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福島県郡山の地名で「坦」
先日福島県郡山市に行ってきました。 郡山市内には、他では見られないような(単にわたしが知らないだけかも)?特徴がある地名があることに気づきました。 それは、鶴見坦(つるみだん)、天正坦(てんしょうだん)、蝦夷坦(えぞだん) 等、「坦」が付く地名が多いということです。 郡山市外でも、郊外には、上人坦、一里坦 等がありました。 この「坦」にはどのような意味、由来があるのでしょうか? 平坦の坦だから、平らな場所に付けたのかなとも思いましたが、これまでこのような、何々坦 という地名はまったく聞いたことが無かったので疑問に思い、質問させていただきました。
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- dayone
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当初より興味を抱いて注目させていただいておりましたが、 残念ながら現時点では何方様からも投稿がございませんので、 我慢出来ず(><)地元民でもない私が投稿する御無礼をお許し下さいm(_"_)m 御質問の「坦」のうち、少なくとも「天正坦」に関しましては、 GoogleBooksの『郡山の歴史』『郡山市史 第2巻』などの書籍断片情報と、 下記URLの引用書籍 『天正の太閤検地・人掃と村鑑』などから、 由来はハッキリしているようです。 ただし「坦」の字は元々「壇」から転じたようですが、 「壇-亠-回=坦」の簡略表記が自然発生的に過去に慣習化して定着したものか、 或いは近年まで「壇」表記だったものが、 耕地整理や区画整理に基づく換地処分の際の土地の地番変更に伴う町名変更、 又は住居表示実施(何番地何→何番番号)に伴う町名変更など法令に基づくものか、 何れなのかは残念ながら地元民でないので定かではありません。 前置きが長くなりましたが、 「天正坦(壇)」は豊臣秀吉が天正十八年に太閣検地を行わせた際に、 検地の基点として築かれた土坦=塚のことで、その名が今に残ったもののようです。 ・郡山(安積)地方関連の近世歴史考察/ 郡山(安積)郷土の歴史 江戸時代 (1603~1867) 約265年間 http://www5.plala.or.jp/obara123/rekisi_30.htm 検 地 郡山は3回実施されている。 最初の基準地は天正壇(検地基準点)とし(安高<※安積高校>の近く) 浅野長政(長吉・ねね義弟)が奉行となり、山本伊勢(戦国商人伊勢出身)が協力した。… …参考文献「天正の太閤検地・人掃と村鑑」福大名誉教授安田初雄著H8.8.8発行歴史春秋出版KK この時点での「坦(壇)」は、目印などにするため土を高く盛った所の意味合いのようですね。 難解なのは「天正坦(壇)」以外の「坦」に関してですが、 改めて下記URLにて郡山市の町名を調べてみますと、 多数点在するようですね。 ・ポスティングサーチ.com>福島県郡山市 http://www.posting-search.com/fukushima/koriyamashi.html (01)鶴見坦1・2・3丁目/(02)富田町字坦ノ腰/(03)大槻町字人形坦&人形坦東/ (04)▲大槻町字普門寺坦北&普門寺坦/(05)大槻町字蝦夷坦/(06)大槻町字坦ノ腰/ (07)大槻町字八坦/(08)◎大槻町字天正坦/(09)安積町笹川字四角坦/ (10)▲安積町笹川字経坦/(11)▲安積町笹川字念仏坦/ (12)▲三穂田町富岡字北坊ノ坦&南坊ノ坦/(13)三穂田町鍋山字四十坦原/ (14)三穂田町駒屋字上佐武坦/(15)三穂田町駒屋字四十坦原/(16)日和田町字一ツ坦/ (17)日和田町字千峯坦/(18)日和田町字朝日坦/(19)▲日和田町字不動坦/ (20)日和田町字鶴見坦/(21)日和田町高倉字藤坦/(22)富久山町久保田字古坦/ (23)○富久山町福原字一里坦/(24)▲田村町守山字権現坦/ (25)田村町岩作字四十坦/(26)田村町大供字四十坦/ 上記26箇所のうち由来が明らかな「(08)◎大槻町字天正坦」と里程道標を伺わせる 「(23)○富久山町福原字一里坦」の2箇所を除外した24箇所の中では、 ▲6箇所が町名自体から神仏などを連想させる傾向が伺えますし、 これらも検地絡みと考えるには無理があるようにも思います。 先ずは、Wikipedia「安積郡」の町村合併経緯を参考にしつつ、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%A9%8D%E9%83%A1 ネット上で閲覧可能な地誌関連の書籍を紐解いてみますと、 残念ながら直接現在地名に繋がる例は殆どありませんが、 少しばかり気になる記述がありました。 