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人に危害を加えてはいけない理由
あるグループにて、人が人に危害を加えてはならない理由について掘り下げています。 広くご意見募りたくよろしくお願いします。 なお現段階では下記の理由については形がついています。 ・人が悲しむから →悲しむ人がいてもいなくても危害を加えることはしてはならないとされている。 ・人間は知的な生物だから →動物の間では戦ったり傷つけたり殺しあったり共食いしたりしているが、人はそれを「自然の摂理」と呼んで尊重している。 ではなぜ人間はだめなのか、それは人間に知性があるからだというが、人間も動物である以上「自然の摂理」があるのであり、なくならない犯罪はそれを証明しているのではないか。つまり危害を加えることも尊重されるべきではないのか。 ・人間が減ってしまうから(種の存続にかかわるから) →過去沢山の動物が絶滅してきたが自らが原因で絶滅したものは記憶になく、自然の変化、外来種による駆逐、人間による乱獲など、外的要因によっている。 つまり人間がお互いに自由に危害を加えて良いことになったとしても絶滅まで減ることはないので理由にはならないと思われる。 ・文明がそれを許さないように作られてきたから →過去振り返れば「目には目を」の法典のみならず、マヤにおいても古代エジプトなどにおいても理由があれば危害を加えても良いとされてきた。現代でも理由があれば殺人すら認められる社会もある(イスラムなど)。 また逆に言えば人間の本来の姿は動物そのものであり、それを集団としてまとめるために制御する必要があり、それが文明となってルールが出来たともいえる つまり、「人が人に危害を加えてはならない理由」は、人間が集団生活をする生き物であるから? 集団生活するためには互いに憎しみや恨みが募らないようにしなければならないので、原点となる危害を加える行為を制限しているのではないか? 集団を守る必要性は、人間が単独では生存出来ないためであり、それは今も昔も変わっていない。 今のところこのような意見がまとまっています。 お暇なときにでもぜひご意見お聞かせください。
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殺人が禁じられているのはなぜか?とか人を殺してはなぜいけないか?というような質問が多発しましたが、それと同じ意味を問うておられるのでしょうか。 最近私が読んだ倫理の小冊子に「道徳のメカニズム」という鄭雄一氏の著作がありますが、ここで述べられている論理がシンプルで、私も感心したこの答えは「仲間を殺してはいけない」ということです。仲間、利益共同体ということでしょう。日本人なら日本人どうしの殺し合いは、いかなる場合もはっきりと刑事罰に問われます。利益共同体の弱体化を避けるためということだと思われます。仰る理由の中では >人間が集団生活をする生き物であるから? 集団生活するためには互いに憎しみや恨みが募らないようにしなければならない これに当たると思われます。 仲間ではあっても、突然とち狂って周囲の人間を殴り始めたら、彼はもう仲間としての資格を失ったということにいなるかもしれませんし、中国と戦争が勃発しても、いつも昼食を食べに行っていた中華街の店のシェフは仲間だということになるかもしれません。
- saki_nagatsuka
- ベストアンサー率8% (19/226)
法律の面で言えば、競争のために発生する危害(負け組の被害妄想も含む)は 別に構わないが、足の引っ張り合いになると社会の生産力も落ちるので有害だから 禁止している場合が多い。 まず疑問に思うのは、「危害」をどう定義しているのかが気になります。 それを明確にすれば、結論も自ずとはっきりするでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 危害とはそのままの意味です。 肉体を傷つけたり、殺したりという意味です。 精神的に傷つける等の意味ではありません。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
日本だって、戦国時代までは県単位に分かれて戦争して おり、殺す事が生きる事(≒善)だった時代があったのだ。 しかし今、「東京はもうけ過ぎだ!」というので長野県が 攻め込んで来る、などという事は考えられない。 しかし自然の中では、生存競争の弱肉強食が普通であり、 共生などの助け合いは話題になるほど稀な現象である。 人類は、分業化による助け合いや、組織化による共通の敵に 対する協力において、社会性が発達し、その集団の内では、 法規やモラル、宗教などによって「殺すのは悪」というコンセン サスが醸成されたのだ。 そうした社会常識の世代間伝承において、合理的な判断を こえた情緒的な“命を大切に”という感覚が派生し、分業を 前提としない思いやりや、ペットの飼育といった情操教育に つながっている。
