こんばんは。「読解力」と仰っていますが、人と会話する時に「その内容」を理解できて適切な応答をされているのならば、バランスが崩れているとも考えられます。
国語には4つの柱があります。「聴く力と話す力」「読む力と書く力」です。この4つの柱は互いに独立しつつ密接な関係の上に成り立っています。
相手の言葉を聴くことができるから、それを「一度自分の頭の中で受け止めて相手に返すこと」ができ、それが「聴く力と話す力」の関係であり、その時の「音声」を文字に置き換えた形が「読む力と書く力」になります。そしてこのそれぞれの柱は別の領域にも橋渡しをします。「聴いた言葉を文字にする」「書いた言葉を音にする」とのクロスの関係になることもあり、相互に補う形で「言葉」に息吹きを与えます。
>歴史や社会の教科書を読んでも何が何だかわからない
歴史教育に携わる者にとって、とても耳の痛い話で申し訳ありません。恐らく質問者様が「これまでに出会ってきた教員」の多くが、「データを詰め込むこと」に腐心するばかりで、その歴史事象が語ることの意味や理解の導き方にまで至らなかった落ち度として謝罪する以外にはありません。最も大切な部分である「なぜ~なのか」との疑問に答えようとしない姿勢が質問者様のように多くの学童に苦痛を強いてきたのでしょう。
閑話休題、質問者様が「本を読む理由」は何にあるとお考えでしょうか。新たな知識を得たり、それまでの知識を確認したりなどと様々にありますが、「本や論文」には「問題」が提示され、それに対する「結論」が記されています。と同時に「そこに至るプロセス」が説明と同時に示され、その内容に齟齬があるならば「結論」の正当性があやしいとの疑いも出てきます。そうした「疑わしさ」を生む背景に、読む側の姿勢も反映されます。もし何の疑問も持たずに読み流すだけならば、最後に残るのは「おもしろかった」「良かった」など単語レベルでの即物的な反応でしかありません。
面白かった、ならば「そう考える理由」がなにがしかあるはずです。そうでなければ面白いとの印象も生まれない。
もし質問者様が野球の選手だとして打席に入り、投手と対戦した時に「次のボールを相手は何処に投げてくるか、どの様な球種で攻めてくるか」と様々な「想定」を頭の中で考えるでしょう。「本を読むこと」もこれと似ています。「読みとる力」などと肩に力を入れず、相手と「言葉のキャッチボールでもするか」とリラックスしてみましょう。そのためには先ず「短い文章」を選んで読んでみることもお勧めできます。新聞をお読みになる時、質問者様は株価の欄など以外にどこにめを通しますか?。テレビやラジオの番組欄もあれば、政治面や文化面もあります。更には読者からの投稿欄や一面の下段あたりに綴られる「コラム」もあります。この「コラム」の文章を読んでみましょう。季節の花便りの話題で始まり何時の間にか社会の動きに対する筆者の目線として文章が終わることもしばしばあります。落語で言うならば「枕振り」でしょう。
理系の方々にも達意の文章をお書きになる人物は多々います。理系の方々が日々目にしているのは膨大なデータの山ですが、この方々は「データの意味」をそこから読み取るなり嗅ぎ分けているともいえます。文学作品ならば「行間」にあたる部分ともいえます。絵画や書ならば「背景」や「余白」といわれる部分です。画面一杯に対象が描かれていても、それだけでは遠近感も立体感も生まれません。「必要だから」それ以外の部分とのメリハリやコントラストを着けるのであって、それがなければガラクタの山と同じです。ですから「理系の人間に読解力はない」などと乱暴な物言いを僕はしません、否できません。相手に対して非礼だからです。
数学者のデカルトがなぜ「我思う、ゆえに我有り」の言葉を遺したり、寺田寅彦や湯川秀樹といった理学の方々が歴史や文学の言葉に目を向けたのか、などと考えてみるならば、より多くの言葉を知りその言葉を聴きたいとの素朴な願望や謙虚さがあってのことと思われます。一つの分野に精通した方々は必ず他の分野にも多大な関心と期待を寄せています。そうでなければ自らの領域での成果を相手に理解し易く伝えることなど適わないからです。
昨今では、○○大学教授などと仰々しい「肩書」を勲章か何かと勘違いしてテレビ画面に姿を見せる方々も多く見られますが、その方々が得々と語る内容にどれほどのものがあるか学問に携わる者としては気恥ずかしいとしか申し上げられません。まるで自身の粗末な裸体を人前に恥ずかし気もなくさらしても平然としているかのようにも思えます。
読解力に劣等感を持っていると仰っていますが、僕には決してその様には感じられません。自身のコンプレックスを人前で披露することのできる方ですから、ご自身の「言葉の世界」をお持ちでしょう。あとはそこにどれだけの衣服の種類を増やしていくことができるか、だけです。音楽という言葉もあれば、映画という言葉もあります。「そこから何を感じとったか」をご自身の表現方法で示せば、必ず相手に伝わります。「見たら書く」「聴いたら書く」の延長線上に「読んだら書く」があることを憶えておけば、知らず知らずの間に「引き出しの数」も増えていきますよ。