『大日本地名辞典 下巻 二版/吉田東伍著/冨山房/1907(明治40).10.17』 ----------岩代國 安積郡---------- ・大槻[オホツキ] http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937059/378 <378/820>(3875頁上段17行目~下段19行目) 今大槻村と云ふ。… …人類學雜誌云、凡安積郡内、今に古墳の最多きは、大槻村の南部、銅山にして、 其數四五十、乃至六七十もあるべし、然れども、悉く發発堀破壊したるもののみにして、 遺物の残留するものあるを見ず、斯の如く古墳の多く存在せるを見れば、… ----------岩代國 安積郡---------- ・禰宜壇[子(※ネ)ギダン] http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937059/380 <380/820>(3878頁上段29行目~中段10行目) 禰宜壇[子(※ネ)ギダン] 相生集云、郡山の禰宜壇より、元祿(※禄)中、玉、鎧、兵器、磁器、種々の古物を掘出せり、 是は安積國造の墓ならん、玉に曲玉、管玉、又繫(※繋)頂玉、いろゝゝあり、四十壇は、 片平村の塚原の名にて、四十八塚ともいふ。 人類學會雜誌云、安積郡は、到る處茫々たる荒原草野の多かりしが、明治十六年に、 猪苗代湖より䟽(※疏)水の計畫(※画)、其工事を竣へて、徧く此原野に灌漑せしより、 對面原、廣谷の原、四十壇[シジユウダン]原、牛庭原、南原、北原なんどの不毛地、 悉く開墾せらる。所在の古墳の類、亦皆崩壊せり、中にも唯四十壇原の四十壇の如きは、 于今松林中に現存せり、壇とは此地の方言にして、塚を壇と云へり、… --------------------------- 上記2項目から、旧大槻村南部には古墳が40~70存在すること、 旧片平村には四十壇と称する墓があったこと、 旧安積郡の四十壇[シジユウダン]原などの開墾、 「壇とは此地の方言にして、塚を壇と云へり、」が明らかになり、 また「坦」の字は元々「壇」から転じた経緯に関しましては、 上記書籍が出版された明治40年当時「四十壇」「四十壇原」と表記いていることから 推し測りますと、簡略表記が自然発生的に近世など過去に慣習化して定着したのではなく、 明治40年以降の耕地整理や区画整理に基づく換地処分の際の土地の地番変更に伴う町名変更、 又は住居表示実施(何番地何→何番番号)に伴う町名変更など行政側による法令に基づく変更 と理解出来ます。 上記のことから「坦」は元々「壇」であったものが、 行政側が町名変更したもので、読み方は「ダン」として残り、 「壇」は郡山市方面では「塚」の方言であって、 個々の地名の「坦」には、「天正坦」「一里坦」などのように 目印等にする為に土を高く盛った所の意味合いの箇所、 「四十坦原」などのように墓や古墳を意味する箇所、ほかは個々には特定出来かねますが、 土を盛ったり木で囲ったりして高くした祭りや儀式を行う場所であったり、 修法や受戒などを行う特殊な場所としての意味合いの箇所など、 まさに「塚」の意味合いを全て包含しているように思います。 以上 ネット検索限定情報による地元民でもない者の見解に過ぎませんから、 鵜呑みは禁物ですが、少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼
詳細なご検討、ありがとうございます。 わたしの方でもその後ネット検索を続けておりましたが、個人の方のブログで 「小十郎坦(福島県郡山市) [その他の史跡巡り]」 http://atenzasports23z.blog.so-net.ne.jp/archive/20081111 を見つけました。 以下、記述の一部を引用します。******** そこで気になって戻ってみてみると、「小十郎坦」と書かれている。「小十郎?もしかして片倉小十郎?」と思ってそれらしき匂いの漂う方に歩いていくと、解説板のある高台があった。以下はその記述。 史蹟 小十郎坦 この坦は古墳時代の遺蹟陣場四十八坦の一にして他の坦は大正初期個人の掘出に依って殆んど壊滅し直刀・曲玉・管玉など発掘せられた。 天正十六年(1588)郡山合戦に際しては伊達方智謀の将片倉小十郎景綱の陣所となった所である。 依って小十郎坦と呼ぶ。 城巡りをしていると、時々このような知られざる史跡にめぐり合うことがある。まことに面白いものだ。 ********以上、引用おわり。 この史跡の解説版には、「この坦は」と、「坦」が何であるか当然見るものが知っている言葉という前提で書かれているようです。 そうなると、「壇とは此地の方言にして、塚を壇と云へり」が「壇→坦」となった説がとても説得力があります。 ああ、誰か地元の方が答えてくれないかなあ・・・・。
補足
本日、郡山市役所にこのサイトの質問について見解をご記入いただければ幸いですとメールしてみました。回答があれば嬉しいです。