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街道が公的に用いられたのはいつ
街道(海道)という用語が、地図あるいは公式文書に最初に用いられたのはいつごろ、どこで、誰によってでしょうか。徳川幕府が五街道を定めたのは1604年だということですが、それ以前にも使われていたのではないでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93 国語辞典には初出(謡曲)が挙げられています。しかし、地図あるいは公式文書での用例をご紹介いただければ幸いです。
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公文書 という話になると、ないよ という話になるかと。 日本古代の道関係の本を読むと、当たり前ののように 古代は軍事的目的のために直線で幅の広い道路を作った 中世は公的な権力が道路を作るという意思をなくした 近世になって(江戸幕府が)道路整備を始めた というような話を前提にしています。 また 東大の史料編纂所で史料検索したところ 「民部」×「街道」では近代の(文久以降)の資料しかないようです。 ※ 道路の所轄は民部 ※ 同上の検索で 民部 × 駅伝 で 史料が2つあり、ひとつは保安1年 1120年の史料なので、鳥羽天皇(平安末期)では民部で駅伝を管理するという書面があったようです。 駅 伝 馬 不 用 死 馬 皮 直 弐 出典:九条家冊子本中右記裏文書 この段階では民部が道路を管理するというのはまだあったようですが、街道という用語は使っていない。 ハードウェアとしての道路管理はやっぱり やめていたのかなぁと思う。
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- TANUHACHI
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古代の律令的地方行政区分に基づくならば、それは「海道」「山道」「陸道」として「地方」を指しますが、中世鎌倉時代の作品『東関紀行』『海道記』『十六夜日記』があります。ここに見える『海道』は文字どおり、京都から鎌倉に下向し善光寺参りの予定をやめて、帰京するまでの旅日記です。東海道を歩きなり馬に乗るなりして移動していたことがうかがわれます。
お礼
ありがとうございます。
- tanuki4u
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街道 site:http://www.j-texts.com/ 六国史あたりでは使っていないようです。 海道 site:http://www.j-texts.com/ 東海道沿線国の意味なり 東海道の意味で戦記物での用例がありますが、一般的な道路という意味ではないようですね。
お礼
重ねての回答ありがとうございます。
- tanuki4u
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大日本史料総合データベース より 享禄2年7月3日 3 近江守護六角定頼、小幡等の商賣の訴に依り、同國五箇保商人の、九里半街道の往還を防ぐるを停む、又五箇保商人をして、其商賣を安堵せしむ、 長徳1年10月3日(09950100030) 2条 【綱文】 (第二条)秋田城介信親「姓闕く」に、枉道の官符を給ひて、海道より赴任せしむ 弘長1年2月25日(12610020250) 1条 【綱文】 幕府、六波羅に令して、將士の海道の驛馬濫徴を禁じ、定制に從はしむ、 この辺は東海道の「東」を省略した内容かもしれません。 享禄2年の史料は、道路という意味で使っているようです。これが1529年
お礼
ありがとうございます。 駅馬乱徴ということは、この時期にも駅馬の制度が機能していたことを意味しているのでしょうか。すでに廃れていたと思い込んでいました。
補足
街道の名称には2種類あるようです。 ひとつは東海道のように上り下りの別のない名称、今ひとつは甲州街道、鎌倉街道のように目的地の名称を取る場合です。 近畿地方では、上りは京街道、下りは大坂、周山など目的地の名で呼ばれるので、同じ道路が2つの呼称を持つことが少なくありません。 質問の趣旨は、公式文書でどう扱われたかという疑問でした。ご教示の九里半街道は若狭街道の別名なのか、美濃近江間の道路のことか分かりませんが、関係者の名前から察すると後者でしょうか。どちらかというと通称のように聞こえますが、公的に用いられた例として挙げていいのか迷います。
- tanuki4u
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http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_29.html ちょっとずれるが 東海道伊勢以東諸國有位人等 日本書紀より
お礼
ありがとうございます。 これは五畿七道のほうでしょうか。
お礼
東大史料編纂所の榎原雅治著『中世の東海道をゆく』(中公新書2008年)を読んで、いろいろ知るところがありました。 何度もありがとうございました。