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石垣りんの詩

「挨拶」第4連の意味を教えてください。 前後を読むと、「明日の表情」とは「一瞬にして被曝した焼けただれた顔」への暗転、だと思うのですが、解説書などには違うことが書いてあります。曰く「今の平和に安心しきった顔」などと。それでは、第3連で既に述べていることと同じであって、今さら「慄然とする」ことはないと思うのです。 どうぞ、よろしくお願いします。

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noname#194156
noname#194156
回答No.5

No.3、4です。 当方、回答を要領良く纏められませんでしたが、趣旨を理解していただけたとのこと。 ありがとうございます。 >私が当初に感じた「2度目の被曝で焼けただれた明日の顔の幻」が一瞬、目に浮かんだ、という解釈も否定できないのではないでしょうか。 この詩は「過去 ― 現在 ― 未来」を人々の表情(思い)から読み取ることで、全ての時が単独で存在するのでも無縁でないことを説いています。 作者が慄然とするのは、時代時代を切り取って無縁の物、無用の長物として扱ってしまうことだと思います。 『挨拶』第3連、後半のこの箇所 >戦火の後もとどめぬ すこやかな今日の顔 すがすがしい朝の顔を の直後に、 >その顔の中に明日の表情をさがすとき 私はりつぜんとするのだ と言葉が続きますが、「明日の表情」という対比表現を使うことで、読者を一瞬にして原爆投下直後のヒロシマに誘い、「被爆で焼けただれた顔」をフラッシュバックさせる効果を狙っているというのは確かにあると思います。 また、この詩が過去から始まる以上、「明日の表情(未来)」と「ヒロシマの被爆者の焼けただれた顔(過去)」が無縁ではないということは、詩を最後まで読めば解る仕掛けになっています。 しかし、最後まで読まずとも、ご質問者が「被曝で焼けただれた明日の顔の幻」が一瞬、目に浮かんだのは、その時々が決して無縁ではないという作者からのメッセージが、文章としてよりも「視覚的にダイレクトに伝わった」結果だと思います。 視覚に訴えるだけの力強さを持った構成であることを感じ取ってもらえたのなら、作者も本望なのではないでしょうか。 これは私の解釈ですが、作者は友の明日の表情の中に「被曝で焼けただれた顔に対する苦渋の思いと平和への誓いを求めた」、つまり、「自分がいつ被曝者になるのか解らないという緊張感、被曝で焼けただれた明日の自分たちの顔を思い描くことを望んだ」しかし、現実にそこにあったのは、ご質問者が読んだ解説書にあるような「今の平和に安心しきった顔」だった。このことで作者はその危機感の無さに「りつぜんとするのだ」と。 詩人は、「被曝で焼けただれた明日の顔の幻」を読者に見せて、それを回避する努力を惜しまないでくれとメッセージを送っていたはずなのです。 例え、目の前にいる友の顔が「今の平和に安心しきった顔」であっても。 >つまり、「ルビンの壺」のように、二通りの解釈が可能な詩ではないか、と思うのですがどうでしょうか。 「なるほど」と思いました。 「明日の表情」が「今の平和に安心しきった顔」である限り、「被曝で焼けただれた明日の顔」は無縁ではないですよね。 平和と悲劇は隣り合わせだというこの詩は、仰るとおり、「明日の顔」に「ルビンの壺」のように二つの顔を持たせていると思います。 ご質問者の解釈は私とはまた違うところにあるかもしれませんが、 私の友の顔は「今の平和に安心しきった顔」だけれど、友にもあなたにも「被曝で焼けただれた明日の顔」を生み出さないように、危機感を持って現実に立ち向かって欲しい、そうあるべきだ。 ――というのが「明日の顔」に込められた詩人の想いだと捉えると、この詩の奥深さがぐっと増しますね。

gesui3
質問者

お礼

三度にもわたり長い回答をありがとうございました。

その他の回答 (4)

