• 締切済み

高校生です。自分の性格について悩んでいます。

僕は高校三年生の学生です。自分の性格について、客観的な意見を頂きたくて、質問をしました。見苦しい文章になるとは思いますが、どうかご容赦ください。 まず、第一に、僕は他人とうまく付き合うことができません。他人が恐いのです。他人に排除されることが、陰口を言われることが、嫌われることが恐いです。その恐怖が邪魔をして、人と新たに友人関係を築くことができません。付き合えるのは、信頼できると確信した人とだけです。新たな友人が欲しいとは思います。でも、できないんです。 被害妄想も激しいです。電車や教室で聞く笑い声やちょっとした悪態も、すべて自分への嘲笑や罵りに聞こえてしまいます。そんなものは馬鹿げた妄想だとは思うのですが、そんなことを思わずにはいられないのです。そして、今度はそんな妄想をしてしまう自分に腹が立ってきます。なんで自分はまともな思考が出来ないんだとか、自分の心はなんて弱いんだろうとか、そんなことを考えてしまいます。 第二に、僕はいつも憂鬱です。起きているあいだ中、いつも不安と抑うつ気分に押しつぶされそうになっています。朝から昼までにかけては特にひどくて、泥の中にいるような気分で過ごしています。昼以後もそれが完全に晴れてくれることはありません。運動をしても、映画を見ていても、趣味の小説執筆をしていても、どこか心はどんよりしたままです。そして、夜は不安で眠れません。ベッドに横になると、すぐに過去の失敗や将来の問題を思い浮かべてしまいます。それで、いてもたっても居られなくなって、飛び起きて本を読みます。本を読んで心を落ち着けて、また床につくのですが、やっぱりまたすぐに不安がやってきて眠れなくなります。 こういう状態が4年ほど続いています。このままでは、社会進出も難しいのではないかと思います。それに、いまの状態は僕にとってあまりに苦しいものです……。甘えだというのはじゅうぶん理解しているつもりですが、それでも僕はこの苦しみから抜け出したいのです。 でも、僕は主観的にものごとを判断しているにすぎません。冷静に判断出来ていない。だから、客観的な意見が欲しいのです。 僕はカウンセリングを受ける必要があるのでしょうか?カウンセリング以外の方法なら、どんなやり方で現状を克服できるでしょうか?このままで社会進出が可能でしょうか?僕の精神状態は、客観的に見てどれほどおかしななものなのでしょうか?それとも、それほど大した悩みではないのでしょうか?みんな、これぐらいの悩みは抱えていて当然なのでしょうか……。 勝手に喚きちらして、答えを得ようというのは勝手な考えだとは思います。でも、どうすればいいのかわからないんです。両親に相談しようかとも思いましたが、あまり心配をかけたくないのです。 カウンセリングに詳しいかた、過去同じような苦しみを抱えていたかた、その他言いたいことがあるかたは、ぜひ回答をお願いします。 苦しい文章で申し訳ありません。クリックしていただき、ありがとうございます。

