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意味を教えてください。

19歳女性です。 哲学とは何ですか? 哲学の意味が私にはよくわかりません。 わかりやすく教えていただけたら嬉しいです。

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  • bakamr
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回答No.4

「真理の探究」です。「わからない事」についてあれこれ考えるのが哲学。 私が好きなのは、「我思う故に我あり」 デカルトがフランス語の自著『方法序説』(Discours de la methode)の中で提唱した有名な命題です。 あまり、難しく考えなくて良いのですよ。 ・人は何故人を好きにるのか。 ・人を好きになるのは何故か。 ・疑問とは何か。 etc. 「哲学とは何か」、それもまた、哲学。 もっとも、現代教育の中では、ほとんどすたれてしまって、教えてくれるとこは少ないでしょう。 哲学者一覧 http://contest.thinkquest.jp/tqj2001/40548/gakusya.html キング牧師、フリードリヒ・ニーチェ、カール・マルクス、チャールズ・ダーウィン、セーレン・キルケゴール、アダム・スミス、モンテスキュ、プラトン、ソクラテス、老子、孔子、デカルト、イマヌエル・カント etc.、ご存知の名前もあるのでは?。 哲学者の名言 一覧 http://earth-words.org/archives/1199

1betaaedl
質問者

お礼

「哲学」を難しく考え過ぎていたみたいです。皆さんの回答を見ると意外と単純なものなんですね。 私はまだ19歳で知らないことが多すぎて不思議だなぁと思うことがたくさんあります。今回は「哲学」について知れて良かったです。哲学者の名言も見てみます。 わかりやすい回答ありがとうございました!

その他の回答 (11)

noname#165668
noname#165668
回答No.12

哲学の「意味」とお書きです。でも、言葉の意味は辞書を引けば、わかるでしょうね。フィロゾフィーとは、フィロ(愛)+ソフィア(知)ということです。知を愛する。でも、知を愛して何の意味があるのだろう?というのが、ご質問の趣旨ではないですか。 普通、知は活用するものです。数学を覚えて、経済学の計算をする。外国語を覚えて、外国人と商売をする。知は愛するものではありません。知なんか愛しちゃって、どういうつもりなんだろう、変なの。これが本音ではないですか。 「意味」なんて、本当は無いのですよ。愛したいから愛している。そうすると、人生がちょっと豊かになった気がする。ただそれだけのことに思います。もちろん、それは端から見れば、バカバカしいことかもしれません。でも、当人に取っては真面目なのです。 答えは、あなたが愛するべき「知」に出会った時、わかるでしょう。恋人探しに、ちょっと似ていますね。

