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鶏を育てて解体して食べると「いただきます」がいえる
鶏を育てて解体して食べると心から「いただきます」が、言えるようになるのは何故ですか? 普通は逆じゃないでしょうか?
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- mikku2011
- ベストアンサー率28% (37/130)
何度でも書いていますが生きる為。 謝罪はしていませんが感謝はしてる。 なぜ感謝しているのか。 生かせてもらっているから。 それだけ。 有難うを謝罪に置き換えられるのは その主体によりますよね。
- Mar1111gaia
- ベストアンサー率36% (4/11)
これは言葉のあやじゃないでしょうか。 表現の自由。 ごめんね、と思う気持ちを、ポジティブに変えて、ありがとうと言う。 とりや豚を育てて、解体して、食べるというのは、テレビでみました。 先生も生徒もどこか辛そうでした。 わたしはお魚もお肉も食べないので、純粋に 「じゃあ食べなきゃいいのに」って思いました。 同じ動物の命を、食べ物とみなすことが辛いとおもうなら、 命の授業なんてせずに、動物を食べるのをやめればいいのに。 でも、これはおそらく人間の通過点?なんだと思います。 いただく命に感謝することは、その命を讃えること。 その感謝するということを学んでいるんじゃないでしょうか。 同じ動物でも、たとえば肉食動物は、じぶんで狩りをしますよね。 空腹のときだけ、自ら狩りをし、言ってみればこの命の授業のように、解体して、食べます。 空腹じゃないときでもお腹を満たすために、コンビニやファストフードなどで買う現代の人間とは 明らかに違いますよね。 野生動物、人間に身近な犬や猫だって、人間が考えるよりもはるかに神聖な意識をもっています。 感謝を、当たり前にしているでしょう。 動物を食べることが悪いのではなく、過剰な欲を満たすため犠牲になってくれてる動物がいるかもしれません。 そのことに 違和感をもつならば、ごめんねとおもうなら、食べないという選択を。 もたないならば、その命をいただくとき、感謝しよう。 と、わたしはおもいます。
補足
ごめんね、と思う気持ちを、ポジティブに変えて、ありがとうと言う どっちでも同じです むしろもっと悪いのではないですか? 何でごめんねと言う気持ちをポジティブに変え嬉しがる人がいるのですか? もしも生きる為に緊急避難した人がいたとします ポジティブにありがとうと言ったら喜びますか? ごめんなさいでもいやだと思います もし本当にその相手の為を思うなら自分が犠牲になる事です またはみんなで助かる事 やっておいてごめんなさいも、ありがとうも無いでしょう もちろんその命を讃えていない行為です 自分がそうされて嬉しいともなんとも感じないのですから 肉食動物が狩をして食べるのはその相手の事を大事ともなんとも思っていないからです ただの食べ物に過ぎないのでただ食べるだけです でももしも肉食獣と人や弱い動物が同じ家族として生きていたら襲う事はないそうです それは相手に対して本当に気遣う気持ちを持っているからです では、気遣っていると自称していますが実際は傷つけていますその行動はなんですか? 行動が矛盾しているのです 神聖でおかすべからざる存在に対して加害危害を及ぼしておいて どう大切にしていると言うのでしょうか? この存在は大切です では守ります だったら矛盾は解けます 「違和感をもつならば、ごめんねとおもうなら、食べないという選択を」 この言葉こそおかしいですよね 質問全体から見て もともと感謝しなさい敬意を表しなさい(ごめんねと思いなさい)と言っているのは 学生に敬意を表しなさいと教えてる側です だったら、こう教えるべきではないですか? 「お肉になる生き物にも命があるのだから食べない方がいいです(食べないという選択を)」 言ってる側は矛盾したままなのです いってる事がとてもおかしいですよ その命を大事だと言ってる側が、その命を守ろうとしないでその命を奪うかどうかは相手にゆだねてる でも奪う事前提で感謝を求める これじゃあ感謝をして命を奪う事を推奨しているみたいです 申し訳ないと思うなら食べて良いなんて主張は出来ないはずです 学生が命を奪うのがいやで見るに耐えないから、学生が肉食するのをとめたい人の行動じゃない それは第三者の「感謝しよう」と言うのも同じです 感謝するぐらいだったら食べなきゃ良いと思います 「誰が食べなきゃいいか」の相手が間違ってると思います 「感謝しよう」申し訳ないと思いなさい、と言ってる側がまず食べなきゃ良いと思います そして、それからその考えをみんなに理由を話して一緒に肉を食べるのをやめようと伝える これだったらとても理解できます 考え方がおかしいのかどういう感覚でそういう考え方をするのかとても理解できない 分かるように説明して欲しいです
- j-mayol
- ベストアンサー率44% (240/540)
謝罪と感謝はまるっきり別物だと思いますがいかがでしょうか?