みんなの回答

  • 783KAITOU
  • ベストアンサー率43% (1758/4022)
回答No.3

アドバイスです。 まず、あなたが最初に仰っている他人が怖い。と、言うことは、他人の目を通してご自分観て、自分自身を批判されているのです。他人から観れば自分はこの様に見られているだろう。と、いう評価を自分に下している、心の働きです。 あなたはこれからの人ですので、早期に心の問題を解消されるように願います。その為には心の仕組みについて分かっていると悩んでも簡単に解消できますので、心の世界の異常について基本的なことを以下に書いておきます。 「心の世界の異常」 自分は何を考え、何を感じているのか、他者と、どうかかわればいいのか、どう生きればいいのか、分からない。と、いうようなものが心の世界の異常です。 悩みは、自分はいま、生きていない、生きられない、というように意識し感じている、という一点に集約され、集中しています。 ここでの生きれない、生きていない、ということは、生理的な自然の生命の切断とは、全く関係ありません。観念(心・精神)の自分、つまり、心的な世界としての自分が、現在の位置から、これからの将来にかけての自分(心的な自己)のあり方としての時間的な見透しが切断されていると思えるし、非常に危うく、脆弱に思える、という意味のことです。 時間的な見透しというのは、意味、価値の事であります。一般的な言い方に置き換えると、希望や目標、夢や理想などのビジョンの事です。このような有価知性が、将来にも見定められないし、現在にも、いささかも感じられない。今を正しく生きることが、明日を正しく生きることに通じる。今の状況を正しく生きることが、将来をも、正しく生きることに通じる。というのが、生き方の根源的な定義であります。 「悩みの発生の仕方」 他の人にとっては、何でもないのだけれど、自分だけ、どうして苦しむのか、不安を感じるのか、の違いの意識として自覚的になり、明確に感得されるものです。 悩みの対象がなんであれ、違い、という落差、差異として感じられる。この、落差、差異とは、あるべき水準に対しての退行状態、悩みが悩みとして異常性を発露してゆくのは、つまり、心的な現象としての、異常性を現象してゆくのは、本来あるべき自分の知性や理性の水準からの落差や差異を感得し、退行した状態の位置(以前はちゃんとやれたのに、いま、どうしてうまくやれないのか?の意識)に立ちながら、そこでなおかつ、それにもかかわらず、欲求の実現(希望や夢の知性や理性の水準)に向かって自分が、本当の真の自分の姿である、と思い込み、固く信じつづけるという場合です。 あるいは、過去、何度も、自分の欲求を実現させた、と過去の体験や経験の中の知性や理性の水準の中の自分を、真の、本当の自分と固執し、執着し続けるとき、自分は二つに分解されるのです。 心像によって、自己が二つ形成され、ここで自己差別すると、分裂が強調される。分裂してしまっている、二つの自分は、一方は退行してしまっている自分、もう一方は、過ぎし日の幻の自分、あるいは、鬼火のように手招きしている虚影の自分、のいずれかです。 分裂してしまった二つの自分の悲劇は、現実において、どう生きればいいか分からない、という現実意識の喪失として、無為の状態に陥ってしまいます。自分と自分との間をいきつ戻りつの中で、自分は変だ自分じゃない、というような意識になることを、この心的な現症をさして、普通、離人症と呼んでおります。 「他者を基準にした、不安や憂うつ、悩みというものは、一体どのような仕組みで発生し、感得されるのか?」 現実の対象に向けて関わりをもつという関係意識のことです。生きる、生きていくというのは、その本質的な意味は、欲求、欲望ということでありますから、生きる、生きてゆく、という関係意識を具体的にいい換えると、名誉欲、金力欲、権力欲、ということになり、この三つの欲求ないし、欲望が窮乏化しており、貧困化し、安定化と継続化の道が非常に切断されているというように、強く意識され、ここで、不安や憂うつが感得されます。 この三つの、人工的な欲求とは、社会的な安定を得られる仕事に携わっている、誰の目からみても、安定した経済性を維持している、仕事や経済の安定性を継続できる関係性を所有し、維持し、持続させている、といった社会現実の中の規範性(秩序・交通の構成)のことです。そのコトバの究極的な意味として、安定化、と継続、維持、持続の到達概念が、名誉であり、金力であり、権力です。 名誉、金力、権力は、このいずれか、または、その全部が獲得できて、所有することができさえすれば、自分は生きてゆけるし、同時に、生理的な身体の生存も維持できる、というように万人に共通し意志されていて、共同の意識であるということができます。 今、そして、これから、どのように生きてゆくのか?の具体的な意味、つまり、行動や行為の実際のあり方や、また、その目的の具体性として誰もが考え、みんなが意識し、意念している、そういう欲求であり欲望であると定義的にいえます。自分の行動や行為のあり方とは、現実社会そのものに対する関係意識のことです。 2極に分裂をうながしているのは、内面の世界の中での、あるべき自分の姿を思念している虚像であり、この虚像に価値を認め優位化している、という関係意識。当然、現実に生きている、自分は、幻のように稀薄にしか感じられなくなるのは当たり前のことです。 「他者が気になる、気にするは、体験の作為感と強制感の心的な現象」 自分にとっての現実的な、必然性も根拠がある行動、行為であるが気になるというのは、内面の世界で、既に虚像としての自分のイメージが形成されていて、ここでの自分の行動や行為のほうが意味があって、価値が高いと、優位に立てられているわけですから、現実の生身の行動や行為は、そこに必然性や理由があろうとも、無理強いされているかのように受感されることになります。 強制されているかのように感じられ、実在の他者がいるとすると、その他者が、作為と強制の当事者のように感知される。 これが、気になる、気にする、という、強迫観念の内容です。 アドバイス 一義性を回復すること。思考と行動を一致させること。 現実的な物質秩序、ものの構成を規範どおりに取り扱うこと、扱い方、処置の仕方も、ものの構成どおりの規範に即応してゆく、現実の事物の内容や意味を了解し続けてゆくこと。あるいは、ものごとを必ず媒介にして思考し、言葉や行動を表してゆくことになります。

