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六年生歴史新聞

宿題で社会の歴史新聞【戦争と人々の生活】と言う勉強テーマの歴史新聞作らなきゃいけないのですが、全然思い浮かばなくて写したいので誰か参考にさせてください明日までなので即おねがいします!

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  • hideka0404
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回答No.1

■戦争と暮らし  戦争中は、どのように生活が辛かったのか、体験を中心に戦争中の生活について調べて考たことをまとめました。   1.食べるもの   戦争中の食事は、食料がなくて、人々はまともな食事はしていあせんでした。 戦争中は、食べ物がなくて、人々の体には、栄養がいきわたらず、国民が栄養失調で、人々がたおれたり、あるいは、死んでいく人もいました。その中でみかんの皮・キャベツのしん・かぼちゃ・すいかの種・さなぎのかいこ・イナゴなどこのような物を食べて生活していました。  2.子供のおかし  戦争中は、子供たちのおかしも量が決められていました。絶対に敵国のおかしは食べては、いけなかった。途中から食料がなくなってきたりしたのでほとんどの物が券で配給されるものになりました。 味噌パンなどは、その名残です。   3.畑の仕事は子供の仕事  戦争中は、食べ物がなく体もボロボロになり,イナゴ貴重な栄養源でした。なぜこのような食べ物になったかと言うと,田畑を耕してくれていた男の人達が軍隊にいって畑仕事をする人がいなくなり,おまけに食料は優先的に軍隊へと回されて行くから,国民に食料がまわってこなかったからです。あるお爺さんは、「食べ物は、さつまいもの干した物やかぼちゃの種などしかなかった。このような生活が毎日つづいていたと話しています。 お米よりも稗や粟が主食でした。 そういったものに、栗や豆を一緒に「煮込んで」お粥のようにして食べていたということです。   4.家庭道具回収  戦争がはげしくなったころ資源の貧しい日本は金属不足になりました。家庭道具まで回収された。どんどん回収されていくので、おたまが貝がらのおたまになりました。 5.女性の服  戦争中は、女性の服装も、決められていました。女性は、着物でつくった服しか、着ては、いけなかった。明るい服を着ると警察に、とめられたりしました。それに、髪形も決められたりしました。特にパーマは禁止でした。   6.軍事優先  戦争中は、生活のすべてが、軍事優先で、食料の他、衣類・燃料など、あらゆる物が不足していたので、配給制になりました。少ない食料を補うために、わずかな土地を利用し、食べ物を育てていました。お年寄りに聞いてみると、「建仁寺でトウモロコシ・さつまいもを育てて芋ずるの食べ方を教わった」と話してくれました。   7.訓練  戦争中の学校は、なにより体をきたえる訓練をしていました。兵士にさせるため、色々な訓練をさせていました。だから、ふつうの勉強は一日二時間ほどしかできませんた。一日二時間ほど勉強をした後、畑・たんぼの手伝いをしました。訓練は、できるまでやって、体ボロボロになるまでやっていました。お年寄りの方は、「空襲の火を消すために、バケツ体操をやりました。戦争中の子供たちは厳しい訓練をやったと思う。」と言ってられました。やりたいことは、すべて決められ子供たちの自由が無くなっていました。 8 まとめ  このように、戦争により物が不足すると、生活が大変になるので、戦争にならないように努め、他国と仲良くして、争いの無い世界に貢献できる大人になりたいです。 こんなんでどうでしょう?   8.本土決戦  戦争中は、小学校や中学校で本土決戦にそなえて、軍事訓練が行われていました。子供たちの勉強までほっておいて、訓練させるなんて、この時の日本は、次の時代の日本を考えていなかったし、戦争のことしか頭にありませんでした。そのころ子供たちだったお年寄りは、「中学校の時に英語の時間を楽しみにしていたけど、先生に覚えなくていいと言われた。」とおっしゃっていました。戦争中の子供たちは勉強をしたかったと思います。

kurobasulove
質問者

お礼

本当にありがとうございました! とっても分かりやすく、今社会歴史新聞に書きたいことが全てきっちり書いて頂いたおかげで、無事に新聞づくりが終わりましたm( __ __ )m 本当にありがとうございます!とても役に立ちました!

その他の回答 (1)

  • hideka0404
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回答No.2

補足 本土決戦~は消し忘れました。 小学生としては不要だと思われるので、無いと思って下さい。

kurobasulove
質問者

補足

はい、意味深ですね^^ 全く役に立たない無駄な回答((;^ω^)イラナイ