> 世の中には明確に定義付けできない言葉があります。
というか、すべての言葉がそうです。
たとえば「電話」。
ハンドルをぐるぐる回して交換を呼び出す明治時代の電話から、黒電話、スマホは言うに及ばず、糸電話まで、すべてをくくるのは不可能です。
それから、イチゴ、スイカ、メロンは園芸や農林水産省の「野菜生産出荷統計」では野菜に分類されていますが、我々の常識とは違います。
「辞書」も普通の国語辞典から、類義語だけが載っている語彙集、意味の載っていないアクセント辞典なんてのもあります。
そういえば辞書の編者泣かせの言葉として、「右」と「左」などがあります。辞書でその定義の違いを楽しむことができます。
あるいは「石」と「岩」の違いを明確に定義によって区別することはできません。
かつて哲学者のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは(以下、Wikipediaから引用)
その著書『哲学探究』のなかで、「ゲーム」(独: Spiel)という語をとりあげ、「ゲーム」と呼ばれている全ての外延(対象)を特徴づけるような共通の内包(意義)は存在せず、実際には「勝敗が定まること」や「娯楽性」など部分的に共通する特徴によって全体が緩くつながっているに過ぎないことを指摘し、これを家族的類似と名付けた。この考え方はプロトタイプ理論とともに、語の定義を必要十分条件で規定しようとする古典的なカテゴリー観へのアンチテーゼとなっている。(引用終わり)
言葉に明確な定義づけはそもそも不可能なのです。
ただその時々の状況(その場の雰囲気から、文化や時代まで含む状況)にあわせて、無理矢理枠をはめているだけです。
状況が変われば定義は変わるし、逆に状況さえ決まれば明確な定義が可能となります。
大人も法律上の成人を指すのであれば、現代日本では二十歳以上です。
もちろん、状況によって変わります。
ではなぜ、言葉には明確な定義がないのでしょうか?
それは状況というのは瞬時にして大きく変わるものであり、そのすべてに対応しなければならないからです。
厳密に定義してそれ以外は認めないのでは、日常生活もおくれないからです。
お礼
ありがとうございます。