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サン・ピエトロ大聖堂(3世紀当時)

失礼します。 サン・ピエトロ大聖堂は、3,4世紀あたりに造られ、現在のものは、再建されたものだと学びました。 最初に造られた時の建物の大きさは今よりも小さいものだったのでしょうか? それと、サン・ピエトロ大聖堂は、ペテロを讃えて造られたものだと聞いていたのですが、サン・ピエトロ大聖堂建立の理由はなんだったのでしょうか? ※ネットにても調べましたが、 ここでもぜひおききしたいです。 宜しくお願い致します。

みんなの回答

  • tyr134
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回答No.4

No.2です。 補足説明しておきますね。 古代キリスト教は、それぞれの地域に独自の教会があり、ローマ帝国の迫害に怯えながら密かに広まって行きました。 その中で徐々に主導権争いや教義解釈闘争が繰り広げられるようになります。 やがて、長い時間をかけて幾つかの有力な教会が現れ組織化されていきます。 その主導権争いの中でローマ教会に「教皇」という概念が生まれ、徐々に制度としても定着していきました。 >どの文献からそのことが分かるのでしょうか? 直接、ペトロが初代教皇だと示す文献はありません。 それもそのはずで、ローマ教皇という地位自体が後世の創作物ですから。 元々、ローマはペテロの墓とされるものがあり信仰の中心となっていました。 そのことから、歴代のローマ司教はペテロの後継者を自認していました。 実際、1940年頃に行われた考古学調査でトロパイオンというギリシア式の戦勝記念碑を模した墓が見つかったそうです。 ばかりでなく、1世紀頃の男性とおもわれる人骨が見つかったそうです。 これが、埋葬状況などからもほぼペテロの物で間違いないだろうとが多勢の意見みたいですね。 閑話休題。ローマ司教の優位性を主張する文書は幾つかの書簡や本などで残っています。 一番古いものでは、クレメンス1世(在位:91年? - 101年?)が書いたとされる『コリント人への手紙』です。 クレメンス1世は直接ペテロと面識があるとされていますが、伝承の域を出ません。 他にはリヨンのイグナティオスの『異端反駁』、ヒエロニムスの著作類、各公会議の史料などから、徐々に教皇という地位が作られていったと考えられます。 なので、ペテロが初代教皇というのは伝承の話ですね。 日本の天皇が神武天皇を初代とするのと同じような感じですね。 追記: 建立の理由について、言葉足らずだったので補足しておきます。 キリスト教の普及に多大な影響をもたらしたのは、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世です。 コンスタンティヌス1世は、ミラノ勅令でキリスト教を公認した皇帝で、晩年は自らもキリスト教に改宗します。 さらに、キリスト教の普及も推進していきます。 そして、首都をローマからコンスタンティノポリスに移し帝国各地にキリスト教建築を建てさせます。 その一環として、聖ペテロのものとされる墓を参拝するための殉教者記念教会堂として建設されました。 ではでは、参考になれば幸いです。

benkyouchu
質問者

お礼

回答ありがとうございます!

  • tanuki4u
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回答No.3

http://saintpetersbasilica.org/Docs/JLM/SaintPeters-3.htm#site いろんな所に教会が作られた。 ローマの墓場の上に作られたのが 現在のサン・ピエトロ大聖堂 ペトロの聖遺物があったかどうかは、「信じるものが信じるからそれでいい」(これは、上記のサイトで書いてある) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87 最初は、総本山なんて概念はなくて、いろんな教会があった。 ローマの司教が 1 ペテロの死んだところだよ 2 ペテロって天国の鍵をもらったんだよ 3 おれはペテロの後継者だよ よって、おれ(=ローマの司教)が一番偉いんだ となってきた。 本社がなくて、各地の支社がそれぞれやっていたが、創業者(=ペトロ)と因縁があるし首都ってほら特別だよね・・・というのでローマの司教が本社を名乗ったって感じです。 東ローマでは 皇帝=司教 という俗権力との関連性が続いたので ロシアという国での宗教的トップはモスクワ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%95%99%E4%BC%9A%E6%A9%9F%E6%A7%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7 というような一国一宗教組織が基本。 西ローマは、西ローマ帝国が早々に無くなったので、宗教組織のみが残ったので、ユニバーサルになったという感じ

benkyouchu
質問者

お礼

むずかしいですね。 回答ありがとうございました!

  • tyr134
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回答No.2

サン・ピエトロ大聖堂は、324年頃から建設が始まり5世紀初頭に完成したと考えられています。 最大長さ119m、身廊長さ90m、幅64mに達っし、当時としては大型の建造物でした。 しかし、15世紀頃になると倒壊の恐れが出てきました。 そこで、時の教皇アレクサンデル6世が計画、後を就いだ教皇ユリウス2世によって改築の決定が行われ、改築が開始されました。 時はルネサンスの絶頂期で、建築設計競技(コンペ)によって ドナト・ブラマンテが主任建築家に任命され建設が始まります。 その後、ラッファエッロ、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネ、ミケランジェロが主任監督指揮者に命じられますが、巨大な建物な上に世俗・聖俗の思惑も関わり混迷を極める工事でした。 それでも、ミケランジェロの死後、ベルニーニが指揮を執り、教皇ウルバヌス8世の時代の1626年の献堂を迎えます。 大きさは、高さ約120m、最大幅約156m、長さ211.5m、総面積は49,737m2。教会堂の前部には長径200m、短径165mのサンピエトロ広場が設けられました。 初代を大幅拡張改築したって感じですね。 >それと、サン・ピエトロ大聖堂は、ペテロを讃えて造られたものだと聞いていたのですが、サン・ピエトロ大聖堂建立の理由はなんだったのでしょうか? これは、ローマ・カトリック教会のアイデンティティに根ざしています。 5世紀頃、イェルサレム・ローマ・コンスタンティノポリス・アレキサンドリア・アンティオキアの五本山の司教座が成立します。 その後、ローマ教会と他教会(東方正教会と言われます)の間で政治的主導権を巡って対立していくことになります。 そこで、ローマ教会側が持ちだした論理が「聖ペテロ」がローマで殉教でした。 聖書の中に、弟子の一人シモン・バルヨナに対し「あなたはペトロ(岩の意)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。(中略)。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」とイエスが言った~みたいな事が書かれています。 だからローマ教会はペテロ殉教の地(ペテロの墓の上)にあり、ローマ教皇はペテロの後継者であるという論理を持ちだしてきます。(初代教皇はペトロ) それを体現したのが、サン・ピエトロ大聖堂というわけです。 もちろん、この論理を他協会及びプロテスタント派は否定しています。 ではでは、参考になれば幸いです。

benkyouchu
質問者

お礼

詳細に回答してくださって、ありがとうございます! 初代皇帝がペテロということは知っていましたが、 どの文献からそのことが分かるのでしょうか? 申し訳ありませんが、そのことも教えて頂けませんでしょうか?

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

http://saintpetersbasilica.org/Docs/JLM/SaintPeters-3.htm#site He chose to erect the great basilica in honor of the Apostle Peter on the steep slope of the Vatican Hill and right on top of an existing cemetery. 公式見解としてはこういうことらしい。

benkyouchu
質問者

お礼

回答ありがとうございます! どうも英語は苦手で、チンプンカンプンですm(_ _)m