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光が伝える姿

誰かが私を見ているとき、反射した光を見ていて、この位置にいるこの私をつかんでいるわけではない気がします。 反射した光というと、私とは別物のような印象を受けます。 それでも、他者に見られると、この位置にいるこの私が把握されているような気持ちになります。 どうして私と切り離した光を他者が見ているのだと割り切って考えることは難しいのでしょうか? 光が伝える姿と自己とが無関係(別物)ではないだろうかと思えたのはなぜでしょうか?

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回答No.5

#2の者です。 >光速の本質性は、光速下・超光速として対発生するということは、 >空間的広がりがあると同時に、時間の逆行も発生しているのでしょうか? 先の書き込みにあるように、そうした非光速性は、本質(超弦=量子定常波) において光速に還元されるものを、表面的に捉える事によって得られる= 仮想的なものであり、実体はないのです(「発生」してはいない)。 >グラフについて、よろしければ教えてください! これは超弦の図ではなく、相対性理論のベースとなったミンコフスキー空間と呼ばれるものです。 相対性理論の四次元時空の方程式において、時間項はマイナスになっており、そのため空間軸と時間軸の等距離点に、“ゼロの面”ができます。 それが「ライトコーン」、即ち光子の形成する面であり、光速以下の領域(未来)と超光速の領域(過去)を分ける界面原点なのです。 そして超光速においてエネルギーは虚数化し、相互作用=二乗において負=過去(時間的反転)と等価になり、即ち、現在から過去と未来が対発生していると言えるのです。 我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がりは発生しているのです。 全てのものは光速を超えられない以上、ライトコーンの下側は「ここに及ぼされた全ての光速以下の相互作用の集合=既に終った過去」であり、上側は「ここから発する全ての光速以下の相互作用の集合=まだ来ていない未来」であり、その間に挟まれた部分が「現に存在し得る領域」であるにも関わらず、その上のライトコーンの光速(ここから発する光量子作用)を超えた領域(虚数エネルギーの自乗)が、等価的に過去からの作用(正エネルギーの自乗のマイナス=時間逆行)になる事で、存在の依拠する領域はなくなるのです。 その場合に、速度無限大は過去からの静止と等価となりますが、それは無限大速度だと全宇宙に一瞬で到達できる=1点であると等価である事により、図の横軸(実際は空間)は過去からの静止(1点)と等価となり、未来への超光速領域は過去からの光速下領域と等価となるのです(ただし実際には非光速性は仮想的)。 そこにおいて、宇宙の膨張=物体収縮=不確定性(プランク定数h=量子性)の収束という、異なる原理的本質=異なる認識可能性を一つの軸(時系列化)にするところに時間性は依拠しており、過去の自分も、空間的広がりにおける他人も同じです。 宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常として発生していると言えます。 即ち「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h)の収束における、hの減少の時系列化である時、それが架空の時間軸となって、空間的確定性としての無限不確定的空間性が、超光速(過去=経験)と光速下(未来=予測)に相補分化する受け皿となり、直交基底をなす事によって、相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化における、有限的存在(=非光速性)を幻出しているのです。 全ては、自己が存在するための補完なのに、なぜ「自己」の思い通りにならないかというと、その「補完」が物理的根源にまで遡った相補性であるがゆえに、現象表面的な肉体的自己の思い通りにはならないのです。 即ち、自己に対置される外的存在性とは、“肉体(物質)としての自己”と“宇宙(心)としての自己”のギャップに由来する、自己矛盾として“自己にぶつかる”のです。 量子的に時間性も不連続である事が知られており、実は過去の自己と、外の他人も同じ認識可能性として共通であり、その事が自己の環境への延長(遺伝的な連続=交配、社会的な分業化=互助、生態系の循環)に射影しているのです。 認識の深まりは、その自我の補完としての存在性に於ける認識可能性の他我化=愛(社会的助け合い、生態系の共生、環境 との物質循環、物理定数の人間原理)に向かい、その自己存在の本質に根差した自律的な生において、生理的な認識可能性の最大化とその充足の最大化=精神的充足量の最大化は可能になるのです。 宇宙の発生に、異なる認識可能性(h)の時系列化が必要であったように、その補完(時空仮説に対する無の射影)としての存在 性に於ける認識可能性の他我化=愛こそが、生理的な認識性の最大化(体)とその充足の最大化(心)を両立させるのです。

