいて決めていました。 同じ石高なら官位が上の殿様のほうが上席に座りました。 形式第一主義の時代ですから、殿様ご本人にとっては重大問題です。 いやでも、天皇、朝廷というものを意識します。 毎年お正月には幕府将軍は、高家という旗本たちを派遣して京都の天皇と上皇に対して年賀を奏上しました。 これに対して天皇と上皇は、答礼として2月下旬から3月半ばにかけて勅使と院使を江戸へ派遣しました。 これが江戸時代の毎年の恒例行事でした。 この京都から下ってくる勅使の接待役すなわち勅使饗応役でひと悶着を起こしたのが浅野の殿様です。 のちに忠臣蔵という芝居ができました。 以上が江戸城内の人々と京都御所内の人々との関係です。 京都を始め関西地方の人達は御所に現に天皇陛下がおられましたから身近な存在でした。 一方江戸っ子は、箱根の西のことは一切頓着ありませんでした。 この世で一番偉いのは公方様で、おれたちゃあ、そのおひざ元で暮らしいるんだ!といきがっていました。 明治になって政府の役人が江戸っ子に天皇陛下を教えるのに、 「お稲荷さんは正一位だ、そのお稲荷さんに位をさずけたのが天皇さんだ、お稲荷さんより偉い人なんだ」 とやったそうです。 以上のようにおそろしく微妙な位置にいました。
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- phj
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・鎌倉時代 一応、武士による幕府はできたものの、守護・地頭の職制が完全に浸透しているわけではなく、まだまだ公家方につく武士階級なども多かった、そのため幕府は六波羅探題を作り天皇や公家の動向を監視せざるをえなかった。 ・室町時代 鎌倉幕府の滅亡の原因は、天皇家の皇位継承争いで幕府が強引に、争っている皇統が交互に天皇になることを決めてしまった。これに怒った後醍醐天皇(南朝)が公家方につく武士を動員して鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政を行う。 そうなると今度は後伏見法皇(北朝)と鎌倉幕府の残党勢力が反乱を起こし、特に足利尊氏の働きにより北朝を再建して室町幕府を開くことになる。室町幕府は京都に拠点を置くことになるが、これは南朝が残っており、南朝に勢力を貸す武士階級も多かったことから、京都で天皇を守り(事実上は篭絡)し政権の維持と調整を図ったものである。 しかし、結果として調整はうまくいかず、武士同士の抗争に発展していく。これが戦国時代である。 ・戦国時代 なぜ戦国時代が「下克上」なのかというと、それまでに守られてきた日本の権利制度が崩壊したからである。まず平安時代までに律令制と共に出来上がった荘園制度、そしてこれに守られた武士階級は当然、天皇側についていた。また鎌倉以降出来上がった守護・地頭制度によって成り立った武家は当然、鎌倉・室町幕府に加担する。 この二つの勢力がさらに南北朝に別れ・幕府と反幕府の複雑な権利構造になったため「自分の土地を自分で守るしか方法がない」状態になった。(たとえば土地登記で、南朝では自分が登記されているのに、北朝では別の人の土地、幕府ではさらに別の人の土地だったら実力で争うしかないでしょう) これにより力のあるものが台頭し、権威者だから生き残れるものではなくなったのが戦国時代になる。 ・安土・桃山時代 戦国時代も末期になると、優勢な勢力とそうでもない勢力がはっきりしてくる。織田信長が天皇をどのように遇するか(または廃止するか)は今でも話題になるところであるが、信長の後を継いだ秀吉は「関白」に任命され、天皇の権威を認める方向で「日本に秩序を復活させる」道を選んだといえる。 また太閤検地や刀狩で、武士とそれ以外を分け「武士は(天皇に認められた)関白である私の配下になるように」と命令し、一応の安定を見た。 ・徳川時代 秀吉が死ぬと、5大老のうち徳川がぬきんでて実力を示したものの、天皇家もどの武士階級につくかという論争がおきている。徳川は関が原の戦いで勝利し、幕府を開く意向を示して以来、各武家には「徳川に忠誠を尽くす」ように指示を出し、天皇家とのかかわりを遮断し京都も幕府の直轄支配とした。 これ以外にも武士階級が「徳川を頂点とした階級社会」を意識するように、参勤交代なども取り入れ、天皇の権威を切り下げることに努力した。 日本に二つの権威があること自体が、争いの元だったからである。 しかし、古来の日本の法制どおり「征夷大将軍は天皇の勅許」で封じるものであることは変えず、将軍の跡継ぎは必ず天皇の勅許を得てから就任している。 実際には天皇が徳川家に篭絡されているとしても、荘園制時代まで先祖がさかのぼれる、特に西国大名に配慮したからである。(特に家康の頃に天皇家を廃止するなどしたら、また乱世になったことだろう) ・明治時代 江戸時代中期に学問が勃興してくると、天皇家の地位も見直され、それが幕府への対抗心とあいまって尊皇攘夷という運動に変化していった。 日本においての天皇家は「日本列島を統一し、初めて全国をひとつの国=日本にした家系」であって、王としても、本来は主人に忠誠を誓うべき「武士階級」が天皇を弑すは道義上の問題が大きかった。 また日本の天皇家は、他の王家とちがい神格をもっており、天皇は日本の最高神儀官でもあったため、天皇がいなくなればすべての神社仏閣の正当性が失われることになる、と考えられていた。(仏教も天皇家が日本に導入した) 信仰のあり方としても、日本のルーツである天皇家を滅ぼすことはできず、ただ「社会階層の安定化」のためには天皇家をなるべく隠す、というのが徳川幕府の方針であったことは間違いないと思います。
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詳しくご回答下さりありがとうございました。 勉強になりました。
- kusirosi
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今と同じ 日本国の象徴であり日本国民統合の象徴 ただ戦国時代は 乱世なので、足利将軍家はじめ各地の大名家が 適当に利用してたのが、 江戸時代は、徳川将軍のみが、独占的に皇室と接触し 利用していたという違いがある。 zzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
お礼
回答ありがとうございました。
- ssssan
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征夷大将軍の下の地位に甘んじてたんじゃないのかなー、天皇家=弥生神道を司る家ですからそれはそれで意味が有りましたねー、明治維新から1945までが有る意味異常な時代とも言えるわけて。 現代の象徴天皇=弥生神道の間伊勢神宮をお守りする今の形態が一番と言えば一番かなと。 天皇家も南北朝とかそれにくっ付く豪族等でワヤ状態でしたしで、都市伝説では維新のドサクサに江戸時代の北朝系から南朝に変った説がまことしやかにー、大室寅之助が明治天皇で写真迄有りますカラねー天皇に成る前の奇兵隊の様に力士隊に所属してた時の様な写真が3.40名の中の中心に収まって,映したのはメーソン英人です、官軍側に付く幕府側は仏メーソンですから。
お礼
お礼遅くなりました。 回答ありがとうございました。
お礼
URLまでありがとうございます。 勉強になりました。 回答ありがとうございました。