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なぜ、それを『宗教』としたがるのか?
(敢えて、このカテゴリーを選択しました。) 自分の既存の概念や知識では理解したり掴めない教えや哲学や考え方に触れると、それらを(既存の知識に当てはめて?)『宗教だ』としたがる人が多い様に思うのですが、仮にその通りだとすると、それは何故だと考えますか?
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質問者が選んだベストアンサー
自分がそれを理解出来ないことを認めたくなくて とりあえず「それは宗教だ」と言っておけば 言い負けないと思っているからだと思います。
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質問者の相手の方が、解らないことはなんでも「宗教」の一言で片づけるのは、「宗教」=「訳の分からないものを信じているだけ」というニアンスで答えているのだと思います。 いわゆる、質問者が考えている、学問的な意味を含んだ「宗教」とは異なるニアンスかと思います。 「宗教」という言葉は、明治時代に外国語を翻訳する際に作り出された日本語です。 明治以前の江戸時代には一般的に「信心」という言葉が使われいました。 英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語のいずれも、キリスト教文化圏の言葉です。 結果として、キリスト教=一神教での定義がそのまま日本語の定義に紛れ込み、一般常識化して、キリスト教的一神教の定義がそのまま普及してしまいました。 特に第二次世界大戦直後、米国の教育関係者が戦前の国家神道を糾弾排除するために、キリスト教的一神教の定義を正当なものとして教育し、その定義にそぐわない「信心」は原始宗教として未熟なものと教育しました。 結果として、一神教の定義にそぐわない日本人の心情を「無宗教」と短絡して考ることが普及してしまいました。 そもそも「神」という言葉も、明治時代にキリスト教の絶対神を表すゴッドやヤハウエやエホバという言葉を全て「神」と訳していまいました。江戸時代には「天主」と言い習わし、日本古来の「神」とは区別していました。 これ等の結果、日本土着の八百万の神もキリストもアッラーも日本人の心情としては見分けがつかなくなり、なんでも神様と呼んでいます。 他の回答者の多くの方は、無意識の内に「宗教」という言葉をキリスト教的なニアンスで使われているようです。 家に仏壇とともに神棚があって朝晩お参りしたり、お盆や、クリスマスの行事や初詣、除夜の鐘に参加する日本人は決して学問的な意味では「無宗教」ではありません。 海外旅行で知り合ったキリスト教圏の人に「私は無宗教です。」と言うととんでもない誤解を生みますので注意して下さい。 「私は貴方が信じる神の存在を認めません」という意味にとられてしまいます。 「私は日本古来の神を信じています」程度にしておけば、会話ははずみます。
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ありがとうございます!!
- 27club
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無能者が、人の上に立とうとするから。
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- aho0xff
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そうね。個人的に思うのは まず、本当に個人的に思うのだけど日本人ほど「宗教嫌い」な人種はいないんじゃないかな?と。 その対象はカルト的な宗教のみならず、仏教だろうがキリスト教だろうがイスラム教だろうが 「宗教」といわれるもの全てが該当すると思います。 嫌いとまではいわなくても、信仰しない無宗教の人が他の国の人々と比べて多いと思います。 一番典型的なのが、年末年始ですよね。クリスマスは元々キリスト教の行事ですし、それなのに 初詣は神社にお参りにいく。このチグハグさは宗教に関心が薄いからこそできる事だと思っています。 イベント自体には興味はあるけど、宗教に関しては知らない分からない。もっといえば 「分かろうともしない」のです。 まず、この前提ありきだと思います。 日本人の「宗教」に対するイメージそのものが、知らない、分からない、得体の知れない。そして 理解するつもりもない。だからこそ >自分の既存の概念や知識では理解したり掴めない教えや哲学や考え方に触れると、それらを『宗教だ』としたがる人が多い のだと思います。まるで宗教みたいだと・・・ 宗教の考え方が、道徳や社会観にまで影響する他の国々では使われない表現だと思います。
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- key00001
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> それは何故だと考えますか? 単に、修辞技法の代表的な方法の一つである「比喩」です。 「自分の既存の概念や知識では理解したり掴めない教え」と言うよりは、「非科学的とか非論理的な概念」に対し、「非科学的だ」「非論理的だ」と言う意味で、観念的・概念的・感覚的などの思想の代表である「宗教」と喩えているのですよ。 即ち、「非科学的・非論理的な概念」とか「観念的・概念的・感覚的な概念」などと理解・把握したので、「宗教」と喩えているワケです。 もし「理解を超越した概念」などであれば、どんな優れた知性の持ち主でも、喩えようがありません。 尚、「宗教だ」と言う場合、概ねは非科学的・非論理的・感覚的などの部分を、バカにした表現と言えるでしょう。 要は信憑性が低いので、「オカルト」とか「都市伝説」などと同じ様な意味で、「宗教」と言っているワケです。 比喩では無く、本気で「その考え方は、宗教である」と言っている場合のみ、その思想に、宗教学的な価値を見出していると言うことです。
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ありがとうございます!!
