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他の人よりも自分を認められたいという気持ちが強い私
- 私は他の人よりも自分を認められたいという気持ちが強く、日常のマイナス点にばかり目がいきます。
- 最近は休日でも外に出ず、行動力が衰えてしまっており、望みどおりに動けない自分に悔しさを感じています。
- 自己表現のために読書に勤しんでいますが、書評や読後コメントを見ても穏やかさを感じられず、息苦しさを感じる日々です。
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質問者が選んだベストアンサー
はじめまして。 「人に認められたい」と思って、そのために試行錯誤しながら努力してたりすると、カッコ イイと思ったりします。 人の目を気にしまくって身の回りや外見にすごくこだわる人も、そのためにスゴく努力して たりすると説得力があり尊敬させられたりします。 個人的には、どんなにクダラナイ動機によるものだとしても、そのためにスンゴく頑張って たりすると、逆に「ステキなやつだなぁー!」と感動させられたりすることが多いです。 世の中には、いろんな方面にスンゴく頑張っている人たちがたくさんいます。質問者様の ように「他人より自分が認められたい」という一心で、「そこまでするか!」というくらい 頑張る人にかならずいると思います。そういう人に、書籍やネット情報などで出会うと、 元気が出ます。そして、勉強にもなります。 ぜひ、いちど試してみてください。
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- ambrose_2013
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読書はどちらかというと思考系の趣味であり、雑念が多い場合は向かない気がします。 要するに、他人の評価をあれこれ考える、他人から持ち上げられたいという相談なのです。 世間からちやほやされるというのは、生物の根本的な願望であり、皆望んでいることなのです。 最も確実な方法は、認めてもらいたい人間にピンポイントで取り入ることです。相手を喜ばして相手に尽くせば見返りとして(表現は悪いが)一時的にせよ存在を認めてもらえる可能性はあります。 (例:給料をあげてもらえる/良い評判をもらえる) >人に認められることと、人の目を気にせず自分の思うままに生きることとの間に筋を通し とありますが、こんなことまず無いと考えた方が賢明でしょう。 自分の思いのままに生きる人間は、敵も多く認められないことも多いものです。 書評なんて、出版社社員が売らんがために書いている物です。消費者側は読めればいいんですから。 認められなくたっていいじゃないですか。認められたらかえって面倒な状況も多いものです。一匹オオカミでシガラミ無い方が気楽な人生を生きられます。顧客の評価・上司の評価・近所の評判等々......気にするような人間はやむを得ずそうしているか、余裕があるんです。 休みの日に外に出ないと食糧は手に入るんですか?買ってくる人間がいるのであれば恵まれていると思うべきです。 他人は何もしてくれないと考えると当てにしなくなっていきます。 それでも評価が欲しいのなら、身を粉にして評価が欲しい相手のために働くしかないです。
補足
こんばんは。ご回答ありがとうございます。 >最も確実な方法は、認めてもらいたい人間にピンポイントで取り入ることです。 世渡り、ということですね。そういった方はいたことはいました。 ただ問題は自分がニンジンをぶら下げた馬状態になってしまうことです。無論、自分ひとり楽しく馬をやっている間はそれでもよいのですが、ここに他人が割り込んできた場合、上記、争いをしたくない性分なので、一挙に冷めてしまうのです。 多分、あなたは「冷めるな、燃えろ」と仰りたいのでしょう。 自分もそうすべきだとは思います。 そういった燃え方、様々な雑念やプレッシャーをはねのけるノウハウや精神力、そういったものを持ちたいのですよねえ、結局は。 これに関し、もう一言お書き添えいただければ幸いです。 あ、ちなみに本日は多少グズグズでしたが、自分で買出しに出かけましたよ。日常は仕事が終わってからスーパーに寄ることにしています。
- ambrose_2013
