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愛の認識について

愛とは自己犠牲の上に成り立つものなのでしょうか?相手の幸せが自分の幸せということはそこに自分の意志や考えがないと思います。 その思考で行くとそのまま自分を封殺することにより失われて発展していくのが難しいのかなと思いました。皆さんの認識や考えお願いします。

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回答No.2

愛とは・・・・と、人間に共通するいわゆる「愛」はありません。 それぞれの人にある愛なるものを共感しているにすぎないのです。 その人に愛がなければ、その人が愛を理解することは不可能ですし、誰とも共感することはできません。 恋人同士が一つの愛を共有しているのではなくて、お互いの愛を共感しあっているということです。 誰かの愛が愛ではないとか、誰それの愛は素晴らしいとか・・・そんなことを言う人の愛の判断基準も自分の愛にしか成りようがありませんね。 質問の自己犠牲も人それぞれですので、貴方は貴方の愛を愛らしく育ててくださいませ。ここでどんな話を聞いても、貴方の確固たる愛を元にするしかないのですよ。

silverdog777
質問者

お礼

なんか自分の道筋が少し掴めそうな気がします。ありがとうございます。

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回答No.1

>相手の幸せが自分の幸せということはそこに自分の >意志や考えがないと思います どうしてそうなるのでしょう? 短絡的に物質的な状態のみが意志の対象であり、状況 についての意志は、他律的だという根拠は? そもそも生物的な根源的衝動たる「生きる事」は、いかなる 物質的状態でもなく、環境に合わせて発露するものですが、 それを「環境に流される事だ」と言うのでしょうか? おそらくあなた自身が即物的な欲求のためにのみ生き、 労働(他人のために生きる事)は、お金をもらうために嫌々 やっているから、そういう固定観念になるのでしょう。 生きる目的は、物質の獲得ではなく、精神的充足の最大 化です。 そしてその精神的充足の対象は、物質的なものばかりでは なく、認識しえるあらゆるものが対象になります。 そして社会生命(助け合い)において、最も尽くした方が、 最大限に得る事につながるのです(社会性が十分発展して いれば)。 互いに自己犠牲すれば誰も犠牲になる事はなく、自己犠牲を 嫌う自己チューな意識こそが、誰かに自己犠牲を強いるのです。

silverdog777
質問者

お礼

ご指摘通り短絡的な考えしかできない状態に自分は今はあると思います。 他律的だと思う根拠は異性を好きだからと嫌なことや、ダメなことも許してしまって我慢して振り回されたという経験から自分を封殺し自己表現などが考えなどうまくできなくなりといったことからそういう考えに至りました。 環境に流されることが相手の幸せ{相手の作った環境}みたいな認識になってるんだと思います。 自分が未熟な部分があるんだとおもいます、労働{人に尽くすこと}相手からの愛情や笑顔の見返りがほしいと思ってしまいます。お金でもいいです。 自己犠牲を 嫌う自己チューな意識こそが、誰かに自己犠牲を強いるのですというのはそうだと思います。 指摘して頂いてありがとうございます。