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物理の問題です、非常に困っています
生命(この質問では捕食、繁殖する有機物質の集合と定義)がこの時間と空間に発生して自己以外の物質を吸着して、一部では発散する。この過程では、系を適当にとったときエンタルピーが減少の方向に進んでいると思ってしまいます。 この現象は生命の生命に『意識』:{この質問では別の空間と時間から望まれるエンタルピ収縮の作用(補足:別の空間と時間では物理原理はこの瞬間の時間と空間に秩序を与える物理原理とは異なる)}が存在する理由の部分に当たりますか?
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- stomachman
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ANo.1へのコメントについてです。 > 胃男氏の著作 > コラムもとても面白かた ほえ? そんなの書いた覚えはありません。 誰か別の方の著作じゃないですかね。 > 胃男氏の言う心の理論は、心がないことを前提に行動だけに注目してそれを科学的な理屈の > ある現象(行動)とみなして、心の理論がその心もとない科学的根拠の補足として使われたの > か、それとも有心論の立場でその存在を認めた上で行動を考察したのかとても気になるところです。 有心論か無心論かに決着を付けようと思えば、他我問題というアポリアを避けて通れないでしょう。ですが、有心論も無心論も形而上学、つまり様々な現象の(検証できないけどソレナリに有効な)説明としてなら成立つ訳で、何も決着を付けなくたっていいんじゃないか。さらに、その決着とは関係なしに、「主体的経験に基づく現象論的な有心論」を開陳することができ、(それでは有心論あるいは無心論を論証することにはもちろんなっていないけれども)ソレナリに間主体性を持つ記述になりうる、という風に思っています。つまり、有心/無心という切り分け方にはさしたる意味がないんじゃ?あるいは、その場で必要とされる理解の深さに合わせてどっちを採ってもいいんじゃ?ということです。 「意識」を「自分自身のモデル」と捉えるなら、不正確でもいいからそのモデルを使ったシミュレーションが遂行できなくちゃそれはモデル足り得ないわけで、「意識」を持つ主体は、シミュレーションができるだけの構造を持っている必要がある。バネやサーモスタットには遂行できっこない。にもかかわらず「伸びたバネは縮もうとする」という理解の仕方が成立つのは、バネの意思というモデルを持ちシミュレーションをやっているのが(バネ自身ではなく)バネについて考えている主体の方だから。当たり前です。ですが、いちいちそんなことまで反省しなくたって、有心論のスタンスでバネの振る舞いを理解できさえすれば、もう「本当にバネに心があるの?」という問いはどうでも良くなります。それよりも「なぜ縮もうとするの?」という問いの方が切実であり、これに答えるためには「バネの意思」を解体して、「金属結晶の意思」に還元する必要が生じます。これが「必要とされる理解の深さに合わせて」の意味です。 さて、間主体性というからには有心論っぽく見えるかも知れませんけど、いやそういう話でもありません。他者の心がどこにあるかと尋ねたら、少なくともそれは主体である私の中になら、(誤っているかもしれない、イイカゲンな)モデルとして存在する。そしてまた、他者も私のモデルを(私の行動を観察して帰納することで構成した、誤っているかもしれないイイカゲンなモデルだけれども)持っているに違いないという想定のもとに、それ(他者の持つ私のモデル)を含めた他者のモデルを、私は持つ。ただし、このような相互の反映(「観照」とでも呼ぶべきでしょうか)がプロセスとして無限に続くわけではなく、あるいは一足飛びに不動点に行き着けるわけでもなくて、途中でだんだん曖昧になってしまう。でも、多少知恵が付いた子供がじゃんけんで何出そうか、と相手の顔色を観察する時には、少々深い所までその相互の反映を考慮するんじゃないでしょうか。このとき、有心論を(少なくとも)仮定して考慮をしている。(もちろん、考えてる途中でだんだん曖昧になってしまうのですが。)相手がコインやサイコロの場合には、相手がこっちの心を読む、というところまではあんまり考えないように思いますが、それでも負けが続けばだんだん疑念が湧いて来たりして。
- stomachman
