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文章の書き方について

新しく九月から、会社で広報担当になったものです。 イベントや行事などの記事を書いているんですが、上司や同僚 から何か文章が読みにくい、言葉のつなぎ方やことばじりがあってないなどの 評価を受け、文章力が足りないなど言われています。 ただ、私自身、今までの人生で論文などで読みやすく、高い点数をもらい文章には自信がありました。 そのため、なにが悪いのかあまりわかりません。 論文と広報などの記事では、書き方がそんなにも違い、ここまで評価に違いが出るものなのでしょうか?

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回答No.3

文体ロゴーンというサイトがあります。 http://logoon.org/ 文章を入力すると読み易さを評価してくれます。 あなたの質問文は読み易さがC評価でした。 「イベントや行事などの記事を書いているんですが、上司や同僚から何か文章が読みにくい、言葉のつなぎ方やことばじりがあってないなどの評価を受け、文章力が足りないなど言われています。」 という部分だけを取り出すとE評価です。 次に、読み易さで有名な井上ひさしさんの文章を入れてみました。 「1番大事な事は、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということ。だからこそ、書いたものが面白いというのは、その人にしか起こっていない、その人しか考えないこと、その人しか思いつかないことが、とても読みやすい文章で書いてある。だから、それがみんなの心を動かすわけです。」 さすが井上ひさし。A評価です。 ためしに、あなたの質問文をこう書き換えてみました。 「私は広報のお仕事をしています。この職場には昨年9月に配置されました。私の担当はイベント紹介です。 ご相談したいは私の文章力についてです。 上司や同僚からは、読みにくいとか、言葉のつなぎ方や言葉尻が合ってないと言われます。先日、とうとう文章力不足と言われてしまいました。 学生時代、私はレポートで常に高得点を獲得していました。これまで、文章作法にはそれなりの自信があったのです。 いま自分の記事を読み返してみても、どこがいけないのかわかりません。 私の文章は何がいけないのでしょう。論文と広報文では、書き方が違うのでしょうか。なぜこれほど評価が違うのでしょう。」 これを入れてみたらA評価になりました。 たしかに私もあなたの質問文は読んでいてリズム感が悪いと感じました。 論文はリズム感だの文章作法が評価対象にならなかったのではありませんか? とりあえず、こうしてみてはいかがでしょう。 井上ひさしさんの著作を毎日読む。 記事執筆にあたっては、文体ロゴーンを使って一行ずつ校正する。 半年も続ければ美文ライターになれると思いますよ。 仕事である以上、あなたはプロです。プロというものはそれなりの努力を要求されるものです。 常に進化しなければならないのです。学生時代のままでいいわけがありません。 頑張ってください。  

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  • TANUHACHI
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回答No.2

 困りましたね、これだけのデータではあなたが大学院で論文を執筆していたのか、それとも受験生として小論文での評価を受けていたのかが判断できません。  一般論になりますが、少なくとも論文は「学会」という狭い枠の中でしか通用しない性質の文章です。そこに使用されているテクニカル・タームに態々説明を付加する必要もありませんし、先行研究から導いた問題点なり、新たな視点の提示とその論証の整合性に瑕疵なく書かれていれば、それで事足れりの世界です。その代わりに少しでも疑問符が付いたり、あるいは論理の綻びがみられたならば総攻撃を受けて炎上するだけの話です。  >今までの人生で論文などで読みやすく 研究者の間では「読みやすく」もへったくれもありません。もちろん文章には執筆者の個性も反映されますが、論文の生命線は「データの信頼性」と「論理構成」のみです。  あなたは小説やエッセイなどの文芸作品をお読みになったことがありますか?。「論文の言葉」には厳密な定義が施されていて、文芸作品の言葉にも定義はありますが、論文のそれとは少し趣も異なります。三島由紀夫と大江健三郎がたとえ「同じ言葉」を作品の中で使っていても、その意味は異なります。三島由紀夫が生命を吹き込んだ言葉と大江健三郎が生命を吹き込んだ言葉では、「言葉の見せる表情」も同じ物ではありません。  文章を書くことと文章を綴ることが同じといえるでしょうか。質問者様にはそうした部分での引き出しの数がいささか少ないように感じられます。  論文誌にエッセイ風の記事を書いたりすることなど許されるはずがないとお考えならば、それは狭量とも申せましょう。学問領域に多大な影響を与えた先学の訃報に対し、彼の人物を偲ぶ特集が組まれることも珍しくはありません。そうした状況に論文調の文章を寄せたならば、それは何か場所違いの印象を与えることにもなります。  逆にエッセイといえども論旨明快な文章で知られる作品も数多くあります。けれどもそれは不自然には感じられません。論理の運びによって、誰が読んでも「この言葉はこの意味で使われている」と分かり易い構造になっています。ここからわかることとして「相手に意図を的確に伝えることができなければそれだけで文章としては意味を持たない」との一点だけです。しかもこれは「文章の基本中の基本」です。  今まで「教員をよろこばせること」を意図してかあるいは意図せずしてかに関わらず文章を書いてきたあなたには厳しい言い方かもしれませんが、それは「文章を書くことの意味」を誤解していると考えられます。  僕も企業勤務と大学教育双方に携わる者ですので、割り切りは勿論自覚してもいます。けれど時には相互の立場で得た知見を逆側に転用してみることも多々あります。企業の現場でも「キチンと整合性のとれた論理に基づいた判断」ならば、現場にも上層部にも意見として提示することも可能です。  逆に、企業現場で培ったノウハウを雁字搦めのしがらみに縛られた研究室に提案することで通気性を良くすることもできます。    >論文と広報などの記事では、書き方がそんなにも違い、ここまで評価に違いが出るものなのでしょうか たとえば、八百屋で魚を売っていますか?との話と同じです。論文が通用するのは「学会誌」や「学術誌」であり、広報が対象とする読者は社員であり、時には社員の家族などです。学術の話を持ち出しても意味がありません。それはsnobbishな奴としての印象を相手に与えるだけで、何のメリットもありません。 文面を読んで今ひとつ質問者が関わってきた学域が判然としないのでこの辺りにしておきますが、もし質問者が院卒であるなどといったならば、僕は指導教員の顔を観てみたいものです 爆!

noname#194996
noname#194996
回答No.1

わたしもご質問だけでは分かりません。データが少なすぎます。 いまのところ 2人が否定的評価、あなたひとりが好評価、 >私自身、今までの人生で論文などで読みやすく、高い点数をもらい文章には自信がありました。 こういった論理的でない文章をみると、どうかな?というやや低い評価がでそうな感はぬぐえません。 >論文と広報などの記事では、書き方がそんなにも違い、ここまで評価に違いが出るものなのでしょうか? そんなことはないと思います。 >言葉のつなぎ方やことばじりがあってないなどの評価を受け、 普通 評価を受け というのは 良い意味で使われることが多いです。