補足
ありがとうはごめんなさいで置き換えられます 犠牲になった食べ物に感謝するっていうのは謝罪と同じです 食べ物に何かしてもらってお礼をいっている訳じゃないはずです ここでの感謝は犠牲になってるんだから贖罪してる意味合い
- mikku2011
- ベストアンサー率28% (37/130)
あなたは人間を、人間が存在している事を否定しているのですか? 生きるという事はどういうものか議論したいのですか? 生きる為に他の命を犠牲にする必要あるのか答えが欲しいのですか?
補足
いいえ、人間の言ってる主張を言ってるだけです 人間が命をとるのは罪深いから食物に対して謝罪をし感謝をし続けなければいけないんだと言ったから、ではなんで罪深い事を感謝してまで続けるのか聞いているのです 食べる事、命を奪う事の是非についてはこの際は触れていないです 人間が謝罪しろ賠償しろと言うのに、では加害を続けるのは何故ですしょうか? または自然にそういう気持ちになるのはどういう心理ですしょうか? 加害をしない事が最大の賠償です 謝っておいて加害を続けるのが一番卑怯なやり方 普通悪い事なら「やるな」ですよね? だから普通の感覚だったら、謝罪が必要な行為だと言うなら毎回謝罪をしながら続けたいとは考えないでしょう 普通はやめなければいけないと感じるはずです でも、ここでは、あなたは悪い事をしていると言えば、毎日謝罪し続けるようになるといっているのですよね? やめようとは考えないで ここがどうしてそうなるんですか? 言った側が悪いからやめろと言っているのか、罪は無いから続けてもいいと言ってるのか いってる事がちぐはぐで分からない そしてこの感覚や気持ちが全然分からない やめろならやめろでやめるように向かうべきだし 罪が無いなら謝罪はすべきでない どっちかですよね? 普通だったら
- mikku2011
- ベストアンサー率28% (37/130)
逆にお聞きします。 あなたは何で生きていられるんですか? あなたが生きているのは他の命を奪ってきたからではないのですか? 現在は殺してまで命を長らえるお考えはないのかもしれませんが 幼少の頃はどうでしたか。 人間以外の動物の生きる為に命を犠牲にしています。 それは罪にならないですか? 人間は否が応でも食べなければ死にます。奪わなければ生きていけません。 これが悲しくも現実です。 殺して食べて生きるのが我々雑食、肉食動物ですから。 私達にも動物達にも生きる権利はあるし命を奪う権利はないけれど 生きる目的は”食”動物達も同じで生きる為に食べてる。 それは自然の摂理であり理でもあります。 愚かな人間は奪い過ぎる事があるので解せませんけど。 今ある命、自分の命、自分以外の命どれもこの世で一つ。 だから食べる時に、その命の存在に感謝して 生きていける事を喜びとする。 それが納得いかないなら食べなければ良いと思う。 他の命を犠牲にしてまで生きていきたくないという人は死ぬしかないのですから。 ベジタリアンも命を奪って生きていますので動物を殺して食べる人間と同等です。
補足
更に逆に質問します 現実が悲しいと思っているんですよね? ではなんでそうならないように何とかしないのですか? なんで今人が生きているかと言うと生まれたからです 生まれた以上死ぬのは難しい事です だからきっと死ぬまでいき続ける 誰も でも生まれなければそうはならないですよね ではなんで生むのでしょうか? では生まれる必要は? そして生む必要 生む事は生む側の意思で決められる事です 罪を背負ったまま何で生きなければいけないのですか? もし生きる事は何かを犠牲にしなければいけない 何かを犠牲にしてのうのうと生きるのは罪 それなら答えは簡単です 生まれて生きなければいけない場面にたたされなければいいのです 肩身が狭い思いをして犠牲に下側に何時も頭を下げながら生きるなんて出来ない でも、犠牲にしない事で犠牲になる側だった側に頭を下げてもらうなら受け入れられる なんで今生きている人は頭を下げてまでいきたいのですか? プライドは無いのですか? 我々私たちは生まれる必要なんて実は無いんですよね? ただ意識しないで生まれたからただ息をしているだけ それは意識しないで生んだと言う行動が大本 では意識したら生めない 生む事は犠牲を作ると 最終的に煮詰めるとこうなりますよね
- rokometto
- ベストアンサー率14% (853/5988)
記事になってたテレビ番組見たのかな いただきますっていうのは日本では宗教に近いものだから、納得できる人はできるしできない人はできない話かな~って思うよ 生きることは殺すこと、人間は日々命をたくさん奪って食べないと生きられないんだから、それは生まれながらに背負った「原罪」という人もいる そもそも心から言える、って本人しかわからないことだから何とも言えないよね 適当に言ってるかもしれないんだしさ
