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電磁気学と力学(とくに流体)の相違点について
電磁気学と力学(流体含む)についてお尋ねします。 両者には原理的な部分で大変類似性があると思います。実際の現場は大変なちがいになると思いますが。原理の方ですが、相違点があるとしたらどのようなところでしょうか。両者に読み替えができるということですが。 電流 ⇔ 流量 電圧 ⇔ 圧力 など。 私のこれまでの経験では、以下のようなことがありますが。 1.電磁気にはベクトルポテンシャルがあるが、流体力学にはあまり出てこない。 2.流体力学の流速は千差万別で、流速がどのように分布するかが大きな興味ですが、電子では流速の空間分布にあまり関心がない。(そんな気がするというぐらいですが) 3.電界・電荷に対応した概念が流体力学にない? このような違いも実は、読み替え(対応物)がある(例えば名称としてはないが)ということになるのではないでしょうか。 電磁流体力学という分野がありますから、相互乗り入れできるという意味で類似と相違があるということなのかなと思います。 突き詰めると、統一理論になるのかもしれませんが、そこまで大げさには考えていませんが。 よろしくお願いします。
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#4です。一か月近く経っちゃいましたね?。・・・気づいてませんでした。 >ランダウリフシッツよりも、ファインマンさんあたりを引っ張りだすのかな?などと思うのですが。 すいません、ファインマンは余り読んでないんです(^^;)。 >まるで、電位と標高が同じもののように見えるのですが、電位は電磁気学の内部だけれども、標高は流体とは異なるということになります。 流体の方にも標高と同じような用語があります。それを「水頭」と言います。「水頭」とは流体力学(水理学)におけるベルヌーイの定理の、静水圧ポテンシャルの「高さ」の事です。この「高さ」は実際に、水道管などに小口径のガラス管などを接続すれば、ガラス管のどこまで水道水の自由表面が上昇するかで測定できます。自由表面は、常に水位上昇の高さのトップを張るので、「水頭」の名があります。ベルヌーイの定理とは、流体の流線に沿ったエネルギー保存則の事です。 電位も静電場では一般的に、動電場でも回路を積分経路に固定すれば、常にポテンシャルと考える事ができます。このように考えると、電位も標高も水頭もポテンシャルの高さを表すという意味においては、数学的には同じものだと思います。 >そっくりだ!と思うと、そっくりでなく、全然違う思うと、似ている!となるわけです。 今井先生の目的は、そこだと思います。「電磁気学を考える」の序文に明記されているように、電磁気学を流体力学の文脈で読みかえる事は、電磁気学という数学理論の物理的解釈としては全くの勘違いなのだが、それでも数学的/物理的な具体的イメージを捉えやすいという意味では、それに価値があると。 「電磁気学を考える」の背表紙には、「ファラデイに戻れ!」と書いてあります。ファラデイはとにかく、電磁現象に対して、電磁現象を伝える物質的で力学的な背景を想定していたのは事実です。 ※注:その背景はエーテルではありません。 ファラデイと、電磁気学の基礎を築いたマックスウェルの出会いの事情を少しだけ知っていた自分としては、「ファラデイに戻れ!」には、少々感動してしまいました。 というのはマックスウェルも最初は、ファラデイの電磁現象に対する物理モデルに魅かれ、当時のイギリス物理学会の伝統に従って、電磁場の流体力学的解釈を選んだからです。 という事は「電磁気学を考える」を読めば、マックスウェルの問題意識や悩みを追体験し、最終的には、マックスウェルが考えた「電磁気学」を知れるのではないか?、と妄想したからです(^^;)。 ただ、ちゃんと電磁気学をわかっておかないと、少々危険かな?とも思いました。今井先生の本が、魅力的なだけにです(^^;)。
