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江戸時代の毒薬について

江戸時代の話を書いていまして、質問があります。 吉宗の時代のころに、毒薬はどの程度存在していたのでしょうか。 また、その存在について、医者、薬屋、庶民はどの程度の知識が あったのでしょうか。 あと、現代でもよいのですが、以下のような毒薬はありますでしょうか。 ・薬を飲むと一瞬(数時間程度)元気になる。(覚せい剤的なもの) ・何回か飲むと致死に至る。 すみません。薬についての知識が全然なくアバウトな質問になりますが、 よろしくお願いします。

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  • tpg0
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回答No.4

>医者は毒殺された死体を見て、それが毒殺と気付くことができたでしょうか。 ↑日本に限ってのことなら、江戸時代の医者は「漢方医」が殆んどですから、よほど特徴的な死にかたをした遺体でなければ毒殺とは気付かなかったと思います。 そもそも、僅か10数年前の近年に起きた和歌山毒入りカレー事件でも、当初の死因は「食中毒」とされたのですが、その後の検死で遺体から青酸反応が出たとして「青酸化合物混入による事件」とされ、更に詳しく死因を調べた結果「砒素(亜ヒ酸)」混入事件だったことが分かったぐらいですから、江戸時代の漢方医学知識では少しずつ毒薬を盛られて衰弱死した遺体を見ても毒殺によるものとは気付かないでしょう。 なお、蘭学者であり町医者でもあった「杉田玄白」が1754年に書いた「解剖新書」は、処刑された罪人の遺体解剖を許されて書いたものですが、その杉田玄白でさえ西洋医学書の正確さに驚いたそうですから、日本の江戸時代の医学レベルは西洋医学に比べたら遅れてましたので、江戸時代には毒殺と気付くような医者はいなかったと考えるべきです。

ken-ken-k
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  • Pinhole-09
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回答No.6

死後生体活動が残っている方が、毒物の検出も 容易でしょうから、一、二日経つと判断は困難と 考えられます。 医師が罪人に毒薬を盛ってから、検死が終われば 死体はすぐ処分される筈なので、日時を経た場合 どうなるかの知験もすくないでしょう。 毒殺死体の皮膚は変色するとか、墓から掘り出された 骨の変色で毒殺がわかったとかの伝説がありますが、 確かとは思われません。 毒草の追加  毒芹(どくぜり)  毒空木(どくうつぎ) 猛毒ストリキニーネを含む。              鼠とり用  とりかぶと同様毒殺にも使われたそうです。

ken-ken-k
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  • Pinhole-09
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回答No.5

No.2です。 天保2年に 夫を毒害につき磔   の判決があります。   参考  http://okwave.jp/qa/q8000512.html    このような毒殺の犯例はかなりあるので、毒薬の 種類にもよるのでしょうが、医者の毒殺鑑定能力は かなり高かったことは確かです。 牢内で毒殺するのは奉行所の事件処理法の一つ なので、医者はその屍体を見て、鑑定能力をつけた のでしょう。 ただ少量ずつ飲ませて次第に弱らせて殺すのは 現代でも鑑定が難しい場合もあるので、当時では まず絶対に判らないというのが実体でしょう。 ご存じとは思いますが、西洋で高貴な人の銀の食器 は、毒殺防止の一環ということ。 (銀に砒素系物質が触れると変色する、従い食器は いつもピカピカに磨いておく) 日本では知られていなかったのでしょうか。

ken-ken-k
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ken-ken-k
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何度もありがとうございます。 さらに補足で申し訳ないですが、 気づくのは死体になってからすぐ出ないと厳しいでしょうか。 一日置くとさすがに気づかないでしょうか。

  • misa-on28
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回答No.3

江戸時代の医師が毒殺を判断できたかという事でいえば、 できるケースはあったという事だと思います。 洗冤集録という中国から渡来した法医学の本がありましたし、それを元にした無冤録述という本も入っていまして、江戸時代の検屍のマニュアルとして使われていました。 そこには毒殺の疑いがある遺体には銀のかんざしをのどや口腔に差し入れると変色する、という記載があったそうです。 ただし、判断できるケースもあった、というのは江戸時代は医師免許などなかった時代で、極論すれば自分は今日から医者ですと看板掲げればOKの時代ですから医師のレベルは一定水準にあったとはいいがたいからです。ですから医師より検屍役人のほうが確実かもしれません。 ある程度不審な死体があって、お上に訴えでられたばあいしっかりした検屍がなされれば少なくとも硫黄分を含むタイプの毒物であれば上記のような銀の変色で「毒殺だ!」という判断もあり得たという事でしょう。

ken-ken-k
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  • Pinhole-09
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回答No.2