- fict923ikayoma
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歴史的には、宗教とは民をタブラかして利益を得る事。物質的利益が伴っていなければ、宗教ではありません。もし貴方がそう言われたのでしたら、気になさらなくていいと思います。貴方のそれは道徳風福祉です。
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- sudacyu
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宗教とは何かという定義に関わりますね。 もし、宗教が『個人的レベルで“信じる”ことによって成立する=証明を必要としない。』ものだと定義するならば、 どのような抽象的事象も、共通の理解基盤を持たない他者から見れば、本質的に宗教と同様に『個人的に信じている』だけで、宗教の定義と同様に見える。 科学技術でも、電気や磁気・素粒子理論などは、人間の五感を超えて発達してしまい、応用機器の生産とその社会的利用によって、現存するものだと理解されているが、本質の理論を論じられても、『信じられない』・『現実離れ』したものが多くなっている。 抽象事象ではない、現実の物理・数学でも、現在では、高校・大学レベルのものでは、理解できない人が大多数となっている。 個人が、現在の科学技術において、「確かにある」・「現実」と『信じ』ていても、全く理解・説明できない場合、その心理的状況は、宗教を『信じ』ている心理的状況とどこが違うのだろうか。 個人的には、宗教ではない要素としては、個人レベルにおける違いではなく「社会的な共通認識基盤」があるか・ないかでしか区別できないと思われる。 この「社会的な共通認識基盤」が存在するかどうかさえ、個人が社会をどのように見ているかという『個人の認識』の在り方に関わる以上、絶対的な指標とはなりえない。 このような状況が、質問者さんの疑問を生む背景ではないでしょうか。
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ありがとうございます!!
- oKwavea
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普段の生活では問題にしないような領域を宗教と呼びたがるのでは。 科学によって生活がほとんど成り立つので、科学が拠りどころになっています。 分からないことは科学が解決してしまうので、宗教に頼ることは少ないです。 自己の死はまだ先のようだし、他者の死を目にすることもあまりありません。 病気で死ぬことも少なくなりました。 科学(分析、解釈)だけで満足できる状況にある人にとって、宗教は生活の領域外で不必要なもの。 科学だけでは満足できない問題を抱えたときに、宗教に救いを求めるのかもしれません。 日常の多くの場面では科学が宗教よりも有益で、宗教はなじみの薄い疎遠なものになっているのだと思います。
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『宗教だ』=『宗教のようなものだ』
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- hekiyu
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宗教というのは、それを信じていない人には 理解できないものです。 その「理解できない」という共通項があるので そこだけを強調して、宗教だ、と言っている だけのように思われます。 ちなみに、宗教とは判例では次のように定義 されています。 「神、仏など超自然的、超人間的存在を確信し これを畏敬、崇拝する行為と信条」 この定義を一応是とすると、理解できない教え の総てが宗教になる訳ではないことは、一目瞭然 なんですけどね。
お礼
ありがとうございます!!
(私もこのカテゴリーならば、許される答えだと思ったので) そもそも(世間一般的に言う)「宗教」の明確な定義はありません。 もっと言えば、最近は「比喩的表現」が通じにくくなっています。 何かと大げさに「比喩的表現」をするのが、大好きな日本人ですから、そう深い意味はないと思いますけどね。 って、もっと具体的な質問ならば、もっと具体的にお答えする事も可能ですが、この文章だとこれぐらいの答えが精一杯でしょう。 もちろん、この回答も「決死の覚悟」でしています。(笑) 最後に、あくまで主観です。
お礼
ありがとうございます!!
お礼
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