お礼
回答ありがとうございます。 >人類は、分業化による助け合いや、組織化による共通の敵に 対する協力において、社会性が発達し、その集団の内では、 法規やモラル、宗教などによって「殺すのは悪」というコンセン サスが醸成されたのだ。 人間においては協力が必要であって、そこから生まれた考え方であるということですね。 そのルールの種類、ただのモラルであるのか宗教なのか法律なのかそのあたりまで広げて考えてみたいと思います。
- phj
- ベストアンサー率52% (2344/4489)
別の角度からの意見です。 まず、3人以上の集団になると人間は社会を作りルールを定めることになります。(2人の場合は相互の契約です) この集団の意思として「人に危害を加えない(殺さない)」というルールが摘要されることになります。 なぜか? そもそも、人間が集団を作るのは >集団を守る必要性は、人間が単独では生存出来ないためであり、それは今も昔も変わっていない。 という質問者様のご指摘の通りでしょう。 一人で生存できない以上、社会を作りその社会を効果的に効率的に運営する必要があります。 ですから、危害を加えてしまうと「効率的に運営する」という目的が達成できなくなるのです。 危害を加えた場合、加害者と被害者が発生します。この両人やその周辺は感情的に摩擦が起きます。この摩擦自体が社会に悪影響を及ぼすことは分かると思います。 この感情的な摩擦を社会的にコントロールするのは非常に難しいため、古代から様々な方法で処理してきたといえます。 ハンムラビ法典の「目には目を」という法律は「与えられた危害以上の危害を与えることは禁止」という法律ですし、多くの社会で、古来は「被害者が加害者の処罰を決める」ということが行なわれいました。 しかし、この方法は社会的な負担としては大きすぎるため、現在のように金銭で解決するのが一般的になってきている、といえます。 次に、このトラブル関係者に財産的な問題が発生します。たとえば被害者が足を折って、車椅子生活になるとすれば、加害者は被害者に相応の補償をしなければなりません。この補償費用は社会にとっても負担となります。 そして、財産という言葉がでてきたように、そもそも個人の体というのは「財産権」の源です。誰も自分の持っている能力を使うことで、財産を作り出しているからです。手が使えなくなる、足が使えなくなる、頭が働かなくなる、など危害を加えられることで生じる身体的または精神的障害は、その個人の財産権を侵害します。 個人の財産権を侵害されるということは、そもそも社会を形成する目的(個人では生存できないのに、社会を形成することでかえって生存を脅かされる)に反します。 だからこそ社会は、危害を加えること(実はここには自分で自分を傷つけることも含みます)をルール違反と見なすのです。 この点において、国家が強制する体罰が全面的に禁止されているのは財産権の侵害になるからです。たとえばスピード違反したら鞭打ち、万引き3回目で手首を切り落とす、などはその後の社会生活に悪影響を及ぼす個人の財産権(もちろん生存権も)の侵害となりますので、近代的な法治国家では行なわれていないのです。 本来なら、死刑も究極的な体罰のため、同様の法理論からは死刑を廃止することが望ましいとされます(だからこそ、国際人権団体は死刑存続国家を、前近代的=野蛮として批難するのです) また、誰かが医師の件や戦争の件を書いておられましたがこれは明白に区別できます。 医師については、体に危害を加えることで、むしろ財産権を守る行為または個人の生存率を高める行為になります。だからこそ安楽死は、いろいろなメリットや個人の尊厳の問題が指摘されながらも医師としては禁止行為になるのです。 戦争についても明白です。戦争はある社会と別の社会のぶつかり合いであり、たとえば両方の社会が十分に生活できるほどの食料がない場合などに、どちらかの社会しか生き残れないために戦争が起きるのです。 これは「社会としての生存競争」であり、であるからこそ社会に所属する人々はその戦争に徴用されることが許容されるのです。 また、例外的に危害を加えることができる人が昔はいました。それは「奴隷」と呼ばれる人々です。 彼らは誰かの「所有物」ですので、家畜同様の扱いとなり、所有者が毀損してもよい(家畜を殺すことや、花瓶を割る程度の判断で)なら自由に危害を加えることができます。 現代社会では基本的人権はすべての人に平等に備わっている、という考え方が一般的ですので奴隷制度は否定されていますが、階級社会の時代は、奴隷には人権はなく、庶民は支配者の許容する範囲の人権しかなく、支配者(支配階級)は十全な権利(特権)を有していたといえます。(その代わり支配者には「貴族の義務:ノブレス・オブリージュがあり、特権を持たない庶民の生存権を保証するという考え方がありました)