前の答えと重複しますが、江戸時代の毒薬は 1.鉱物系   通称「石見銀山鼠獲り」と言われ有名な砒素系毒。    銀の採掘時の副生物。    鼠とり用ですが、人間毒殺用にも。    下記ちんどくと同様の毒性です。    庶民も入手可能でしょう。   鴆毒(ちんどく)  医者の薬で毒にもなる。    本来は字の如く鳥系だったようですが、のちに    同様な薬効のある亜砒酸系のものが使われました。    成分については異論もあり。    微量では強壮作用がありますが、小量を長く飲ませると    衰弱死する。    量が多いと急死する。    政治犯の毒殺や、殿様の暗殺などにに使われたようです。 2.植物系   附子(ぶし)  漢方薬でもあり強い毒でもある。   烏頭(とりかぶと  うず)の根。   微量なら鎮痛薬、興奮などの薬効あり。   毒殺用としては急死タイプ。   以上は吉宗の頃でも知られていたと思います。 江戸末期になると海外より物、知識が入り毒物(薬)もふえました。 華岡青洲が麻酔薬に使った、朝鮮朝顔(曼荼羅 まんだら)など 附子とおなじアルカロイド系の毒。

ken-ken-k
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ken-ken-k
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回答ありがとうございます。 追加で質問させてください。 医者は毒殺された死体を見て、それが毒殺と気づくことができたでしょうか。

  • tpg0
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回答No.1

こんにちは。 昔から、毒殺に良く使われた毒薬は「砒素(ヒ素)」です。 最近の日本では「和歌山の毒カレー事件」で白蟻駆除用の砒素化合物が犯行に使われたとされてますが、砒素は無味無臭であるため食品に混ぜられても気付かれることがない毒薬で日本の江戸時代にも毒殺に盛んに使われたそうです。 何かの切っ掛けで得た知識ですが、幕末最後の天皇である孝明天皇は妹である和の宮を徳川家に嫁がせるなど幕府に理解を示してたことで、倒幕派の公家達に砒素を少しずつ盛られたことで徐々に衰弱してしまい若くして崩御されたとの疑惑が持たれてますが、徳川幕府内でも将軍の世嗣ぎ争いでは反対勢力の取り巻きから砒素が使われたのではないかとされてます。 そして、西洋諸国でも王室を始めとする貴族の間では、毒殺に砒素が用いられたそうです。 この為、西洋では「銀食器」が貴族の間に盛んに使われるようになったとされてます。 なぜなら、当時は精製技術が未熟だったことで、砒素に「硫黄成分が僅かに含まれた」ので、硫黄成分に直ぐに反応して銀が黒ずむために食べ物に砒素を盛られたことを素早く察知出来るからです。 しかし、江戸時代の日本では銀食器を用いたという話は聞いたことがないので、当時の砒素に硫黄成分が含まれたことや銀が硫黄成分に反応して黒ずむという知識は日本の医者や薬屋も知らなかったから「毒見役」が存在したと考えられます。 その他の毒薬では、昔から「鳥兜(トリカブト)」が有名で毒矢として矢に塗られて使われたり、食品に混ぜて毒殺目的で使われてたようですが、鳥兜の毒性は多くの庶民にも知られてたようです。 なお、元気になるかは実際に私自身は経験してないので分かりませんが、日本の江戸時代では「阿片(アヘン)」は有名な麻薬で遊廓の花魁や女郎達が阿片中毒者になって短命だったのは、辛い現実逃避の目的があったのではないかと考えられます。 (※勿論、職業柄から梅毒に冒されて死に至った女郎達も多かったそうです) 以上、何かの参考になれば幸いです。

ken-ken-k
質問者

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回答ありがとうございます。 追加で質問させてください。 医者は毒殺された死体を見て、それが毒殺と気づくことができたでしょうか。