1betaaedl
質問者

お礼

そうですね、意味なんて辞書を引けばすぐにわかることですよね。 恋人探しと似ているってちょっと興味深いですね。 回答ありがとうございました。

回答No.11

19歳の乙女ですか、質問を含めて、本当に?と疑うのが哲学ではありませんが、そのまま信じるのも哲学ではありません。嘘=真実、として容認保留し、解らない事に答え付けないのが、哲学、に近いと言えるかも知れません。誰かが、信じるとはだまされてやること、と言っていましたが、恋愛論かな。 人間の精神の高さは、その人の恋愛観を見れば解る。みたいな事を言っていたのは芥川竜之介でしたかね。しかしこれは、発情期(性欲に支配されている時期、一年中発情しているのは、人間とネズミだけだそうですが、これ、進化?)の青年の場合ですよね。 大人の精神の高さはその人の哲学を見れば解る。となるのでしょうか。 そう思っているから。このQ&Aで哲学の真似ごとをして、自己の精神の高さをひけらかそうとしている。? のを見て、「哲学の意味が私にはよくわかりません。」の質問かも知れませんね。 哲学とは何か?答えは、発生的には簡単な事、わかりきった事です。 古代ギリシャ哲学では。 在るものをあるがままに見る者は思惑愛好家ではなく、愛知者、と呼ぶべき者ではないかね。とソクラテスは言った。この愛知者が哲学者と訳されているのです。 つまり哲学とは、知恵、のことであり。知恵に執着する者、が、知恵とは反対の、知恵とは逆の、思惑 つまり、自分の心、に執着する、思惑愛好家、に対する、事実を見、事実に受け入れようとする者、 が哲学者、学者、ではなく、哲学もの、なのです。 西洋の歴史のなかで、異常と言われる程、知恵が突出している、古代ギリシャ哲学は、多分、を付けずとも 、古代インド哲学の流入、影響によるものでしょうが。 インドの釈迦、中国の老子、が東洋の知恵、東洋哲学の双璧とでしょうが。両者の、知恵とは何か、の考え方の基本は、心、の、対立物が、知恵、である。との認識であり。知恵を愛する者、は、まだ 知恵者=哲学者 ではない。愛するという執着、思惑、にとらわれている。と言うはずです。 動物は、心=知恵、心のままに行動をすることが、知恵=適応 になる。 しかし、人類はそういう知恵を失っている、心のままに行動をしても、適応、にならない。 人類はホモ・サビエンス(賢い猿)であると同時にホモ・ル-デンス(愚かな猿)でもあるのです。 進化=退化 なのです。 ランプを持って歩いている、デイオゲネスに。 「昼間からランプを持って何を捜しているんだい」と言ったら。 デイオゲネスは「人間を捜している」と答えたそうです。 日本でも、お-い、お-い。と言いながら、歩いている、托鉢僧、を見かけますが。 「お-い、人間はいないか」と呼びかけているのです。 「人間であるとは、人間になること、である。」はヤスパ-スの言葉ですが。 自分で、自分を構築しなければ、知恵ある猿、にはなれないのが人類、である。 とも言えるのです。その鍵は、動物の知恵とは違った、人間だけが獲得し得る、人間の知恵、ではないでしょうか。 哲学とは何かはその、人間の知恵、とは何かであり。 正しく自己を構築する、正しい答えに到達する、考え方、方法論、を求めるのが、哲学、である。 とは言えるのでは。

1betaaedl
質問者

お礼

お礼が遅くなりすいません。 「哲学」と言葉を深く考える機会がなかったので、今回は色々と知れて良かったです。 回答ありがとうございました。

回答No.10

 No.7です。  哲学するということは 差別をもうけないということです。  異者をも同じ人間という存在として受け容れるということ。(むろん考えが違えば 互いに自由に批判し合います)。  これが出来ないということは 哲学以前だということになります。  言わば心が鎖国状態にあり 言ってみれば蛸壺人生だということです。  広い意味での哲学の中には 有神論か無神論かいづれかをえらぶというとき それは趣味の問題でそれぞれが自由にえらびます。何々という神もそして《無い神》も互いにひとしく対等です。  そのように趣味の問題が入る余地はありますが 思想を排除するかどうかといった問題は 趣味の問題には入りません。排除するなら 哲学以前であり 哲学するのなら 排除しません。異者を――考え方においては自由に抵抗したり反発したりしますが――存在としてはつねに受容します。  蛸壺人生をあゆむ先輩の助言は 困りものです。

1betaaedl
質問者

お礼

異者も受け入れることで色々な情報が入ってきますよね。その情報を自分で受け入れることでまた世界が広がる。他の人と意見がぶつかりながらもそれを踏まえて自分で問題に対する答えを出していくのって大切ですよね。 回答ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

>哲学とは何ですか? 哲学の意味が私にはよくわかりません。 わかりやすく教えていただけたら嬉しいです。 ○「哲学する。」という意味は「一人ひとりがそれぞれの人生の意味を考える。」ということなのですよ。 誰しも同じく平等におぎゃと生まれて死ぬまでが人生ですね。その間に成功しようが失敗しようが平凡であろうが非凡であろうが、みな、はじめと終わりは平等にあるのですね。平等にある、そこに各人の人生の意味があるのですね。それが何かを掴むことが本当は各人の試験なんですよ。人生という試験に気づき回答することが哲学するということなんですよ。回答できなければ人生という試験は欠点ですから、何度でもやり直しということになっているのですよ。当然、哲学したけど間違った回答した人も同じですね。これをね、繰り返していることを苦の転生というのですよ。苦の転生から抜けるためにも人生を正しく判断する必要があるわけですね。それが哲学するということですね。良き師を求め、正しい回答ができるように学ぶこと、それが哲学するということですね。

1betaaedl
質問者

お礼

「ひとりひとりが人生について考えること」、哲学ってすごく大きなことなんですね。 色々勉強になります。 回答ありがとうございました!

