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源氏物語の翻訳について-センセーショナルなタイトル
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今晩は。いつも丁寧なお礼をありがとうございます。 冷えますね。 前回のご質問で >Those of high rank and birth are made such a fuss of ・・・・・ここは「of」の後に何か省略されているのでしょうか? は、こちらが誤解をしており、失礼しました。 ● We respect her. の受身は She is respected (by us). です。では We make a fuss of those of high rank and birth. の受身は、make a fuss of を1つの動詞として考え、 Those of high rank and birth are made a fuss of (by us). となります。ですから、of の後に何か省略されているわけではなく、句動詞の過去分詞の1部と考えればいいでしょう。 1)『About those of the middle class everyone is allowed to express his own opinion, and we shall have much conflicting evidence to sift. As for the lower classes, they do not concern us.”』 >中間の階級の彼らについては、誰もが彼自身の意見を表現することを許され、そして私たちはふるいにかけるためにたくさんの相反する証拠を持つでしょう。より低い階級に関しては彼らは私たちに関わりません」・・・・・? ● evidenceは、「証拠」というより「証言」に近いと思います。「中の品の女性については、誰もが自分の考えを開陳することができ、そうなると、相反する証言もでてきて、選別が必要になろう」となります。 >we shall have much conflicting evidence to sift・・・・・相反する証拠とはどのようなものでしょうか? ●中の品の女性については意見が分かれるであろうということですので、ある人は、中流の家庭で少し自由にのびのびとしているのがいいと言うかも知れませんが、別の人は、いや、そういうのが意外にたちが悪いものですよ、実は...などという反論を唱えるといったようなことでしょう。 2)『The completeness with which To no Chujo disposed of the question amused Genji, who said ”It will not always be so easy to know into which of the three classes a woman ought to be put. 』 >頭中将がその質問に決着をつけた完璧さは源氏をおもしろがらせ、そして(源氏は)言った。「一人の女性がどの三つの階級の中に置かれなければならないことを知ることは、いつもとてもたやすいことではないでしょう・・・・・? ●完璧です。 >「The completeness with which To no Chujo disposed of the question amused Genji」は 「The completeness which To no Chujo disposed of the question amused Genji with」ですか? ● which = completeness ですので、関係詞節= with completeness To no Chujo disposed of the question です。語順を正常なものにすると、To no Chujo disposed of the question with completenessとなりますので、The completeness which To no Chujo disposed of the question with amused Genji が文法的には正しい位置です。 >「the question」は前回の”And are there any who lack even one accomplishment?” だと思いますが、頭中将がその後ずらずらと述べた事に対して「completeness」と言っているのでしょうか? ●「the question」は、上流、中流、下層階級の女性の品定めのことだと思います。頭中将は断定的に結論を出しています。その迷いのない(頭中将なりの)理論の完成度の高さを「completeness」と言っているのだと思います。 3」『For sometimes people of high rank sink to the most abject positions; while others of common birth rise to be high officers, wear self-important faces, redecorate the inside of their houses and think themselves as good as anyone. How are we to deal with such cases?”』 >というのは時々高い位の人々は最も絶望的な位置に沈むからです。対して、普通の生まれの他の人たちは高い役人に昇進し、尊大な顔を身につけ、彼らの家の 内側を改装し、そしてすべての人と同様に彼ら自身を考えます。どうやって私たちはそんな場合を扱うことになっているのでしょうか?・・・・・・? ●as good as anyoneとHow are we to deal with such cases? 以外完璧です。 >For・・・・・というは? ●その通りです。前にも1度出てきたのを覚えています。普通は接続詞をつけた節は文として独立させないのですが、For だけはよくこれが行われます。 >themselves as good as anyone・・・すべての人と同様に、というのは「すべての人が自分自身の事を考えるのと同様に」、ですか? ● as ~ as any は最上級構文です。「どれとも同じくらい」=「どれにもひけを取らない」=「一番~」 >源氏の意見を聞くと階級分けも難しそうですね。 ●そうですね。