oKwavea
質問者

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グラフの解説ありがとうございます。 光速の線は空間軸と時間軸の等距離点にできた“ゼロの面”を表しているのですね。時間軸を回転してライトコーンをかくと、光速の線は「ライトコーン」の側面になりそうです。 「ライトコーン」内側は光速下で、空間的な広がりを表現しています。ライトコーンの上側は広がっていく空間のようで、ライトコーンの下側は誰から広がったのか探るかのようです。 ラインとコーンの下側、誰から広がったのかを探るという場合について、 広がった空間のとある一点から、広がった元を探すということになります。 時間逆行がすでに起きているからこそ、広がった空間のどこかから、とある一点を過去とした出発をすることもできるのだと思いました。 光速の線を伸ばしていくならライトコーンは限りなく広大になりそうですが、人間の認識はそれほどまで広がらないのかもしれません。 光速の線は、どこかで人間の見る能力の限界によって途切れ、その途切れたところから超光速領域の侵食を許すようなイメージがします。 ライトコーン(三角すい)の底の面を上から見下ろすと、コーンの外側から、内側にまで超光速領域が広がっているイメージがします。 >過去の自分も、空間的広がりにおける他人も同じです。 >実は過去の自己と、外の他人も同じ認識可能性として共通であり、 というところ、そうなのではないかと、なんとなく感じます。でも知識不足などで、せっかくの解説について理解がままならならないです。 認識可能性が大きくなると、この体だけでなく周り(他者や環境)をも体とするような認識さえ可能で、それによって心は充足するのだというように解釈しました。愛は認識可能性の大きくなることであると解釈しました。 回答ありがとうございます。

その他の回答 (4)

noname#221368
noname#221368
回答No.4

 自分の動作に対する、相手の応答性が良いからでしょう。  衛星通信を使った中継映像をテレビで見ている時、日本にいるアナウンサーの問いかけに対して、中継先(現地)にいる特派員の応答が一瞬遅れますが、そういう時には、あなたの言う感覚はちょっとだけほころびますよね?。

oKwavea
質問者

お礼

他者の応答が即時に知られることで、この位置にいるこの自己が把握されているような気持ちになるのですね。 応答が一瞬遅れたというほころびの間、暗闇を見渡している気がします。 道を歩いたり電車に乗ったりするとき、会話をしているより、沈黙していることの方が多いです。それでも他者との関係を想像しないではいられないみたいです。他者が見ているとは確証がもてなくても、自分で見られていると想像してしまうことがあります。 普通の生活では、実際の他者の反応が大切です。自己が把握されているような気持ちになるという異常な事態では、実際の他者の反応は必須となっていないのかもしれません。 ないはずの関係を作り出して、心理的な変化や移り変わりによって自分へ圧迫を感じるとすれば、見えている世界と妄想した世界との発生の違いから心理的な圧力(他者からの強制力)や引力(他者からの見方に近づこうとしたり、自己からの見方を分かってもらおうとしたりの力)が説明できるかもしれません。心の問題の正体を科学的に解明できたらいいのですが、いろいろと知識不足なのがくやまれます。 回答ありがとうございます。

回答No.3

あなたが反射した光が網膜や写真機で結像したあなたの姿と認識したこと、あなたが発した音声や言葉が空気の振動となって直接あるいは電気信号や電子情報となってさらに復調されて音圧になり聴覚を通じてあなたの声や言葉と認識されたこと、あるいは通信簿・内申書や経歴書・履歴書・審査書類などで書かれたものを読み取ってあなたと認識されたこと などと、「あなた自身」とは違うのは当然です。  しかし、通常、あるヒトの姿・振る舞い・ある事態に遭遇したときの行動や言辞、友人関係などをみて、「あるヒトがわかった」という気になります。どれだけの情報をベースにすると「わかった」ということになるのかは定かではないですが、何かのときに、「わかった」とか「わからなくなった」とか感じることがあるのは確かです。 わかるにも、わからないにも、明確な基準や条件が外的にあるのではなくて、理解者がそのような気分を得たか失ったかの内的な要素がポイントなのでしょう。   【自分の姿を見られた】ということは街中や他人のいるところなら常時そうなります。その都度【みた人間は、私を把握した】と感じることは、わたしはありません。おそらく多くの人も、自分の姿をみられたことを気にもしないでしょう。他人の姿を見た場合に、その他人を把握したと感じることさえないのが通常状態でしょう。街中、駅、教室では、他人の姿は風景の一部でしかないことが普通だと思います。個別識別や個別認識の対象にはならないです。「他者に見られると、この位置にいるこの私が把握されているような気持ちになる」のがいつもである、多くのときにそうした気分になるのであれば、かなり変わった感性だと思います。   「私と切り離した光を他者が見ているのだと割り切って考えること」も、普通はしないと思います。 今どう見えるかなどはいちいち気にしないのでしょう。しかし服装、髪型、化粧、表情、動作や姿勢などが、その場にふさわしくないような状態にはなっていないという認識がベースに存在しているのが大きな条件になっていると思います。 水着姿で電車に乗ったりしてないことは自分でわかっているのです。   お見合いの席、面接試験の時に、私を判定し評価するために、相手や面接官が、自分の姿や表情、動作などの映像情報などの中から重要な認識をしようとしていると考えるのは、それほど変ではないです。 そのときには、光が伝える映像が私の人間としての一部、社会人や学生としてのあり方の実現度を示す手がかりになっていると考えてもイイのだと思います。