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.8

考えることを楽しむのが哲学だと思っています。 私は誰? どこから来たの? 世の中には色々な疑問があります。 それを自分なりに考え、答えを出します。 それが結構楽しかったりします。 議論するともっと楽しくなります。 哲学てのは、キリスト教に起因するものです。 神は人間を特別な存在として創った。 何故だろう。 何故神は人間を創ったのだろう。 そういう疑問から派生したのが哲学です。 だから、その本質は異教徒には解りません。 私はそう理解しています。 異教徒は教養として哲学を学ぶだけです。 だから、日本には、哲学的悩みの為に狂死 するような人はあまりいません。

1betaaedl
質問者

お礼

元はキリスト教から出たものなんですか!?知らなかったです。 わかりやすい回答ありがとうございました!

回答No.7

 こんにちは。  エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。    言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。  ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。  こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。  このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。  この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。    神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている   ならば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあ   やまちとして気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひと   を殺すこともなければ むさぼることも裏切ることもなかろう。  といった規範を得る。  この規範を どう思ったか 《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。  一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。  やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従う阿呆な人びとがいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。  《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。  あるいは どの人の思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。  《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。(自己表出とは まだほとんどその意味が分からない段階であってもそのおのれの思いを表わしたものを言います)。  ゆえに手段は 言葉に限らない。音やイメージなど広い範囲で表現される。  哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――が描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。  かくして 哲学は これらすべての知的営みや学的営みあるいはつまり生活ないし世界のすべてについて 全体として考える視点を持ち そのことを誇りとしているはずです。

  • bakamr
  • ベストアンサー率32% (149/463)
回答No.6

もうひとつ、良いサイトを忘れていました。 名言集・格言集 http://www.oyobi.com/ テーマ別に掲載されています。 たとえば、「愛」、「人生」、「時」、他。 その一文字に、何かを見出そうとする、それも哲学です。

1betaaedl
質問者

お礼

わざわざご親切にありがとうございます。 さきほどそのサイトを少し見ましたが、私の知っている言葉も幾つかあり見ていておもしろかったです。 ありがとうございました!

回答No.5

哲学はギリシア語で、Philosophia。  philo:愛  sophia:智 なので、哲学は、《智を愛すること》、《愛智》です。 智を愛して、人や宇宙のありようなどを探求することが、哲学なんじゃないでしょうか。 自然科学と哲学の分離は、比較的最近のことです。ニュートンの時代では、自然科学は哲学の一分野に過ぎず、自然哲学です。この二つがはっきりと分離するのは、19世紀のラプラスの時代くらいから。つい2世紀ほど前のことです。 しかし。19世紀においても、ドイツなどでは、哲学と物理の境界は曖昧ですよね。20世紀に入ると、論理学を中心にして、数学と哲学の境界が曖昧になり、数学と哲学の一分野は融合します。現代の記号論理学や分析哲学は、数学なのか哲学なのか、分かりません。 と言ったように、様々な学問がクロスオーバーする現代においては、プラトンやアリストテレスの時代のように、哲学と多の学問との垣根はかえってなくなり、何でも哲学になります。 ということで、 Philosophiaという語が示す通り、智を愛して、(何かを)探求することが哲学である でいいのではないでしょうか。

1betaaedl
質問者

お礼

他の学問との境界線が曖昧なんですね。 「哲学」と言う言葉の意味を普段考えたことがなかったので今回その意味を知れて良かったです。 回答ありがとうございました!

  • 7683
  • ベストアンサー率18% (32/174)
回答No.3

『智』の探求 一つの物事や現象、価値、意味を様々な角度から理論立ててとことん突き詰めていく。

1betaaedl
質問者

お礼

深く探求するって言うことですね。 わかりやすく教えていただきありがとうございました!

  • porquinha
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回答No.2

意味や意義を考えることです。 なぜ生きているんだろう。 幸せとはなんなんだろう。 死とはなんなんだろう。。 戦争とはなんなんだろう。 宗教はなんのためにあるんだろう。 人はなぜ悲しむんだろう。 そもそもは学問全体を指してたみたいですね。

1betaaedl
質問者

お礼

「哲学」って意外と単純なものなんですね。ビックリしました。 回答ありがとうございました!