noname#194156
noname#194156
回答No.4

No.3です。 仰りたいことは解ります。 しかし、申し訳ないですが、やはり私の解釈は変わりません…。 >4連で作者が述べるのは、貴方のおっしゃるような「明日への表情」ではありません。「明日の表情」です。 No.3での私の回答  ↓ 第四連:友と平和を確かめ合うが、友の顔の中には「明日への憂いがない」      という事実を私は知る。      「友は過去を過ぎ去ったものとして受け止め、      油断しきっている事実に私は慄然とする。」 回答に対する補足: 先ず、“4連で作者が述べるのは、「明日への表情」ではありません”ということでしたが、「明日の表情」=「明日への憂いがない」と回答にはありますが、「明日に対して憂いがない」という意味に受け取ってください。 第3連で作者は友の「戦火の後もとどめぬすこやかな今日の顔、すがすがしい朝の顔」を確認します。そして、友には「明日(未来)」に対してどのような思いがあるのかを探ります。 しかし、友にとっては、今日も明日も同じだということを作者は悟ります。 つまり、友は明日に対して何も憂いは持っていないということを知るのです。 今日の次には今日と寸分違わぬ明日が、今日と寸分違わぬ平和な未来がこれからも続いて行くと友は信じて疑わぬ表情をしていた。 友は、明日という日に対して特別な思いを描いてはいないとも言える(今日の延長という捉え方でしかないから)。 言い換えるのならば、友には「今日の表情しかない」し「明日の表情も明日への特別な思いもなく、異変を身近なものとして畏怖することもない」のです。 友にとっては「今日=明日=平和な日々の繰り返し」ということに対して、作者は「慄然とする」というのが私の解釈です。 石垣りんの『挨拶』の第3連~第5連を原文から引用します。↓ - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - とはいえ 友よ 向き合った互いの顔を も一度見直そう 戦火の後もとどめぬ すこやかな今日の顔 すがすがしい朝の顔を その顔の中に明日の表情をさがすとき 私はりつぜんとするのだ 地球が原爆を数百個所持して 生と死のきわどい淵を歩くとき なぜそんなにも安らかに あなたは美しいのか - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - >その顔の中に明日の表情をさがすとき 私はりつぜんとするのだ この後に、 >地球が原爆を数百個所持して 生と死のきわどい淵を歩くとき なぜそんなにも安らかに あなたは美しいのか と言葉は続きます。 これがあるので、私は、友にとって今日も明日も同じだ(明日の表情も変わらない)ということを推論したのです。 明日とは、未来とは、常にどう変化していくのか解らない。 不安の芽は依然としてあるのに、世界にはまだ原爆が溢れているのに、何故、友は明日を憂うことをしないのか? 世界は不穏な空気を核を抱えたままなのに、何故あなたは今日と同じ明日が来るものと信じているのか? ヒロシマの悲劇が繰り返されることを憂うことをしないのか? という疑問と警告が作者から私達へ投げかけられている、というのが私の解釈です。 *** >明日の表情など探さなくとも、今日じゅうぶんに油断して美しい顔をしているのです。それだけで「慄然」とする理由は充分ではありませんか。 ヒロシマの被爆者の写真を、恐らくは友と一緒に見つめ合った作者。 写真を見終わって過去から現在に引き戻され、恐ろしい戦争が終わり、復興を遂げた今の生活をともに確かめ合い安堵する。それが、「今日の美しい顔」ですよね。 「美しい顔」は「悲劇とは無縁の顔」です。 平和を喜び確かめ合うことから生まれた「美しい顔」。 しかし、このあと作者には疑問が生じます。 これで終わりではないのだと。 友と安堵し合った「美しい顔」の後、作者にはヒロシマの悲劇は繰り返されてはならないという思いが湧き上がったし、世界が保有する核爆弾は脅威でしかない。 作者には「明日の表情(憂い)」があるのに、「友には今日の顔しかない」。 「明日の表情」とは「過去の過ち(原爆投下というヒロシマの悲劇)を繰り返さない、繰り返させないという信念」であるし、「核爆弾の廃絶を望む心。平和な未来を築いて行く心」と言っても過言ではないと思います。 友の表情にはそういった決意が見られないから、何処か遠い世界の物語として切り離されているから、「私はりつぜんとするのだ」という嘆きが発せられたんだと思います。 >3連と5連の間に「明日の」表情を入れたのには、何かワケがあるのです。それは、焼けただれ、恐怖に引きつった顔/表情の「幻視」なのではありませんか!? 原爆が投下されたその日の朝のヒロシマの人々も、友と同じように、今日と寸分違わぬ明日が来ると信じていた。 『挨拶』の第7連で、言葉はこう続きます… - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 一九四五年八月六日の朝 一瞬にして死んだ二五万人の人すべて いま在る あなたの如く、私の如く やすらかに 美しく 油断していた。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 第4連で描かれる「明日の表情」とは、第7連の言葉を用いるなら、「やすらかに 美しく 油断すること」を指していると言えます。 そしてそれは、ご質問者が仰る「焼けただれ、恐怖に引きつった顔/表情」とは決して無縁ではありません。仰るとおり、3連と5連の間に「明日の」表情を入れたことで、作者には、読者にヒロシマの被爆者の「焼けただれ、恐怖に引きつった顔/表情」を想起させる狙いがあったと思います。 しかし、友は「焼けただれ、恐怖に引きつった顔」が自分とは、どこか無縁の出来事と思っていて、「明日も今日と同じ平和が続くと油断し切った顔をしている」ことが作者にとっては、慄然とさせるだけの重みを持った出来事だったというのが私の解釈です。