お礼
回答ありがとうございます。 非常にわかりやすく、すっきりとした内容でした。 財産権のくだりは特に全く私たちの考えになかったもので目からうろこです。 人に危害を加えてはならない理由、だいぶ見えてきました。
- osakajapan2001
- ベストアンサー率16% (236/1442)
御礼を頂戴致しました 有難う御座います 仰るととおりです その集団(ある種の社会です)の意思です 人が居る以上 それは集団である事を自立的に表明しています 人間の行動規範です 法律ではありません ある意味律法です
お礼
再度ありがとうございます。 やはり集団であるから、集団でなければ生存し難い生き物であるからというのが基本的な答えになりそうです。
- Nebusoku3
- ベストアンサー率38% (1465/3824)
>「人が人に危害を加えてはならない理由」は、 人はその知性故に 「ほおっておけば殺しあう」 性格も 同時に持ち合わせているからだと思います。 人が 人に危害を加えない 動物であれば この様な言葉や 道徳、宗教の様なものは出現しません。 何故それがそこにあるか? というのは それが必要だったから というのが原点かもしれないですね。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに! ある意味、感情的な理由で殺しあうのは人間の知性が故ですね。 動物は殺しあうにしてもそれが必要となる理由があり、それは決して感情的なものではないと思われます。 基本的にほうっておけば殺し合いをする生き物であるから、それを制限しなければならない。 その必要がある。 なぜ必要なのか・・・そこがキーですね
あなたは意見を聞きたいと書いてますよね? 議論をしたいなら他でどうぞ。
・脳の共感力のせい ・互いの安眠のため ・人権を作ったから
お礼
回答ありがとうございます。 非常に鋭いですね・・・ 共感力、つまり危害を加えることにより自らも嫌な思いをしてしまうから、しかしこれは万人にあてはまらないのは明らか。 互いの安眠のため、これは深く突っ込めば「自分の安心のため」にルールを決めたともいえますね。 確かにいつだれが襲ってくるかもしれないよりは安眠できます。 人権を作ったから・・・何故作ったんでしょうか。
- osakajapan2001
- ベストアンサー率16% (236/1442)
なんと言う下らない事を掘り下げている事か!!!!!!!!!!! 人に危害を加えてはいけない理由は 貴方が危害を加えられたら嫌な思いをするからに外なりません がしかし ある種の集団が形成されている場合には(ここでは二人以上と言う意味です) それが集団の意思だからです これ以外の回答は全て無意味です
お礼
回答ありがとうございます。 No1の方への返答と重なるので前半部分割愛いたします。 後半部分、やはり集団の意志ですか。 集団が「人に危害を加えてはならない」と決めているため、ということですね。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
これを掘り下げるには、危害を加えても良いことを掘り下げないと見えてきませんよ。 医者が患者を切り刻む・・ 戦争で相手の兵士を撃ち殺す。 東京電力が国民に放射能をまき散らし続ける 統治者、権力ある者が、市民や国民を統制するためであるというみかたもできそうです。 市民はお互いに仲が良く穏やかで言うことに素直に従う方が統治し易いということ。
お礼
回答ありがとうございます。 人に危害を加えてはならないが、しかし統治者や権力あるものは危害を加えても構わずにいることから、導き出された回答ですね、大変面白い見方です。 統治者や権力あるものは自分の身を守るために危害を加えてはならないルールを定めているが、自分は例外的にそれを行う理由づけをしているとも受け取れますね。
お礼
回答ありがとうございます。 >私も感心したこの答えは「仲間を殺してはいけない」ということです。仲間、利益共同体ということでしょう。 しかしここで新たな疑問が出てくるのです。 では、仲間でない人ならば良いのか?ということです。 実際に現代においても一部過激な人たちは「仲間でなければ殺すことを善としている」人もおります。 北朝鮮のように他国の人を拉致して殺すような国もあります。 「人間」としてくくった場合、「人に危害を加えてはならない」理由はどこにあるのかなとなってくるのです。 全ての人間が何らかの集団に属していると仮定すれば集団の意志というのが一つの答えですが、別の集団の人に対する考え方は一律ではありません。