#2です。不備な回答をしてしまったので、気になっていました。
そうです(笑)。
永劫回帰がなんで生を肯定する思想なのか。
その核心部分にふれていません。
実はそこがよくわからなくて意図的にすっ飛ばしたんですが、やはり気になるので、ハイデッガー『ニーチェ(1) 美と永遠回帰』(平凡社)を見てみました。
まず、#2で引用した部分は、『ツァラトゥストラ』の中でも永劫回帰をわかりやすく言った部分だと思って、付箋をつけておいた部分なんですが、どうもハイデッガー先生によると、引用としてはおおいに不適切な部分であったようです(どこをどう読んでるんだかね…)。
この部分はツァラトゥストラではなく、生き物たちが語っている部分です。
ツァラトゥストラの教えの部分を、美しい体裁でツァラトゥストラに演じてみせる。
ハイデッガーは「この知は知ではない」と言います。
「彼が苛烈な戦いによって得た《同じものの永遠なる回帰》の言葉を、彼らは早くも月並みな曲に作り、しきりと演奏しているが、本質的なことについては、侏儒と同じく何も知っていないのである」(『ニーチェ (1)』p.369)
永劫回帰の思想は月並みな歌になってしまう。間違って、安直な理解のされ方をしてしまうのです。
それはどうしてか。
どんな災厄が起こったとしても、すべては過ぎ、また移り変わると考えることで、「人はいかなる決断も迫られずにすむ」からなんです。
けれども当然それは誤った解釈である。
ハイデッガーは永劫回帰の思想の意義を、こう語ります。
「将来において何が起こるかはまさに決断に懸かっているのであり、回帰の輪はどこか無限の彼方で結ばれるのではなく、輪が切れ目のない連結をとげるのは、相剋の中心としてのこの瞬間においてなのである。回帰において何が回帰するのかは、この瞬間によって――そして瞬間の中で拮抗し合うものを掌握する力によって――決せられる。永遠回帰の教えにおけるもっとも重い本来的なものは、まさに“永遠は瞬間にあり”ということであり、瞬間ははかない今とか、傍観者の目前を疾駆する刹那とかではなく、将来と過去との衝突であるということである。この衝突において、瞬間は本当の瞬間になる。それは、すべてが如何に回帰するかを規定するものである」(同p.372)
けれども、もしいっさいが回帰するのであれば、ツァラトゥストラが憎む矮小な人間もいっしょに回帰せざるを得ない。
「最大の人間もあまりに小さい。――これが人間にたいするわたしの倦怠だった。そして最小のものも永遠に回帰すること――これが生存にたいするわたしの倦怠だった。
ああ、嘔気、嘔気、嘔気。――そうツァラトゥストラは言って、嘆息し、戦慄した」(『ツァラトゥストラ』第三部 快癒しつつある者)
けれどもツァラトゥストラは、彼が軽蔑していたものの回帰さえ肯定し、肯定することで病気から恢復していくのです。
もちろんこれはハイデッガーの独自の見方、人間を世界-内-存在とする自身の思想を導いていくためのニーチェの読み直しの、しかもその断片にしか過ぎません。
それでも、たとえば、自分が繰り返し繰り返し生きたいと思えるように、いま現在の生を生きよ、という解釈などにくらべて、よほど説得力があるように私には感じられます。
ハイデッガーの引用部分含め、読み方がこれで正しいかどうか、まったく自信はありませんが、以上私はこんなふうに読んだ、ということで。
不明な点があれば、ご質問ください。
また読み方の不十分な点、誤っている点などありましたら、どうかご指摘ください。