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人物の登用

ゲームやってると優秀な人物を登用したくなるもんです。 信長の野望の登用方法はある作品は脅す、お金、説得。 脅してもほとんど起こられるんで、大体説得してましたが。 さて、歴史上の人物の登用って実際にどうやって行われいたんですか? 特に戦国時代を知りたいんですが、他国でも、政治家や、ヘッドハンティングでもいいです。 どう説得し、相手がどう応じ、どう交渉するのか。 いろいろ教えてください^-^/

みんなの回答

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.4

「船頭多くして、船進まず」ということわざがありますよね。本来、軍の組織は、「外から来た物言う人物」をあまり必要としていません。例えば、旧帝国陸軍がマッカーサーを招こうとなどしませんし、ソ連軍がロンメルを招こうとはしません。 しかし、ゲームや小説では、「人物の登用」が重要です。もちろん創作物である、ゲームや小説は史実に基づいてはおりません。中国の三国志演義は創作物ですし、日本の戦国武将の逸話の多くは江戸の創作に近代の創作を重ねたものなんです。 しかし、「人物の登用」は史実では無いが、史実のある側面を反映しています。 それは、 「人物の登用」の大名側の一番の目的は、その人物の能力よりも、その人物の持つ土地と人民と兵力なのです。特に兵力。封建社会では、原則、国軍がありません。織田軍の多くは、織田家の家臣が持つ家臣の私兵なんです。信長自身の兵力は一部に過ぎません。 現代に例えれば、愛知県の市町村長が各自の私兵を率いて、県知事織田信長の元に「団結」して、織田家家臣団、織田家を形成している訳です。織田家の成長とは、各県の市町村長の吸収によります。意外と、信長は人を殺してはいないのです。ですから、後期の織田家は尾張だけでなく、美濃・近江さらに大和や播磨の武士も参加しています。戦国の合戦は近代戦よりもずっとぬるい戦いです。負けた側も多くは生き残って、社会的な身分は落ちるけども、勝った側に吸収されていくものなんです。 市町村長が、つまり、武士達が織田家の元に団結する目的は、信長の武力に対する恐怖と、土地給与や相続争いの調停といったアメ。相続争いは軽視できません。武士の家は相続争いが多く、時に、身内が敵になります。武士は、親族に土地を奪われないためにも、「主君」による支配が必要なんです。 織田信長は、県知事の座を親から世襲してますが、愛知県の市町村長のうち、知事に従わない者もおり、これらを信長は武力のムチで脅しつつ、土地の給与などのアメも使って、手なづけていきます。こうして、市町村長を従えた後、静岡県の今川知事を桶狭間で殺して、次は岐阜県。岐阜県の市町村長を、アメとムチで寝返らせて、岐阜県知事の斉藤氏を追い出して、岐阜県を併合。さらに、伊勢や近江にもアメとムチの手を。 三国志の場合、特に演義は「大げさな人物評」が目につきますね。これは、漢帝国の人事が人物の評価に頼ったために、貴族達が友達同士、大げさに誉め合った事によっています。大げさに誉めてあげねば家臣になってくれないんです。だから、名将・知将だらけ。なお、当時は「脱税の黙認」がお約束。ですから、支配している人民の人口はものすごい過小申告。人口が1/7になったのではなくて、課税されている人口が1/7。大して死んでいないんです。

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  • afv2021
  • ベストアンサー率52% (188/360)
回答No.3

大半の武将は自ら出世を望み、それゆえに有望な大名に自ら仕官することで、配下となることが多かったようです。 つまり、大名でも魅力や勢力として小さく、将来の展望のない大名などには新たに仕官してくる在野の武将は少なかったわけです。 それでも日本の武家は縁を大切にしますので、昔から主従のある家系等から、元服した新たな若者が縁故によって仕官するのが通常でした。 また、大名など、主の家系で世継ぎや新たな男児などが誕生すれば、主従がある家臣(家老など)の家系で、同年代の子供も一緒に養育され、将来の股肱の臣となるべく主従を教え込まれたのです。 逆に、縁故のない在野の武士は、戦国時代が終わると仕官すること自体がなかなか大変だったようです。 有名な剣豪の宮本武蔵も、剣の腕で天下に名前を知られるようになる目的は、大大名に仕官したかったという理由だといわれています。 浪人でないかぎり、武士はそれぞれ地方の有力者に仕えているか、独自の領地を持っているのが普通です。 それぞれの地方で地元の領地を持っていたり、明確に領地とされていなくても、その地方で独自の勢力を持ったりしていることが多かったのです。(明確に領地がないのは山賊や海賊の棟梁など) それらの地方領主は、例え猫の額程度の領地であっても、独立心が旺盛で、大名だからといって、ずっと臣下になるとは限りませんでした。 大名同士の戦のときになって、両方の大名からの打診を受け、勝ちそうな大名に一時的に参加するという姿勢の地方豪族なども多かったのです。 ただ、戦国時代末期には、天下の趨勢が確立しつつあったので、大名などの有力者からその領地や勢力を認められることで、自らの地位を安泰とすることも、勢力の境界などで争うことの多かった時代には必要なことでした。 大名や大大名でも、戦を行なうと同時に、戦闘(合戦、攻城戦)ばかりでなく、攻めた国や隣接する地域の地方領主や有力者に自分の傘下に入ることを打診するのが普通であり、拒絶された結果が戦となるのが常だったようです。 戦上手であったり、築城の巧みな武将は、戦雲が近付くと大名の方から声がかけられ、どちら側につくのか打診されることが多かったようです。 それ以外では、戦場となる地域の豪族が、攻める側と守る側の大名から声をかけられたり、情報収集(耳のいい)豪族は、勝ちそうな大名に自ら参加を表明するような形で戦に参加するということが多かったようです。 ただ、戦のたびに主をコロコロ変えるような不心得者は、やはり信用されませんので、裏切れば滅ぼされてしまうこともw 逆に、主を変えることを拒否する忠義者も、主である大名家が滅ぼされれば、説得されても仕官に応じなかったという美談もあるようです。

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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (817/3048)
回答No.2

歴史小説で野真田幸隆の北信濃諸将調略や豊臣秀吉の家康傘下重臣石川数正調略、三国志演義での曹操の韓遂調略などでは、相手側にあらかじめ狙いの武将が調略に乗ったとうわさを流して、相手が留まりにくくしてから裏切らせてますね。 これらの事例が事実かどうかは別として、そういった方法もあったのだと思います。

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  • mstk2
  • ベストアンサー率26% (157/588)
回答No.1

三顧の礼ですかね。 有名なのが軍師竹中半兵衛。 信長が惚れこみ、秀吉を使いに出して家臣になるよう説得させたが6度断られ、7度目にして秀吉の人物を評価して受諾したといいます。 あとは三国志の例ですが、官途の戦いで曹操軍に味方した関羽は、曹操の捕虜になることによって一次的に曹操の客将になり、敵将顔良の首をとる戦果をあげて曹操の恩に報いました。 これらをみると、お金や役職で釣るのでなければ、基本は恩を売って相手に恩を着せることかと思います。

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