#3です。自分は#1さんや#3さんとは違う観点で喋っているので、またまたしゃしゃり出て来ました(^^;)。 >いわゆる連続体仮説に基づいてベクトル解析、テンソル解析を用いてマクスウェルの方程式、ナビェーストークスの方程式、弾性体の方程式といった共通性の多い現象を一括して取り扱おうとするアプローチは1980年譜代ごろには完成し、有限要素法、境界要素法を用いた大規模汎用解析コードも完成しており、何をいまさらという感じです。 まぁ~、その通りなんですけどね。思えば1980年代は、自分の人生の中で一番数値計算に明け暮れていた頃で、有限要素法も境界要素法も差分法も級数解法もやりました。混合型の定式化も知っています。 連続体仮説に基づいてベクトル解析、テンソル解析を用いて・・・まで行かなくても、例えば重み付き残差法を記述スタイルの基本にすれば、有限要素法も境界要素法も差分法も級数解法も、系統的に一元的に語れます。言ってしまえば、みな基本は同じです。 それはとても重要な観点で、ハイブリッド解法などを採用するケースでは、非常に役に立ちます。しかし一方で、各解法の味が、まるでなくなってしまう。 例えば有限要素法はやっぱり、変分原理が素直に成り立つ領域で一番綺麗に機能するし、有限要素法は変分原理の数値的定式化とともに育った手法なのだ、という感触があります。境界要素法は、古典的グリーン関数法の今風アレンジである、といった感触です。 人間は数値解法技術ですら、機械(コンピューター)のようには扱いません。・・・という気がする(^^;)というだけなのですが、そのような数式に対する味や感触、イメージは運用上、とても大切だと思えます(と思うだけですが(^^;))。 今回の電磁気学と流体力学の読み換えの件は、上記よりももっと能動的です。同じ数式に対する物理意味や解釈を、意識的に変換しよう、という話ですから。それは統一計算手法があれば良い、という話ではすみません。 統一計算手法があれば良いという観点からは、ファラデイの電気力線や磁力線に(流線網に)、現代的意味を与えようという問題意識は、決して生まれないからです。 次に来るのは、そんな事やったって価値があるのか?、です。だって、そんな事やったって新しい事は何も導けないんですよ。何の価値があるのか?。 個人的には、「ある」と思います。一つは、今井先生の方向は電磁気学の教育方法として、もしかするととてもわかりやすいものかも知れない(理想的に上手く行けば、相対論的に不変な形式まで行ける)。また個人的事情に限っても、同じ数式に対して、電磁気学と流体力学の二つイメージを持てるのは悪くない。 さっきも言ったように、たとえ統一手法があったところで、各手法に対する豊かな物理的イメージを持ったに、越した事はない。 で、これには先例がある。力学の正準方程式がそうだ(ハミルトニアン)。 ラグラジアン形式からハミルトニアンに移行したところで、そこから新しい結果は何も出てこない。それはゴールドスタインやランダウの教科書に、はっきり書いてある。しかし正準形式の読み換えは、量子力学への移行に当たって、当初は唯一つの決定的一般的方法だった。もちろんそれは、ハミルトンの預かり知らぬ事ではあったが。 だから物理は面白い。そして最後に判断するのは、あなただ。今井先生だって、超量子論は目指していない。どうします?。 そして「電磁気学を考える」は、ふつうに電磁気学を学んでから、読むべき本だと思う・・・が、まぁ~、暇があったら読んでもいい本じゃないかな?、と個人的には思う。こういう考えもあるんだね、と(^^;)
- spring135
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いわゆる連続体仮説に基づいてベクトル解析、テンソル解析を用いてマクスウェルの方程式、ナビェーストークスの方程式、弾性体の方程式といった共通性の多い現象を一括して取り扱おうとするアプローチは1980年譜代ごろには完成し、有限要素法、境界要素法を用いた大規模汎用解析コードも完成しており、何をいまさらという感じです。しかし大事なことは乱流の渦度レベル、個体の結晶粒レベル、および電子や原子核といったミクロな世界では連続体仮説はまったく意味をなさず、統計力学、量子力学によらざるを得ないということです。