gesui3
質問者

お礼

二度にわたる長い解説をありがとうございました。 おっしゃる解釈がようやく分かりました。 3連=今日の安穏な顔 4連=明日も安穏であるであろう顔 5連=「常に」安穏でいられることへの疑義と反証(根拠) 一方で、私が当初に感じた「2度目の被曝で焼けただれた明日の顔の幻」が一瞬、目に浮かんだ、という解釈も否定できないのではないでしょうか。 つまり、「ルビンの壺」のように、二通りの解釈が可能な詩ではないか、と思うのですがどうでしょうか。

noname#194156
noname#194156
回答No.3

「挨拶」の副題は、“原爆の写真によせて”ですね。 調べてみたのですが、この詩は広島に原爆が投下された8月6日に合わせて掲示すべく、作者の勤務先の壁新聞に載せるために書かれたもの、まさに“原爆の写真によせて”ということでした。なお、前日の仕事中に僅かな時間で書き上げたということですから、作者は率直な気持ちを綴ったのでしょう。 第四連の解釈を含めた詩の流れを、順を追って次のように書き出しました。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 第一連:写真を通して被爆者一人一人の焼けただれた顔を見た驚き。 第二連:その写真に写った人々は、もう、この世にはいないという事実。   ~第一連 → 第二連:現在から過去へ心が引き寄せられる感覚(回顧)~   第三連:現在に心を引き戻し、仲間と今ある平和を確かめ合う   ~第二連→ 第三連:過去(戦禍)と現在(平和)の対比~ 第四連:友と平和を確かめ合うが、友の顔の中には「明日への憂いがない」      という事実を私は知る。      「友は過去を過ぎ去ったものとして受け止め、      油断しきっている事実に私は慄然とする。」   ~過去と現在をすっかり切り離して今だけに満足しきっている友と     過去の過ちがまた繰り返されることを畏怖する私との対比~ 第五連:第二次世界大戦を終え日本は戦禍を被ることは無くなったが、      以前としてこの世界には原爆が保有され、平和が脅かされている。      そのことを忘れてしまったかのように      穏やかで健やかな友の姿に驚く私。   ~第四連で友の表情を見て私が慄然とした理由を、     現在の世界状況、「原爆が廃絶されずに保有され続けている局面から説く」~ 第六連:今日という平和は忘却の中にはない。      過ぎ去ったことではなく今なお続いているのだ。      油断をするなと今いる人々へ警鐘を鳴らす私。 第七連:ヒロシマに原爆が投下された日、その朝の人々の日常は      今のあなた(今の私達)と変わらず、明日があるものと信じ切っていた。   ~やすらかさと美しさの中に、     決して“油断を忍び込ませてはいけない”     “平和と悲劇はいつでも隣り合わせだ”という作者からのメッセージ~    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -   違う意見を聞きたかったのだと思いますが、第四連に描写されている友の顔ですが、表現こそ違え私の感想も解説書と同じということになります。 詩の全体の流れから浮かび上がるメッセージとは、 「忘却によって繰り返される戦争の悲劇の回避と、目の前にある危機から目をそらしてはならない」という事実であり、もっと端的に言えば、 「見ないこと忘れることで、平和は決して保てない」ということだと思います。 (友の)「明日の表情」の中には、「現実に今なお残る原爆への恐怖はなく、今と決して無縁ではない原爆投下の出来事が過去のこととして処理されている」から、 >「今の平和に安心しきった顔」 と解説書にはあるのだと思います。