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生命現象は閉鎖系の話ではなく、散逸系として見る必要があります。熱機関が高温の熱浴から低温の熱浴へ熱を移動させる過程でイロンナ面白い挙動をし、面白い規則的な構造を作り出すことがある、というのと本質的には同じ。意識は関係ありませんよ。熱力学+生命が神秘主義に繋がる、という病気は、多くのひとが若いうちに経験するハシカみたいなもんですから、あんまり気にしないように。 ================== 余談ですが:意識の正体は何か、ということについては諸説ありますけれども、stomachmanの思うに、重要なのは意識が自分自身に関する観察と予測を行う仕組みであること、つまり自分自身のモデルを中心に成立っているということです。 他者に意識があると思い込むことには、実はキチンとした根拠がない(他我問題(problem of other mind)と言います)。でも、観察している対象が心を持っていると想定することによって、対象の振る舞いが理解し易く(少なくとも納得しやすく)なります。これはヒトや高等な動物が本能的に持っている「認識の様式」であって、学習・社会性・利他的行動などの基礎であるし、また、汎神論や汎心論が生じて来る由縁でもあります。実際、人形やアニメの登場人物に心があるかのように思って、感情移入してしまいますよね。あるいは「伸ばされたバネは元に戻ろうとする」「高圧のガスは広がろうとする」のように、明らかに心を持たないものでも、意思があるかのように説明されると、なんとなく分かった気になります。他人についても同じことで、他人の振る舞いを解釈するにあたって、それがその他人のもつ心の現れなのだと思って納得している訳です。そのような、他者に心があると想定し、その心の働きとして行動を解釈する枠組みを「心の理論」と言います。「こういうことをすればこの人は喜ぶだろう。あーいうことをしたら悲しむだろう」という予測を立てることができるのは、その他者に関する心の理論(つまりモデル)を持っているからだ、という訳です。同様に、「もし自分がこうなったら、自分は喜ぶだろう。あーなったら悲しむだろう」と考えるのは、まだ経験していない状態における自分自身の反応を予測していますね。というわけで、自分自身に関する心の理論、これが意識の重要な側面でありましょう。 何かを「自由意志によって決めた」と自分では思っていても、実は決定をしたと思った瞬間よりも0.5秒も前に、すでに決定がなされている、ということがベンジャミン・リベットの実験によって示されています。これも、意識が自分の行動を、自分自身のモデルを使って「自分が持つ意思によって生じたもの」として説明したのだ、と考えれば、辻褄が合います。自分に心があると思っていること自体が、自分の振る舞いを筋道立てて説明するためのひとつの想定である、という訳です。 (以上はstomachmanが勝手に思っているだけのことですんで、あんまりホンキにしないように。)
お礼
ご回答ありがとうがざいます. 系はやっぱ全体(宇宙)なんですね! >熱力学+生命が神秘主義に繋がる、という病気 この発言に関してはいろいろ思うところがあります。 病気(現象)は人が考えた結果だと思います。 生命を観察した時にみられる秩序を、ラプラスが知ってるよ、とか解釈するのも、マクロに見ればこれも物理学さらに素粒子物理学に帰着してもこれらはホモがホモの知ってる秩序に近似しただけであって、少なくも曖昧さはあると思います。 つまり、スーフィズムも熱力も風疹かもしれないと思います。 胃男氏の著作も魅力的にかんじました こんど読んでみます。有心論や無心論の本は時折読んでみたりするのですが、後者の本はほとんどが物理的な理論から否定的な態度を示していて、『ほら、ないでしょ』みたいな論調でいてあまり好ましく思いません。有心論のほとんどの本では意識の定義にインクを費やしていました。 ちなみに私は有心だと思っています。(意識を科学的に単位量のある数値としてその存在の濃淡を程度であらわすことができると思っているからです) 胃男氏の言う心の理論は、心がないことを前提に行動だけに注目してそれを科学的な理屈のある現象(行動)とみなして、心の理論がその心もとない科学的根拠の補足として使われたのか、それとも有心論の立場でその存在を認めた上で行動を考察したのかとても気になるところです。 まだまだ、勉強の身です。コラムもとても面白かたです。ありがとうございました。