oKwavea
質問者

お礼

分かったという感覚をどのように得たか失ったかということですね。 【自分の姿を見られた】という理解から、【みた人間は、私を把握した】という理解になるのは、途中何かあるように思います。その何かの仕組みがはっきりと分かりません。ただ、みた人間からの理解を私が引き受けて、その見方にとらわれて、私を基準とした視野をもてないということが一つの問題のような気がしています。 常時そうなったら病の感性といえます。でも重要な人の前では皆そうなりやすいのですね。 重要な人がいつ現れるかわからない、どこから見ているかわからない、といった状況になると、常時気にしてしまいそうです。全ての人が面接官や上司に見えたら、気にしてしまいます。 見えている全ての人が面接官や上司でないことから、実際に見えている人の姿とは別に面接官や上司からの見方を想像して、それに影響されて、私が把握されるような気持ちになってしまうのかもしれません。 【みた人間は、私を把握した】ということで苦しむのは、みた人が厳しい評価を下すのではないかと私が想像してしまうからかもしれません。お見合いの席や面接試験以外では、適当な自分を見られてもいいと、自分を許すことが大切なのかもしれませんね。 回答ありがとうございます。

回答No.2

あなたは、自己の外に世界が広がっており、そこから光が 来て反射する、という判断を先入化していますが、実際に 感受しているのは感覚器官表面の受容分子における光量子 相互作用に過ぎません。 視覚だけでなく、音も空気分子と聴覚細胞の間の運動量 (量子)の交換、味も化合物との間の電磁(量子)相互 作用といった具合に、全ての感受は感覚器官の形質の違い はあっても「感覚器官表面での量子相互作用」に違いは ありません。 その表面における相互作用パターンによって、空間的な 広がりを想像しているに過ぎません。 その五感の相関した経験の蓄積において、光や音といった 先行感覚(情報性の高い)に対して、味覚や触覚といった、 より生理的に実質的な効果を与える感覚を励起させる= そこに行けば何が起きるかの予測(意味を与える)が、 空間的広がりの本質なのです。 物理的に、光速では時間が経過しないとされます。 また、光量子相互作用は、瞬間作用とされます。 つまり、相互作用の因果関係を逆転しても成立するという 事です(“一方的に流れる時間”というのは、統計力学的な 現象的にしか現れない)。 我々は、星からの光が目に届いていると考えるが、我々の 目から光が発して星を輝かせていると考える事とも等価なの です。 その場合、感覚器官表面での相互作用=反射は、我々が感じ る(量子相互作用=光速)事において、原理的(超弦)に 光速に還元される本質性を、階層現象表面的に捉える事で 非光速性を派生させ、過去(超光速=虚数エネルギー=時間軸 逆行=記憶)と未来(光速下=予測=空間的広がり)に対発生 している事と等価になるのです。 全ての存在は、量子的不確定性=確率波動性に基づいており、 無限に詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しく なります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に 認識体の仮定断面の運動を想定すれば相対的に無の風は 光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。 先述の認識の不完全さによる階層現象表面的な定性化による 非光速性の派生は、その本質における無への還元を理解でき ない事により、その外部に世界を空想します。 無とは分からない事が、有なのです。