gesui3
質問者

お礼

はやり、釈然とはしません。 4連で作者が述べるのは、貴方のおっしゃるような「明日への表情」ではありません。「明日の表情」です。明日の表情など探さなくとも、今日じゅうぶんに油断して美しい顔をしているのです。それだけで「慄然」とする理由は充分ではありませんか。5連でも今日の美しい顔のことを言っています。何も明日の表情のことを言う必要もない…。 3連と5連の間に「明日の」表情を入れたのには、何かワケがあるのです。それは、焼けただれ、恐怖に引きつった顔/表情の「幻視」なのではありませんか!?

gesui3
質問者

補足

「はやり、釈然とはしません。」ではなく、「やはり、釈然とはしません。」の誤記でした。失礼しました。

  • CC_T
  • ベストアンサー率47% (1038/2202)
回答No.2

第3連と第5連の繋ぎとして第4連がありますね。 ここで見つけられる「明日の表情」は、「そんなにも安らかに/美しい」と見るべきでしょう。 明日が今日と同じであるという保証は何処にもないということを、全く意識せずに暮らしているという現実。 それが私を「慄然と」させているのですから。 「明日の表情」とは、「未来」の暗喩でもある。 かつての惨禍を引き起こした以上の原爆が、たった今も数百個スタンバイしているというのに、未来が明るいものと楽観的に暮らしていて良いのでしょうか? なぜ戦争が起こるのか。 しかも、それは私やあなたの知らないところで誰かによって決められ、ある日突然に、かつての原爆の惨状にも劣らない情景が世界のどこで再現されるとも限らないのです。

gesui3
質問者

お礼

貴方も解説文派ですね。ありがとうございました。

  • usagisan
  • ベストアンサー率71% (105/146)
回答No.1

詩の表現は、 「明日の『表情』」であって、 「明日の『顔』」ではありませんね。 「表情」は顔かたち、目鼻立ちではなく 心情の表れです。 焼けただれた鼻や頬を 指すのではないと思います。 慄然とするのは、次の連の 「地球が原爆を……」 の内容に対してでしょう。 核戦争の危機があるにもかかわらず 「安らか」な表情をしていられる ことに対してです。 「安らか」は顔かたちの表現ではなく 心情の表現のはずです。 最後の方に ヒロシマの被爆者が 「いま在る  あなたの如く 私の如く  やすらかに 美しく 油断していた。」 とありますが、 ヒロシマの人々は悲劇の到来を 予想することができなかったのです。 それに対して、現代の我々は、 その悲劇をすでに知っているにもかかわらず 油断して、「安らかに」過ごしている、 そのことに慄然とするのでしょう。

gesui3
質問者

お礼

解説書などと同じ見解ですね。ありがとうございました。

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