補足
生きる事は殺す事、人間は日々命を奪って生きている では何で人を生むのでしょうか? なんで命を奪う事になるのに簡単に生むのでしょうか? 生きる資格があるのは平気で命を奪える存在だけって事になります そんな日とどこにいるのでしょうか? と聞きたいですけれど これが理解できる人たちはそういう感覚でものをいってるんだと思います 知ってしまった人たちは人生から脱落する権利が欲しいです 罪をやめてもいい権利
- j-mayol
- ベストアンサー率44% (240/540)
おそらく人間以外の動物で「~を殺して食べるのは悪いことだ」と考えるものはいないでしょう。 ところが、人間というのは他の動物の命を奪うことについて何かしらの抵抗感を持つようになっているのではないでしょうか?だから、動物の命を奪うことを、無益な殺生とそうでない殺生に分けて、ある意味自己を正当化し抵抗感を緩和しようとしていると思います。 また、動物の中でも温かみのある恒温動物と変温動物との間にまあいうなれば勝手に命の優劣をつけているんでしょうね。 本題ですが、現代社会では物を食べるための殺生(主に恒温動物の)を目の当たり見る機会がなくなってきています。つまり、何の抵抗感を感じずに物を食べられる世の中なんでしょう。そこで実際に物を食べるための殺生を見ることでその抵抗感を感じるようになり(特に自分たちが育てた動物であれば強い衝撃を受けるでしょう)、その結果として「いただきます」が心から言えるようになるのではないでしょうか。「いただきます」の言葉の中にはこの殺生が無益なものではなかったという自分を正当化する気持ちと、自分が生きるために犠牲になった動物への感謝の気持ちが含まれていると思いますよ。
補足
何かあまり感覚は分からないですね 自分を正当化するとは 正当化しなければ不当な行為であるって事になります それは、魔がさしてやった立場の人の言い分です 本当はすべきではないけれど、どうしてもやらずにはいられない そしてとうとうやってしまった・・・ そういう人は正当化する必要があります だから「いただきます」と感謝 そこには幾つかおかしい部分があります ひとつは自分がどうしてもやらずにいられないからやってしまったと言う状態です 自分からその罪を犯さずにいられない人が犯してしまうならこれは成り立ちますけれど 何もしなければ罪を犯す事が無い人には成り立たないはずです もしも例えば、「命を奪う位だったら食べ物なんていらない」と言う人がいたとします その人はそれが罪だと分かった時点で食べないでしょう 何かの犠牲を何とも感じない事が前提で成り立っています 次にそれが本当に罪だと言うなら感謝すべきとはいえないはずです 本当に罪だと思うのなら、それは「やってはいけない」 となるはずです 悪い事なんだからやってはいけない 悪い事なのに感謝をするというところがおかしいと思います もしも空き巣がいて盗んだ相手に日々感謝をする だから許される これっておかしいですよね? それと同じだと思います やってはいけないならやってはいけない、やっていいならやっていい このどっちかだと思います その生き物にも自分たちと対等の命があると分かって、その上で、食べた時点で感謝の気持ちは無いと思います 本当に感謝をしていたら食べれないはずですから 殺す相手に対して本当に感謝をしていると言うのなら殺さないで済まそうとするはずです その命を一番に大切にする それこそがその命の重さを理解すると言う事です もしも犠牲になった動物に対して感謝するなら、自分こそがその動物の犠牲になりたいと感じるのではないでしょうか? 自分が何も食べずに死ぬ事でその存在を助けられる 殺された生き物はありがたがられて食べられる事と殺されずに守られて生きて一生を生きる事どちらを望むでしょうか? もしも自分が食べられる立場だったら、目の前に肉食動物がいます 人はもしもそういう時、自分に感謝をして残さずに平らげる動物と または気まぐれで、食べない事もある動物と 絶対に食べない動物 どれがありがたいでしょうか 自分が相手の立場だった時の事を本当に考えているのか疑問です 人がお肉を食べられるのは、何の罪の意識も持たずだましだまし与えられるから口に入れられるんだと思います もしも相手の事を相手の立場で考えたらそれは絶対出来ない 元は、お肉も食べなきゃいけないと言うしつける側の命令でお肉を食べるのですよね では、もともとはお肉なんて食べなかった それなのに無理やり食べてありがとうと言う必要なんてあるのでしょうか? 恒温動物と変温動物との間に何でそのような感覚の違いがあるのですか? はっきりいって感覚についていけない 子供がお魚を飼っています もしも一緒にすごしていたお魚が死んだらきっと泣いてお墓を立てるでしょう それはお魚も人も何も違いは無いって意識があるからですよね それは猫でも小鳥でも同じです 誰でも悲しがる では恒温動物ではためらいがあるけれど魚だったらためらいが無いと言うのはどういう人なのですか? 殺して食べたら感謝をするという人もどういう人なんですか? 感覚がずれすぎていると思います 生き物を殺して感謝をするなら、殺さなければいいし、魚も猫も鳥も死んだら悲しい どうしてどこがどうなのか全然分からないです