物理的現実や理論の目的からすると、#1さんの仰る通りだと思いますが、数学的アナロジーに限れば少々話は違ってきます。 マックスウェルも最初は、流体力学的モデルを用いて電磁場を研究していましたし、個人的には、電磁場のマックスウェル応力を導いた時、それが非圧縮性完全流体の運動量フラックスと形式的には全く同じだと気づいて、度肝を抜かれたおぼえがあります。 これは個人的予想ですが、電磁場の基礎方程式というか、電磁場の保存則を見ている限り、電磁気学を流体力学の文脈で完全に読み換える事は可能だと思います。 もっとも電磁場は、電気流体と磁気流体が相互作用しながら運動するという、現実にはあり得ない2相の非圧縮性完全流体にはなりますが(混相流体ですらない)。それでも流体の渦度などに対して、ベクトルポテンシャルを考える事はできるはずです。ふつうはベクトルポテンシャルを導入しても余り役に立たないので、やりませんが。 ・電磁気学を考える,今井功,1990年,(株)サイエンス社. という本があります。この本は一部で「トンデモ系」という風評もありますが、自分はそうは思いません。その序文には、流体力学的手法で電磁気学を整理し直したら、案外とわかりやすいのでは?、とはっきり書かれています。つまり整理し直しであって、新理論の提示ではないよ、と。最後に得られる結果は、ふつうの電磁気学と同じです、と。 著者である今井先生は、もともと流体力学の大家です。自分の若い頃には、数学セミナーの記事や特集で、ずいぶんとお世話になりました。上記の本を書いた時に今井先生は、まさに電磁流体力学を扱っていて、電磁場と流体場のアナロジーに触発されたと書いてあります。流体力学の大家でもあった、今井先生ならではの本だと思います。 ただし、砂川先生などの本で、ふつうに電磁気学を学んでから読むべき本だとも思えます(斜め読み通読では)。という訳で現在、「電磁気学を考える」を読む事は禁欲してますので、先の個人的予想の確認は取っていませんが、序文を読んだ限りでは、読み換えは出来そうです(^^)。 読み換え結果として重要なのは、ファラデイの電気力戦と磁力線を、正当な数学的道具立てとして位置づけようという態度です。ここでの力線は、もちろんファラデイが言ったような物質的なものではありません(この辺から「トンデモ系」の風評がたったのかな?(^^;))。でもそれは要するに、流線網に注目する、という事です。そっちの方がわかりやすいよね?、と。 わかりやすい(はず)なので、じつはこの本では、相対論的に不変な形式まで扱っています。 自分が持ってるのは、1990年の第1刷に加筆された2003年の第6刷です。今2013年なので、10刷くらいは出てるかも知れません。
- ORUKA1951
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いえ、物理学では全く両極端の分野です。 超微細構造 素粒子とか電場とか・・・は量子力学や相対性原理などで過去と未来が想像できないと言うことも含めて計算できます。 マクロな天体の運動も、そうですね。(量子論は関係ないけど) しかし流体力学は、マクロとミクロの狭間は、計算も出来ない。膨大な量の計算が必要になる・・天気予報すら、スーパーコンピューターで計算しても正解が出せない。
お礼
広範な考察が展開されていて大変ありがたいと思います。両方の成り立ちを極微の世界から論じる場合や、式が出来上がったあとで、計算する(式があって計算だけするのであれば理論を知る必要がないと極言できると思いますが。知っていたほうがベターでしょうが)という視点からの考察も展開されているようです。 目線をずっと低くして、以下のようなことがあります。 1クーロンの電荷を電界に逆らって移動して1Jのエネルギーを与えた場合、その電荷には1Vの電位差が与えられた。1kgの水に塊を重力に逆らって1Jのエネルギーを与えると1/9.8[m]高いところに移動している(その高さの分、斜面を登っている標高)ということになります。 まるで、電位と標高が同じもののように見えるのですが、電位は電磁気学の内部だけれども、標高は流体とは異なるということになります。 そっくりだ!と思うと、そっくりでなく、全然違う思うと、似ている!となるわけです。 ランダウリフシッツよりも、ファインマンさんあたりを引っ張りだすのかな?などと思うのですが。