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人生前半にあり、自分の能力を過信しがちなのでしょう。もしくは、幼少時に神童・才子と持ち上げられてきた経験があるからかもしれません。 「他人に認められたい」と最初から目論んで認められた人はあまりいないと思います。 認められなくても構わずに好きな事をコツコツとやったり、単調な仕事を工夫して楽しんだり、他人の目が気にならない熱中型の性格で頭角を現して注目されていくケースが多いような気がします。 「他人に認められたい」というのは、割と破滅型の人に多い自己愛であって、本当の幸せはむしろ「他人にどう思われたって構わない」という信念から生まれてくるようです。 結論から言うと、今のあなたはまだ余裕があるのです。 もっと追い詰められて、他人の姿が見えなくなるまで人生が悪くなった時から道は開けてくるでしょう。 自分の事に精一杯になると他人の姿に左右されなくなります。その必死さの中から独自の生き方が生まれてくるでしょう。 1)家に籠らずに、数キロ以上のランニングをして徹底的に肉体を追い詰め、考えずに集中する訓練をする 感覚器(特に目・耳)を使って脳が追いつかなくなるくらいの疲労を体験して他人を気にしなくなる 2)ホームレスに混ざり寒風の中で寝泊まりする訓練をするか、似たような経験をする 時には物乞いのような経験もしてみて、他人を気にせずに生きることを知る 3)1)の肉体的限界 または 2)の精神的屈辱に達する年齢まで待つ 一般的に3)の方が最も多いです。 年月を待ち、落ちるところまで落ちて這い上がっていく人間が多いのです。 天才とは、若くして他人を気にせずに自分の仕事に邁進できる人間のことです。また、他人の道・自分の路を知っている人間です。凡人とは、それが分からず他人の運命をみて羨み自分のするべきことを忘れて取り乱す者です。 他人のことばかりに目がいっているうちは他人に認められることは無いでしょう。 たとえ無人島で一人になっても努力すること。 一生認められなくても何かをやり続けること。 当面は、他人を気にしないという目標が肝心です。これは年齢と共に大半の人間が可能になってきますので、焦る必要はないかもしれませんが。
補足
こんばんは。ご意見ありがとうございました。 いろいろと申し上げたいことがあるのですが…(^^; 敢えて、引いておきます。 私の近くには、あなたのこのご説明が必要な方が結構たくさんいます。その方に是非このご回答を読んでいただきたいと思うんですよね。 ただ、私個人は残念ながらそういったタイプの人間ではございません。 やりたいことをやるために、「何故」無人島にまで行って努力をしなければならないのか。「何故」一生認められないと頭から決め付けなければならないのか。 そういうことに、疑問を感じるのです。 なぜならば、私の昔の知人に難しい国家試験を周囲からおだてられて受けた人がおりましたが、失敗を重ねて絶望して自殺したからです。どう見ても彼は実力を過信し、周囲から乗せられておりました。その周囲もやはり、多くが自分の実力を過信する、似たり寄ったりの実力の人々でありました。 自分の生きるペースを乱してまで何かを成し遂げるというのは、賭けです。しかし今一度彼は己に問うべきだったのですよ。その賭けは果たして日本国民ひいては世界に対し、なんらかの価値があるかどうかということを。 残念ながら私が回答者様の考えの境地に至り、さらに実践することは、恐らく叶いますまい。それは私個人の「命あってのものだねだ」という考えからです。 最後の二文のみ、ありがたく頂戴いたします。 親身になってのご回答ありがとうございました。
- daiasa05
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簡単です。簡潔に言いますが、 人に認められたければ、人を認めることです。 人を認めることにより、人に認められることに成ります。 人を認めないられないような人に、人が、認めることはまずないと思ってください。 周りの状況を受け止められて初めて人に認められ、 そして他人の目を気にしなくても自由になれると思います。 拳を握らないで、手のひらを見せれる人なれるようになってください。 がんばって^^
補足