それと同時に、頭中将のやや単純な3分割に対し、カテゴリー化するのが難しい場合もあることを指摘できるだけの知的批判力と、頭中将の理論をまぜっかえす茶目っ気も感じさせてくれますね。みんながわれこそは女性学の権威というような口吻ですが、それに乗らずに、斜に眺めている余裕というか品格を感じさせます。これは現代にも通ずることで、周りが「女性学」をやり始めたときの態度で、その人の品性が自ずと知れます。(1人高潔そうな態度を取るのもいけすかないですし、誠に難しいものですね。女性も同じでしょう。)つまり、男たちはいい気になって雨夜の品定めを行っていますが、読者の目には、逆にそれによってそれぞれの男性の品格が映るというわけです。 ************************ 《余談》坪内逍遥について脱線です。彼は日本の近代小説と近代演劇、および文学教育に多大の貢献をしました。小説については、前回名前を出された「小説神髄」(明治18-19年)が主たるもので、写実小説の重要性を訴えました。これに感銘を受けたのが二葉亭四迷で、坪内に会いに来ます。坪内は二葉亭の才能が自分より上であると見抜き、小説の制作は二葉亭にまかせ、自分は手を引きます。(二葉亭が現れていなければ、坪内自身が写実小説を制作していたことでしょう。) 「小説神髄」は、明治18-19年ですから、軍事、産業に対し20年出遅れていることが分かると思います。文化はいつも反応が一番遅くなりますね。 それはともかく、この「小説神髄」について面白い誕生秘話があります。坪内が東大の学生だったとき、「お雇い外国人」のホートンという名前だったと思いますが、試験に「ガートルードの性格批評をせよ」(ガートルードはハムレットの母)という問題が出ました。それまでの坪内は、文学と言えば滝沢馬琴であり、勧善懲悪的文学観しかなかったので、その線で答案を書くと。点がものすごく悪かったそうです。 そこで、西洋の文学観はどのようなものかを知ろうとして、あれこれ批評を読みあさり、つぎはぎだらけの理論に仕立てたのが「小説神髄」だったということです。つぎはぎでも二葉亭を感激させたのですから不思議ですね。われわれの現代日本語の文体は、多くを二葉亭に負っています。 それにしても『源氏物語』の時代には、日本は文学の最先端をいっていたのが、江戸時代になると、西洋に抜かれています。『源氏物語』の伝統は一部にしか伝えれておらず、継承発展させられなかったということですね。儒教はこのことについてかなり重い責任があると思います。(もちろん儒教にはいいことも多くあり、儒教が悪いとはいいませんが、文学の土壌としては痩せたものではないでしょうか。)(つづく)
お礼
今晩は。遅くなって帰宅しましたが風がとても冷たくなっていました。 いつも大変丁寧に回答をしてくださってありがとうございます。 前回のところ回答してくださってありがとうございます。 「make a fuss of」が一つの動詞として考えるというのは全く思いつきませんでした。 「evidence」は「証言」と訳すと文の意味がよく通りますね。ちょっと言葉を変えるだけでとてもわかりやすくなります。 「The completeness with which To no Chujo disposed of the question amused Genji」のところは「To no Chujo disposed of the question amused Genji with the completeness」なのかと思ってしまいましたが、「To no Chujo disposed of the question with completeness」が正常な語順なのですね。そもそも正しい語順を考えられるかですね。何回かこなさないとだめな感じです。 「the question」は「上流、中流、下層階級の女性の品定めのこと」になるのですね。それに対しての頭中将の「理論の完成度の高さ」を「completeness」といっているという説明をいただいてなるほどと思いました。 「~think themselves as good as anyone」は「一番に彼ら自身を考える」という訳になるのでしょうか? 「How are we to deal with such cases?」ここの訳も間違っているようですが、お時間がある時に教えていただけるでしょうか? 頭中将の『単純な三分割』に対して源氏なりの意見を入れてバランスをとっている個所でもあると思われますが、これは結局は紫式部一人の中で考え出されたやりとりであるところがすごいところだと感じます。もしかしたら実際こういう風に女性のことを品定めする男性たちが身近にいたのかもしれませんが。人のことをあれこれと品定めしているうちに、言ってる本人が品定めされているとはちょっとした皮肉も感じられますね。 ******************************* 坪内逍遥や二葉亭四迷は教科書に載っていた人、という記憶だけでどういう人たちなのか知りませんでした。 明治18-19年だと西暦1885-1886年ですね。坪内逍遥は1859年生まれで、二葉亭四迷は1864年生まれのようなので、年齢が近いですね。 「ガートルードの性格批評をせよ」というのはどういう風に書くと評価されたのでしょうね?! 「小説神髄」については『文学を従来の勧善懲悪的儒教思想の束縛から解放し「人情」(人間の内的心情)に主眼をおき、「世態風俗」を写実的に描くべきだと主張』と『国語便覧』に書かれていますが、元々その試験問題で悪い点をとったことが発端で出来上がったものだったのですね。 (つぎはぎだらけの理論ということですが、立派な評論として後世に残っているような感じがします。努力の後がにじみ出ていたのでしょうか?) 儒教について詳しく知らないのですが、「文学の土壌としては痩せたもの」というところがあるのですね。『源氏物語』のように完成された文学作品が突如(?)現れたのも不思議なのですが継承発展させられなかったのは儒教が関わっているのですね。 日本の文学は今はどうなのでしょう?西洋に抜かれたままでしょうか? (「獅子文六」の『父の乳』、おもしろかったです。「息子におくる」と書かれていて最初意味がわからなかったのですが、びっくりしました。人生ってわからないものですね。また獅子が早い時期に父親を亡くしながらも比較的恵まれた環境に育ち、獅子を可愛がってくれる人たちに出会えたこともよかったと思います。『私は父が好きだった』という言葉がありましたが、作品の奥深いところにこの気持ちが生きていて、獅子の描く人間味のある登場人物たちに惹かれていくのはこの父への愛情が基盤となっているような気がしました。) (明日また投稿します。)