慰安婦問題の無反省な反省はおかしい!!
慰安婦問題については、特に最近、朝日新聞が過去の記事を一部撤回して以来、議論がよくされています。
慰安婦が軍によって強制連行された、という主張については、いろいろ議論があるようですが、慰安所において、慰安婦に対する強制性があったことは事実であり、(日本だけだったかどうか、また軍の関与がどの程度あったか、はおいておいて)、女性の人権侵害という面が強くあったことは事実であり、この点においては深く反省すべき、ということについて異論を挟む人はいないようです。
ですが、この誰も異論を挟まない議論について、私はおかしいと思うところがあります。そこで、あえて異論を書き、皆さんのご意見を伺いたいと思います。
そもそも戦争とは何でしょう。端的にいって、それは人殺しです。
人殺しは、通常は、断じていけないこととされています。にもかかわらず、戦争では人殺しが正当化され、奨励すらされることになります。つまり、戦争というのは狂気の世界です。それが大前提です。
むろん、その狂気の世界にあっても、ぎりぎりの道徳性を持ち込もうと、非戦闘員の殺害の禁止、捕虜の人道的扱い、宣戦布告、等々、いろいろなルールを作り、人間はいろいろさまざまな努力をしてきました。それは、人間なりの非常な苦労の表れです。それはそれとして肯定すべき努力です。にもかかわらず、戦争とは、圧倒的に、殺戮を正当化する世界であり、狂気が支配する世界なのです。それをスタートラインとしないわけにはいきません。ですから、いくらその狂気にルールを持ち込もうとしても、ルールからはみ出すことがあることはもとより、ルールとその状況下における行為の対応性すら、日常世界におけるルールと行為の対応性と同等には考えることができないはずです。
だからこそ、その狂気の世界には、それ相応の、非日常の議論なり、道徳性なりが要請されるのであり、単純に、日ごろ一般の道徳性の尺度を単純に持ち込んで、議論ができるものでも、すべきものでもないはずです。
それともうひとつ、この問題には、過去の清算、という側面があります。今行われていることではなく、70年も前の、ずいぶん昔の事件です。そうなると、どれほど昔の、どのような事態を、どのような形で反省すべきなのか、ということが当然ひとつの論点となるべきもののはずです。
もう一度確認すれば、少なくともわれわれの住まう現代社会の、日常的な常識に照らしていえば、あきらかに、強制性を伴う慰安所は人権蹂躙以外のなにものでもありません。あたりまえでしょう。けれども、70年ちかく昔の、非日常世界における、そうした事態を、単純に、現在に直ちに引き戻して、日常の倫理を当てはめて、反省するというのは、それほど単純に全面賛同されるべきものではないはずです。
もしも、単純に日常の道徳性の尺度で言えば、戦争一般の殺戮そのものが人権蹂躙そのもののはずです。戦争化のルールを前提としてみても、日本軍がやった多くの蛮行も、シベリヤ抑留も、原爆投下も、つまりありとあらゆる国の行為が、正当化されないものがたくさん含まれているわけです。それに(まだルールもなかったような)過去をいくらでもさかのぼるなら、アヘン戦争とか、奴隷狩りとか、十字軍とか、むちゃくちゃな話はいくらでもあります。
強制性が問題だっていってるようですが、そんなこというなら、そもそも、(日本でも外国でも)軍隊に無理やり入れられた人たちもたくさんいるんです。そしてその人たちは、強制的に人殺しをさせされたということはどうとらえるのでしょうか?シベリヤ抑留の強制性はひどいものです。
そうしたことをどう整理をつけるべきなのか?そうした難しい問題への真摯な思考を、すべてすっ飛ばして、慰安所の強制性だけ抜き出して、反省するなどというのは、やはりどうしてもおかしいと思います。
性の問題は難しいです。でも、私は男なのであえて言いますが、えてして男性は、性の問題になるととたんに逃げ腰になる。そして、思考を停止して、多数の女性の心情に迎合する意見をいう。真剣にものを捉え、発言することを避ける面がある。
でもそういうのはやはり健全ではないし、おかしいと思うなら、ちゃんといわないといけないのじゃないか。本当に女性を尊重・尊敬するというのなら、単に迎合したり、フェミニストを装うのではなく、そういう意見をしっかり述べることこそ、むしろ女性を尊重していることになるのではないか、といっても賛同いただける方は少ないでしょうか?
ごくごく簡単に言えば、私が言いたいのは、ようするに、みなが同意しているのは、「女性の人権を尊重して、健全な戦争をしよう!!」といっているようなもので、そんな馬鹿な話はない!ということです。
皆さんはどうお考えですか?