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「自分」として生きるには
こんにちは。最近思うのですが美しく生きることってとても難しいですよね。どんなに美しく正しい言葉を知っていてもそれを行動するたびに頭の片隅からもってくることなんてたまにしかできない。たとえば、自然を大切にしようとか言ってたはずなのに結局はそれに反することをしてしまう。どんなに多くの教訓を学んでも結局いざという時にそれに反した選択をしてしまったり。心が落ち込んだ時と満たされているときのものの考え方の差が激しすぎて今思い返してみると、自分の考えてきたことなんて何一つ身になってないし、どっちの状態の時の考えが自分の考えなのかわからなくなります。人は人生の中でいろいろな美しく正しいことを学び、行動、選択をする際にはそれを実行しようとその時は考えますが、結局自分本位の考えになることが多いですよね。どれだけ多くの言葉や教訓、知識を知っていてもどれほど人生の中で実行できるか。人が生きるというのはつまるところ僕の考えでは自分の幸せを求めるようとすることだと今は思っています。しかし、僕はやはり自分の幸せと同じくらい他のことに目を向けていきたいんです。生きる中でどうすれば自分の考える一番正しい自分でいられますか? 言いたいことがいまいち伝えれないのでわかりにくいと思いますが回答よろしくお願いします。
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- noMnoL3
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『良質な』情報・知識と捉えて、取捨選択の目安にすれば良いのです。 多ければ多い程、役に立ち 知れば知る程、悪行動を自制させ 深く理解する程、洗練された善行が増えて行きます。 自分を否定し自我を殺してしまったら所詮『偽善』でしかありませんから、それは大きな間違いです。 自分の内側に持っている『陽の要素』や『プラスの欲』をきちんと活かして大きく育てるシンプルさこそ「美しく正しい生き方」なのです。 褒められたい、優しくされたい、感謝されたい、愛されたい・・・これらが満たされるから、人は誰でも喜びや嬉しさに幸せを実感出来ると言っても過言ではありません。 自分だけが満たされたいと騒いでは、子供と同じわがままになってしまいますから、自分が周りから頂く分を2倍3倍にして周りにも返していけば良いのですよ。 褒める、優しくする、感謝する、愛する・・・ 周りの人のプラスの欲にたくさん応じていく内に、やがて相手の笑顔で自分が喜べる様になれたら、しめたものです。 お互いがお互いにとってプラスの良い関係が構築され、良い循環も生み出せる『その行い自体』の心地良さを知り好きになれたら、もう見返りなんて必要ありません。 そうやって見返りは無くても自分にとって「する事が当り前でとても心地良い」をしているだけで、プラスの欲がどんどん満たされて、我慢も苦痛も感じずに自然と出来てしまう。だから美しいのです。 正しさは自分を律する事で、無駄な言動が省かれますから、ある意味『合理的』とも言えますね。 ズルさも嘘も、結局は無駄な労力だと知っていれば、真面目で正直な生き方が一番シンプルで疲れません。 周りに対して正義感を押し付ける事とは違いますから、自分一人なら簡単な事です。 美しく正しい生き方を身に付けるのは、修行と悟りの体現とも言えますので、難しく考えたら切りがありませんが。 単純に考えれば、周りを幸せにする言動で最大に得られる物は「自分が一番の幸せ者になれる」という事なのです。 『情けは人のためならず』と言うでしょう? 目には見えない欲しいものを自分の努力で手に入れられたら心から満たされて幸せですよね。 自分を殺さずきちんと自分を活かすから、美しく正しい生き方なのですよ。
そうですね、基本的に人間はとても弱いかもしれません。 美しく正しく生きるのは難しいと思います。 自分の幸せと同じくらい他のことに目を向けるというのも いいのではないかと私は思います。 どうすれば自分の考える一番正しい自分でいられるか ですが、私見では、コツコツがんばることかと思います。 コツはコツコツです^^ それしかないのではないでしょうか。 ソクラテスが言ったように、人は本当に心からよいと 思ったことは実行できるかもしれません。 しかし、何かを本心からよいと思うにはその心持ちに 至るまでに強くならなければなりません。 また、強くなると、従来の考え方は脆くも変わります。 結局、堅い言い方ですが、修行ですかね。 コツコツ、失敗ばかりしながら、自分がそのときどきに 正しいやよいと思ったことを実行していくしかない かもしれません。忍耐強くそうしているうちに 道は開けてくると思います。 たとえば、家にいるときであろうが、いつであろうが、 心に自分が悪いと考えることが起こるのを許さない ように努めるとか。なるべく自分が嫌なことをやって みるとか。愚痴らない、不平を言わない。他人のせいに しない。ストップ・ザ・自己中とか。 ともかくコツコツちっぽけな日々の行いを積み重ねる しかないと思います。 質問者様が他のことに目を向けるとおっしゃったように、 やはり人間の問題は我執にあるかもしれません。 あるかどうかわからない我をよいと普通、人は判断します。 しかし、その判断に根拠はありません。 我をよいと思えば、自己中心的になりますし、我を 脅かすものを恐れます。快楽に執着します。苦しみや 痛みを(根拠なく)悪いと判断して恐れます。 我を脅かされれば、ないし、脅かされる恐れがあれば、 脅かしてくる相手に怒りを向けます。実際に相手を攻撃します。 脅かされた過去の記憶で怒ります。 この点はやはり認識が大事なんでしょうね。そして、 その認識を得るには考えても無駄でやはり行いで 強くなるしかないと思います。 自分を棚に上げて話しています。 人生の中でここでいいなんて思うときが来るとは 思えませんが、いずれにせよ、一番正しい自分で いるためには、まあ、マグロじゃないですが、 止まることはできないと思います。 マグロはたしか止まったら、死にます。 止まれば、堕落するとはよく言われることかと 思います。 マグロに人をたとえるのはどうかと思われるかも しれませんが、ともかく努めるしかないでしょうね。 私はそう考えています。
- taka-aki
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『うつくしいものを美しいと感じるあなたの心が美しい』by相田みつを とりあえず、美しいと感じる心をなくさないことです。 その心が美しい。
- mccoy0000
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あなたが考える『正しい自分』てどんな自分なのでしょう。 その『正しい自分』てやつで居るために、時に人を傷つける場合もあるかもしれないし嘘をつかなくてはならない場合もある・・ すると、結局、『正しい自分』で居るためには新たな罪を作る場合もあるんです。 すると、今度は、その事に対して罪悪感を感じ苦しんだりする。 なので私が思うにあまり『正しさ』 で人生を律しようとはしない方が良いみたいですよ。 自分と同じくらい他者を大切にするのは素晴らしいことです。でも同じくらいよりは、少し自分をより大切にする方が本物の善のような気が私はします。
現在の日本って欲望が肯定されていて、まるで仏教が否定されてますよね。 諸法無我という考え方があります。 形があるからどうだというのは無理があるというのは仏教に共感する点です。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1149196271 (構築主義とは何でしょうか) ジェンダーの本質主義と構築主義ではないですけど。 美しいというのは考えた後の世界かと。 考えている間は、何か固執がある状態です。 自己実現から美学がうまれるのかもしれません。 同じ段階ではないと思います。個を実現するには制限しててはわかりません。 美意識とは何かですが、たとえば中国では「桃」が表わすもの、「黄色」も文化で与えるイメージが変わるようなイメージの世界かと。