oKwavea
質問者

お礼

光量子相互作用は後先定められないのですね。 光がどちらからどちらに向かったか定められないので、光の向きを目から星へと考えてもいいのだと理解しました。 光速の本質性は、光速下・超光速として対発生するということは、 空間的広がりがあると同時に、時間の逆行も発生しているのでしょうか? 空間的広がりと同時に発生するような時間軸逆行は、私達にはどんな様子として感じられるのでしょうか? グラフについて、よろしければ教えてください! 1(存在している(はずの)空間)はどの範囲でしょうか? 2超弦はどうしてこのような曲線として描かれるのですか? 3色のついた横の砂時計形の部分、色のついていない砂時計形の部分、は何をを表していますか? 4光速の軸に逆さにかぶせたお皿に見える部分(相互作用の集合)は空間的な広がりということでしょうか? 5超光速の点線矢印は、過去化するときどうして角度が変わるのですか? 6横の軸1本で立体の空間が表されるのしょうか? 未来(光速下=予測=空間的広がり)について、 そこに行けば何かが起きるというときの、そこへ向かう速さが光速下なのでしょうか? 見えているものの動く速さが光速下なのでしょうか? 過去(超光速=虚数エネルギー=時間軸逆行=記憶)について、 「あいうえお」と言ったのを思い出した時、どうして時間を逆行したのに、思い出した順番は「おえういあ」でなく「あいうえお」なのでしょうか? 感覚器官表面での量子相互作用をもとに、蓄積した経験による想像から空間的な広がりが予測されるということでした。 そこに行けば何が起きるのかの予測が、空間的広がりの本質であるということは、 空間の広がりからどこか選びとったら、そこを始点や基準として新しく空間の広がりが予測できるのかもしれません。 ここから以下は、学問的な根拠のない自分の感じ方です。 他者の立ち位置からの視野を想像したりすると、さっきまでとは別の空間になります。さっきまでの空間の広がりは、初めからなかったことになっています。順番として後に想像されたはずの空間の広がりが、はじめからあったことになっています。 他者を気にしすぎて自己を持てない、自己の気持ちがわからない、ということがあります。他者を気にして自己がないなら、自己を持てばいいだけの話と、一般には言われます。自己(からの広がり)を持ってみようということで、自己からの広がりを確かめようとします。自己から広がる空間になにか見つけようとするのですが、見つからず、なにかつかんだと思ったら、それは他者に行き当たったということのようで、そこから先は行き止まりで、なにも出てきません。 自己から広がって他者へ行き当たったとき、他者を突き抜けて同じ方向に広がるということはできません。自己から広がる方向と同じ方向を他者からも広がるということはできません。 もやもや想像が浮かんでくるときは楽で、逆に想像が浮かんでこないときは意識過剰になって苦しいということが、日頃経験されます。 自己から広がる空間とは別の方向に広がる空間(他者から広がる空間)、その空間をたどていった先の行き止まり(空間のでどころ、空間の始まるところ)、この行き止まりが突破できません。 想像が浮かばないとき、このような行き止まりに行き当たっているのかもしれません。 行き止まりは向こうのない壁のようです。物や生物や植物や誰かを見たとき感じる「感じ」が極限に凝縮されると、たぶん行き止まりの感覚に近くになるよう思います。 緊張するときなど身体が震えないようにしがみつくのも、しがみついている支点(?)は行き止まりの感覚に近いです。 行き止まりは無であるけど、濃さを補いたくなるような薄い不安定な無とは反対に、濃さの有と近いというイメージです。密度が隙間なく高められた濃さは、均一のようで無と等しくなるのかと思います。回答の科学の説明する絶対無が参考になりました。 他者や自己は行き止まりのように感じられます。行き当たった他者が分からないので、自己の方へ戻って探ります。けれど行き当たった自己も分からないので、再び他者の方へ戻って解明しようとします。 そういうことを繰り返すうち、不確かな暗闇(なにかありそうでなにも見当たらない)を漂うことが無意味になって、確かな行き止まりだけに固着するようになります。 なにかありそうでなにも見当たらない不確かな中途は省かれて、すぐ行き止まりに行き当たるようになります。行き止まりに行き当たる間隔が狭くなっているためか、想像の広がるための空間とそのための時間が足りないなのかもしれません。 行き止まりに固着したり阻害されたりせず広がるためには、どんな方法があるのでしょうか? 回答ありがとうございます。

noname#180442
noname#180442
回答No.1

 あなたの言う私を反射した光は、相手が情報処理しています。あなたが自分自身に当たった光を情報処理するのと、相手が情報処理するのと同じとは限りません。では、全く別物かというとそうでもなさそうです。多くの人々は、光のオーケストラの一員として暮らしています。

oKwavea
質問者

お礼

光が目に入ってくるだけでなくて、情報処理するのですね。 オーケストラの一員として暮らしていて、それぞれの立ち位置の演奏を暮らしていると考えると、すごい毎日です。 回答ありがとうございます。