- mikku2011
- ベストアンサー率28% (37/130)
命を与えられているお陰で生きていけるから 個人が出来るせめての感謝が頂く言葉です。 食って当たり前と感謝の意が表せない人は 命を頂く権利なし。 人間は他から命を奪って 生きながらえる生き物です。 昔も現代も未来も未来永劫変わらない。 科学で作った命ではない食べ物もありますけど 生き長らえるほどのものではないし。
補足
感謝とは何ですか? いったい誰に感謝するのですか? もしも食べる相手の事を考えるなら食べないのこそが最大の敬意だと思います 食べないで我々と同じ命なんだから 生かす だからもしも罪だと分かっているのにそれをやって、肯定出来ると言うのは逆だと思います 罪だったら決してやってはいけない事だし、罪でないから初めてそれが出来るのではないでしょうか? 自分から犠牲にしておいて感謝する感覚が分からないです
- kyo-mogu
- ベストアンサー率22% (3398/15358)
命を頂きますということが分かるから。 動物でも植物でも命を奪い、それを食すことで生きることが分かる。 今は食材の状態でしかみていません。そこに命があったことすら分からない程に。魚も切り身などになっている。生きた状態を知らない。 いま食べて居る物は、誰かが命を奪い、食材に加工してもらっているので。 育てる。命を奪う。そして食べる。そのサイクルを理解してもらう為。魚だと、あまり抵抗感もすくないけど、牛や豚だと大きいこともあるし、インパクトも大きい。その中間点的なものだし、また、さばきやすいからかな。 それと、命を奪ったそのままだと、単なる殺戮者です。ありがたく頂くことで供養にもなる。
補足
自分が悪い事してると知ったら感謝なんて出来ないのではないでしょうか? 人がそれを食べれるのはその相手に罪を感じづにいられるから 罪を感じるならそれは食べれないって事になると思います それと新たに疑問です なんで魚だと抵抗感が少ないんですか? 魚と別の生き物は何か違うんですか? もしも自分だったらと考えると、一番その生き物の供養になると思うのはその相手を一口も手をつけず そのまま埋葬してあげるのが一番の供養だと思います 悪いと思うなら自分のみを切るべきだと思います
補足
だから、そのそれが感謝になる気持ちが分からないのです ありがとうを謝罪に置き換えられるのはその主体によりますよね もしも生かしてもらってそして相手がそのための犠牲になったのならそれは謝罪の意味ですよね? どう見たって 純粋な感謝の意味は相手のご好意でやって頂いた時ではないですか? 相手が自分のために何かしたら嬉しいから感謝する では自分が相手を自分の為にかってに利用しただけの行為に感謝は使いますか? 相手は自分に対してそれを払う気持ちは無いのに奪い取られる、奪い取られる事がいやなはずなのに奪い取られる かってに利用して勝手に相手が代償を支払っておいてかってにありがとう 謝罪の意味合いだったら分かります でも謝罪の意味だったら謝罪しているのに同じ過ちを繰り返すのは口だけで反省していないって事になります すまないと思っていないでしょう? 何か勘違いしていると思います 鶏を食べて生きた人は鶏に生かしてもらってる訳じゃないですよ 鶏が死なないように手取り足取りご好意をしている訳ではないです 鶏は人が勝手に命を奪って勝手に食べただけ 殺さなければ寿命まで生きられた その中で色々な未来を想像できたはず 裁判ではいつも言いますよね?身勝手な犯行だから重罪だと これこそ相手の事を考えずにやってる身勝手な行い 主体性が全部自分にあって それを行った原因が相手の所為でない この行為こそが真に身勝手 裁判の犯罪者よりずっと 感謝とは相手の意識にするものです 相手が一番満足するのは?と考えて 考えていないでしょう? 考えていたら勝手に何かしたりはしない これと同じように違和感を感じてる言葉があります 「僕を食べて」 料理の中にいる死んでるえびや魚が「僕を食べて~」といってるみたいな表現をしますよね 「だれだれに食べられたい」 何で人の気持ちを自分に都合のいい考えに変えてしまうのでしょうか