こんばんは。ご回答ありがとうございました。 ううん…。 これはどうでしょうか。世の中にはこちらがいくら認めよう、先方がいくら理解してと頑張っても、結果としてこちらが理解できないものもありますし、逆にこちらがいくら理解して、先方がいくら理解しようと必死になっても、結果として先方が理解できないものも結構たくさんありますからね…。 ここ数ヶ月、少し身内でごたごたが起こっておりまして、頭では分かっていたのですがこういったことを改めて痛感した次第です。 そういう「どうしようもないこと」はもう放置するしかないのであって、その中で、ああちくしょういっそのこと八方美人になりてぇよなあ、なんて自分には出来もしないことを腹立ち紛れに望んでしまっている荒れた自分も、こうして発見したりするのです。 人に認められたい、という自分の欲求が関係しているかはわかりませんが、私は人々の考えの一つ一つの差異に対して無駄に丁寧な応対が昔からあります。十把ひとからげが苦手です。 「類は友を呼ぶ」って言葉がありますよね。これは世渡り観の基本の言葉の一つであると思うのですが、私はこれにどうしても反発を覚えてしまうのです。 だって例えば往来でおかしなことをしている人の回りに、そんなに必ず、同じおかしなことをする人が集まってくるでしょうか。いいえ最初に来るのはそれとは真逆の、ごく普通の見物人です。確かにそのうち彼に似た人もくるかもしれません。しかし通報者も来るでしょうし、警察だって来るでしょうし、もっと別の人も来るかもしれません。 「類は別に友なんか呼ばない」という結論に私は達してしまうのです。 恐らくあなたは、大衆の声を少し統合して聞き直しなさい、と仰りたいのでしょう。ええ、実際やってみましたが、今のところ私には否定の声しか聞こえて来ませんでした。 この否定の声を通り過ぎると、ラジオのチューナーが合うごとく、恐らくそれは大衆の純粋な強い欲求となって纏まって聞こえるのでしょう。 で、そのときに私が自分自身、果たしてどんな結論を出すだろうか、ということです。 あまりにも臆病な返答で申し訳ありません。何か追加でお言葉をいただければと思います。
- 967
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>自分と同じぐらいの年齢の女性が感じる、小さな幸せであるとかささやかな楽しみであるとかを見落としがち である原因が、 >認められたいという気持ちが強すぎる ことだと思ってらっしゃるようですが、私はそうは思いません。 認められたいという気持ちが強い、それは素晴らしいことではありませんか! 努力して仕事で成果を上げるとか、何か認められるというか正当な評価をされるようなことを、大いにすればいいじゃないですか。 私も、認められたい気持ちが強いんですよ! 専業主婦ですが、ブログでたくさんコメントをもらったり、こうしてOKWaveに書き込みしたりして、私の回答が喜んでもらえる時もあって、「認められてるなあ」って満足しています。僭越ながら、自分の能力を発揮していると思います。 質問者さんも、「これぞ私」と思える能力を、発揮できる場が、早く見つかるといいですね。 そしてまた、日常の小さな幸せも大切ですね。 私は、うつ病にかかったことがあるので、今普通に自分が日常を過ごせているだけで、神様に感謝というぐらい、有難さをひしひしと感じています。 おっと、メンタルヘルスの話はダメなんでしたっけ? でも、おひさまが照ったり、そよ風が吹いたりすることは、このうえなく幸せなことだと思います。 とにかく自己の能力を認められる場が得られるように頑張って下さい。
補足
こんばんは。ご回答ありがとうございます。 >大いにすればいいじゃないですか。 問題はそれができない状況だということです。質問本文でも書きましたが、枷のようなものができてしまって。 頑張り…さあねえ。それなりにもがいているのですが、私個人のところに入ってくる情報が少なすぎて、何をやってもあまりよい結果に結びつかないですよ。 あまり深刻になると能力オーバーで倒れてしまいますので、ぼちぼちやってはいるんですけれどもね。 なおメンタルヘルスの但し書きは、こういった話題ではそういった紋きりのただ一言の投げつけでも質疑に信憑性がなくなり、応答が鈍化・停止してしまうので、敢えて書きました。
補足
こんばんは。ご回答ありがとうございました。 なるほど、回答者様の柔らかい発想に感服いたしました。 私は恐らく前向きで明るい努力の仕方にあまり触れてはいないということなのですね。 これは自分の見聞に大層な驕りがある証拠ですね。これは改めたほうがよいですね。 上記質問文よりお分かりでしょうが、ちと私元気のない生活を送っております。ともかく心身ともに大病をせぬよう必死なのですが、内部から停止していくような失望感に取り憑かれていてこれはいかんこれはまずいと焦る日々です。 少し前向きに様々なものを見聞きするよう、考えを変えてみたいと思います。