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善意の押しつけについてのエピソード
- 善意の押しつけとは、他人に対して自己の価値観や意見を押し付ける行為の一例です。
- 女性が自転車を反対車線に走らせていた際、初老の男性が追いかけて注意しましたが、女性は腹立ち口論になりました。
- 注意するべきことではあるが、男性の行動は常軌を逸しており、善意なのかそれ以上なのか疑問が残ります。
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わたしの好きな哲学者の言葉に、「自然がじぶんのなかで、機械的に作用しているにすぎないのに、それにまがいものの高い目的を与えたからといって、じぶんが高められたように感じる」というのがあります。また、どうしてそのような偽善的行為が起きるかの理由として、「自分の内部の悲惨さを認めぬということと、自分と自分の愛するものとの間にあるへだたりを意識しないから」と挙げています。 その初老の方の行動は、自分に酔っている、といえます。
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- 3355Teach
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単に閑なお年寄りでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 こういうことも過干渉の一つだと思いました。
相手の気持ちを見ながらというのにかけていて、正論を語っている状態ですね。 だいたいそういう注意しても相手は、しっかり話を聞かないでしょう。 思考や正論以外はなんでもいいという浅い考えで細々と注意しても相手の心や頭に残りません。 年配者は最初に感情が老化するともいいます。感情を制御して注意してほしいものですよね。私たちは人間社会を作っているのですから。もっと有機的であってほしいですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 その人は自分の正論を主張することしか頭にないのでしょうから、他人の「ちょっとのミス」が重大なこととして映るのでしょう。 映画「図書館戦争」の「たとえそれが正論であっても、正論を武器にすることは間違っている」というセリフは名言だと思いました。 しかし果たして、正論とは真に正しいことなのか?それだけの態度をとるのであれば、そこの部分も考えているのだろうかと。 正論だと固執し、強く主張する男性の態度からは、「正論だと信じている自分の正しさ」を主張しているだけにしか見えませんでした。
- nichoT
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こんにちは。 その男性はきっといろんなことに不満を抱えて生きているんでしょう。 そして、注意しても自分に危害が及ばない相手にのみ注意しているんでしょう。 もし善意で相手に接するならば、態度が違うと思います。何度も注意して言うことを効かない相手ならば高圧的な態度にもなるかと思いますが、、、。(まさかそのおばさんに何度も注意していたようには文面からはうかがえなかったので。) 男性はそうやって注意した自分に悦を覚えているように思います。 私は注意した側の態度は妥当ではないと思います。 ただし、その男性の生活環境・性格なども知らないのでその人のすべてを否定するまでにはいたりませんが。 私も極力注意されないように生きていかなきゃです。そして、注意するときは相手が受け入れられるような言葉や態度で注意したいと思います。 (もしかすると、注意という言葉がすでに上から目線かも?お願いぐらい?いや話し合い?あっ、すいません自己完結です。)
お礼
ご回答ありがとうございます。 この事件は「態度が違えば、相手の心や態度も違ってくる」「人は変わらない、自分が変るべき」ということになると思いますが、こういうシチュエーションに出会うたびに私は「北風と太陽」の話を思い出します。 北風は強気な態度で太陽が温和な態度の暗喩ですが、人を動かすのはいうまでもなく後者です。 また私が感銘を受けた、イギリスの文芸批評家のジョン・チャートン・コリンズの「頼めば聞いてもらえることを、権利として振りかざしてはならない」という言葉も思い出します。 最近では映画「図書館戦争」での「それが正論であっても武器にすることは間違っている」という言葉です。これらの言葉は、「正論」であるという確信、さらに世論や法的を隠れ蓑にし、主張する態度が大きくなってしまうことへの戒めだと思います。この男性は見えざるもの(マナーや法)という「虎の威を借りる狐」の典型であるゆえ、威厳を感じさせるというよりも、滑稽でしかありませんでした。 >極力注意されないように生きていかなきゃです。 そんなことないですよ。これは認知心理学で科学的に認められていますが、「人間はミスをするからこそ人間」なんです。注意すべきは、その傲慢な態度こそですが、そのような人に対する態度も傲慢であってしまえば本末転倒なのですけれどね(笑)
- kannzou001
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私なら何も言いません。 でもその後、言わないがためにその女性が老人を自転車で轢いてしまい、後遺症が残る大怪我をさせた。となったら、「追いかけてでも言うべきだった」と思うでしょうね。 もし、その老人が肉親の祖母だったら。悔やんでも悔やみきれないでしょう。 そんな可能性はきわめて低いですが、結果は誰にも分かりません。 >それとも行きすぎた善意なのでしょうか? 善意にも二種類あります。 ファシズムタイプ(傲慢な言い方の人)とコーディネートタイプです。 この人はファシズムタイプです。善意が行き過ぎたのではありません。 言い方が悪かったのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですね、言葉は生き物です。人が伝えることが別の人の人生を作る可能性をはらんでいることも考えれば、運命とは言葉が作るものかもしれません。 >ファシズムタイプ(傲慢な言い方の人)とコーディネートタイプです。 なるほど。とても参考になりました。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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訂正と追記。 >注意するのは当然だのような 言い方と態度に女性も腹が立っていた :「その善はいりません」といえばよろしいのでは? と言ってはみたものの、その女性が腹を立てるのは 彼女が「あたくしこそ正しい」と思っているから。 「間違えていますよ」と伝えるのは勇気がいる、 「ああ、あたくしが間違っていた」と認めるのもまた。 しかし ◇「注意をしていただいてありがたい!」と感じるか ◇「このあたくしに注意なんかしやがって腹立つ!」 と感じるか それはその女性次第。 どちらの感じ方がその女性にとって気分が良いかしら? おいらは急いで出勤の準備をしているときに、 娘息子が「かあちゃん、ほっぺに米粒ついてるよ!」 と言ってくれたら、忙しいその瞬間ムカついても 数分後か、遅くても数時間後にはたいてい感謝する。 >(女性や子供)をターゲットにしているのだとしたら :相手を選んで小言を言っているのなら、もしかしたら それは【善】ではなく【八つ当たり】【気晴らし】 【快感のための自慰行為】と呼ぶのかもしれません。 人の間違いを指摘するというのは素晴らしい行為です。 人は指摘されないと間違いに気づけないことが多いので。 本当に人のためと思うなら、すべての人にそうすべき。 パーセントの話が出ていたのでついでに。 改めておいらを眺めてみたところ、どうやら 口が90%、目が5%、耳が3%、手足が1% 他のいろいろが1%、のように思えてきました。 ずいぶんしゃべりすぎてしまいました。 お邪魔しました。
お礼
補足ありがとうございます。 感情って伝染しますよね。その女性はもしかしたら男性と同じ問題を抱えているのかもしれません。 それ以前に、男性の話の内容ではなく、態度に腹が立ったのではないでしょうか。 口角をあげて「危ないよ」と言えばつられて相手も「ご注意ありがとう」と言えたかも。怒りは攻撃ですが、怒る人の防衛でもあります。その無意識のターゲットにされ、彼と同じ恐怖を感じれば、女性も同じ感情と態度で返すことでしょう。 とはいえ、怒りは瞬間なものですから、回答者様のように、数分後には冷静でいられるものなら心身の健康のためになる。どのようにセルフコントロールされているのか知りたいところです。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
こんばんは、りふぁいんさん。 >「あなたを思ってのこと」というセリフ :「偽善」というのは 「【人】の【為】と (わざわざいいふらして) 【善】をする」と書きます。 「してやった」とわざわざいいふらすと疲れる、 「してやった」のに「感謝してもらえない」 しかも「文句を言われる」と【感じる】のは疲れる、 それなら、しなければいいかというと そうでもないのぢゃないかと思います。 人に騙されたり文句を言われたりするのは 前もって分っていることですが、 自分に騙されないようにするのはむづかしい、 善をしたいのならしたらよろしかろう。 また善をほどこした相手に「その善はいらない」 と言われたら「それは失礼しました」と応じれば済む。 たとえば友人を家に招いてパーティをする、 あなたは友人のために腕をふるってご馳走を作る、 そのご馳走を友人が食べなかったらどうなるか? あなたのところに残るだけ。 あなたが「いただきますごちそうさま」と言って 堪能して噛みしめて食して喜べばよろしい。 >もしその人が言いやすい相手(女性や子供)を ターゲットにしている :勝手に人をラベリングしてしまうのが人ですが、 できることならすべて人は対等に善」と捉えて モノを話すべき。自分がターゲットにされたら? 宝くじは自分に当たり雷は他人に落ちるもの、 と思っているのなら、そいつはおめでたい。 ゆるすとかゆるさないとか なんぱーせんととかの問題ではないと思うけど。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >善をほどこした相手に「その善はいらない」 と言われたら「それは失礼しました」と応じれば済む。 そうです、このことが私がこの男性に言いたかったことかもしれません。 回答No.1の回答に愛のへだたりとありましたが、私は男性は寂しいのかもしれません。 自分で認めたくない感情のアプローチは、言葉どおりの直接的なものではなく、歪曲された表現が多いと思ってます。 人を怒らせたり傷つける行為に、その人の寂しさや愛の欠如が隠されています。だが、できるだけネガティブなことは表現したくない。そこで「正当性」を借りて主張します。しかし感情的になればなるほど、トラブルやエピソードの中にはその人の抑圧された感情が投影されているものです。たとえばこの男性の場合なら、嫌いだった父親や教師が彼に同じことをしていたかもしれません。そこで誰かに同じことをして父親と同じ行動をするか、それとも父親への怒りを晴らすのか、それとも人が自分に頭を下げるのをみたかったか、感謝されることがない人生なのか…。
- shift-2007
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善意100%以外はすべて偽善だというなら何もできないんじゃないでしょうか それとも90%なら許す? 何%までOK? そもそもどうやってその割合を図る? マザーテレサは愛の反対は無関心だと言っていましたね。 偽善大いに結構
お礼
ご回答ありがとうございます。 こういうことは数量で計れるのですか。 あと、マザー・テレサのいう無関心とはそのような意味ではないと思いますよ。愛を語ればなんでもできるのですか?蛇足ですが、私は愛の反対は無関心ではないと思っています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よい哲学の言葉ですね(どなたのでしょうか)。 「じぶんが高められたように感じる」というような人が多すぎる気がします。己れを知り、ものごとや自他について冷静に客観視できる人が好きです。 人間は完璧ではないですし、向上心があれば誰でも今の自分に満足しないでしょう。自分を知らない人でも良い人になった気でいたい人は、既成のものを借りるのでしょう。このようなケースは、マナーなどという世間の既成概念や権威を借りた威光効果を無意識に利用しているのかとも思います。 >自分と自分の愛するものとの間にあるへだたり 常に私も感じていますが、さらにへだたるかもしれないのに、人と関係を築くのができない人は、こういう間違ったアプローチをしてくるものです。