aluihaorz
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自分の悩みもこのようなメカニズムで発生しているのでしょうか……だったら早く直さなければなりませんね。 悩みの構造を知ることが出来ました。ありがとうございます。

  • yushio
  • ベストアンサー率11% (23/201)
回答No.2

自信と決断力が欠けている感じがあるので、 友達増やしたいなら、ここを改善しましょう。

aluihaorz
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自信と決断力……たしかに欠けている自覚はあります。 頑張って自信を取り戻したいと思います。

  • qpu1iwr9
  • ベストアンサー率42% (48/113)
回答No.1

こんにちは。 昔の自分の文章をみているようで(お気に触ったら申し訳ありませんが)とても愛おしく感じてしまいました。 お力になれるかどうかはわかりませんが、気休め程度に読んで頂ければと思います。 私は中学3年から大学1年にかけて、どんよりとした曇り空の中にずっといたような気がします。時々雨が降ることがあっても、決して雲が晴れることはありませんでした。 しかし、なぜか自分では確信していました。この雲がいつか晴れるということを。その確信が、今まで生き延びる糧になっていました。 夜は不安に押しつぶされ、意味もなく涙が止まらなくなり、消えてなくなってしまいたいと願い、存在することに苦痛を覚えるような、そんな日でも、きっとこれは治るんだと信じていました。なぜなら、生まれた時からそうではなかったからです。 私の場合は、知らず知らずのうちに人間関係に疲れきっていました。作り笑いを浮かべ、集団から浮かないように、気を遣い、それが当たり前のこととなっていました。 そうしているうちに、自分の行動に自分で制限を付けるようになっていたのです。それがストレスとなって、憂鬱や不安、怒りを生み出していることを悟りました。 大学に入り、誰とも付き合わなくてもよい環境になり、私は初めて一人になりました。最初はひどい孤独感を感じました。しかし、その中で私は自分の傷が癒えてゆくことに気付いたのです。 みんなは孤独の恐ろしさを説いても、孤独になることの大切さは教えてくれません。 孤独は私に、元の自分に戻る方法を教えてくれました。 他人がどうしたいのか、ではなく、他人にどう見られたいのか、ではなく、自分がどうしたいのか。 それをもう一度教えてくれました。 何が嫌と感じて、何が好きなのか。 自分という姿が明瞭になるにつれて、だんだんと寂しさは消えてゆき、他人を必要としなくなりました。 あんなに人の顔色を伺っていた私が、他人にどう思われるかを全く気にしなくなったのです!嫌われることも、排除されることも、恐ろしくありません。なぜなら、それは自分の価値には一切関係がないからです。自由になったのです。 そうなってからは、自然と友人ができるようになりました。以前のような友人ではなく、もっと親切で優しく、寛大で常識的な友人ができました。 長々と語ってしまいましたが、これが私の経た道です。 質問者様が今後どの道をゆくのか、それはわかりません。 しかし、私の来た道をくるのであれば、きっと、未来的にはあなたは自分の性格にむしろ愛おしさを感じているはずです。他者と比べた自分の性格ではなく、自分のありのままの性格そのものに。 非常に抽象的な表現になりましたが、読んで頂きありがとうございました。

aluihaorz
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自分がどうしたいのか……確かに忘れていたような気がします。大切なことは、「他人」にどう思われるか、ではなく、「自分」がどうしたいか、ということなのですね。 僕はまだそれを明確に持っているわけではないので、これから自問していきたいと思っています。でも、回答者様のおかげで、これから何を考えてゆけばよいのかが分かってきた気がします。 親身になって、回答してくださってありがとうございます。もう少し、他人の目を気にすることなく生きてゆきたいと思えました。

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