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節分についての疑問
- 節分は古くから春の始まりを迎える日として特別に扱われてきました。
- 節分の行事は奈良時代に中国から伝わり、平安時代には宮中行事として定着しました。
- 豆まきが始まる前は、節分を特別な日としているための食べ物などがあったかは明確ではありませんが、特別な儀式や祈願が行われていた可能性があります。
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>どのようなことをして節分を特別な日としていたのですか。何か特別な食べ物等があったのでしょうか。 お読みになられた記事は、だいぶ舌足らずです。 判り難かったかと思います。 「節分」「追儺」というのは、本来別々の意味を持った言葉です。 現在の節分の風習は、本来の「節分」と追儺の儀式が重ね合わされてできた風習です。 「節分」というのは、春夏秋冬の各季節が始まる前日を指す言葉です。 現在は春の節分のみですが、本来は年に4回あります。 季節の初めの日を、立春、立夏、立秋、立冬と呼びます。 季節が変わる毎に、邪気払いの行事が行われていました。 前の季節の邪気を払い新しい季節を迎えるという主旨です。 奈良時代のころから行われていました。 邪気を払う力があるとされた桃の枝で作られた弓で矢を飛ばしました。 この桃の弓矢に代わって室町時代のころから炒り豆がまかれました。 豆は五穀を育てる霊力をもったものと考えられていました。 これを蒔いて魔滅するという語呂合わせのようなことを考えたようです。 豆を魔目とする語呂合わせもあります。 江戸時代に入り春の節分だけが行われるようになり庶民にも広まりました。 追儺は宮中で行われる、年末年始の行事の一つで、平安時代から始りました。 古い年の邪気を払って、新年を迎えるという主旨の行事です。 旧暦では立春を一年の始まりと考えました。 立春は、冬至とか春分の日と同じように太陽の運行を基準に決められていました。 一方、カレンダーである暦の月日は月の運行を基準に決められていました。 結果的に、節分と大晦日は重なったりズレたりしていました。 節分の邪気払いと大晦日の邪気払いの儀式の主旨はよく似ている上に、日時も接近していることから、邪気払いの儀式は節分に統合されていきました。 とくに江戸時代に庶民の間に広がるにつれて、全く別な行事となりました。 ということで、節分の豆の前はなんだったのか、といわれても咄嗟にはお答えができません。 追儺の儀式をあてはめるのか、本来の節分の儀式をあてはめるのかで変わってきます。 鬼と煎り豆との関係については 宇多天皇の時代に、鞍馬山の鬼が出て来て都を荒らすのを、祈祷をし鬼の穴を封じて、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたという伝説もあります。 日本では邪気の具現化した象徴を「鬼」と表記しますが、中国では死霊を意味します。 この鬼が嫌がるものとして鰯とか柊などが伝えられています。 柊の枝に鰯の頭を刺し通したものを宅地の鬼門に当たる場所に差立てたり、門柱に飾り付けたりする習慣もあります。
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- eld3399
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地球人として、重要な日だと思います。
お礼
とても詳しくわかりやすく解説してくださりありがとうございます。 節分、追儺の違いも分かって助かりました。 参考にさせていただきます。