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昔の人はどうしていたのでしょうか?

寒いですね。 とても寒いですね。 これからもっと寒くなりますね。 現代人は文明の利器によってかなりの防寒がされていると思います。 昔の人はどうしていたのでしょう? 現代人は寒さに弱くなったのでしょうか? 温暖化で暖かくなっているというのに。 とてもではないですが江戸時代以前に生きていたら布団から出られそうにありません。() よろしくお願いします。

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回答No.6

こんばんわ。 私は、自称「歴史作家」です。 皆さん色々な素晴らしい意見が回答されているようですので、私は「大江戸事情」についてお話ししましょう。 「家の造りやうは、夏をむねとすべし、冬はいかなる所にも住まる」 は兼好法師の「徒然草」の有名な一節。 暖房として住まい全体を暖めるには囲炉裏が一番でしたが、江戸では火事が多発したため、囲炉裏で薪を燃やすことは禁じられていました。そして、農家から買い入れる薪も大変高価でした。 従って、深川芸者の置屋や舟宿には囲炉裏が設置されていましたが、炭を置く程度で暖房としての効果は全くありませんでした。 深川芸者などは寒さのあまり、お座敷では華美な着物で芸を披露しましたが、客待ちなどの時は、ありったけの着物を身体に巻きつけて寒さ凌ぎをしていました。そんな姿を見たら客も幻滅したことでしょう。 庶民は・・・と言うと、 まずは、せいいっぱいの厚着をして、火鉢に手をかざしたり炬燵に足を入れたりするていど。 火鉢には金属製、木製、陶器製などがあり、形は丸火鉢、角(箱)火鉢、長火鉢、提火鉢などがありました。 町屋でも、ある程度裕福な家では木製の長火鉢で、片側に猫板といわれる部分があり、茶器などを置くことができ、引き出しになっているので、小間物を仕舞うにも便利で重宝がられました。 では、熊さんや八っあんたちの長屋では・・・ 江戸時代の初期の頃は、もちろん厚着をして、丼を大きくしたような鉢に灰を敷き炭を入れて、せいぜい手を暖める程度。 江戸も中期以降になると、陶器製の行火(あんか)が登場。どこへでも持ち運べるので大変な人気になりました。 そして、一工夫加えて、行火の上に蒲団をかけて何人もが手足を入れて暖をとることができるようになりました。また、辻番が好んで使用していましたので、別名「つじばん」とも呼ばれました。 さらに発明がされて、行火の上に現代のような櫓(やぐら)を置き、その上から蒲団をかける「櫓炬燵」が登場しました。 これにより、家族全員が等しく暖をとることができるようになりました。 しかし、現代のように「炬燵板」の考えがなかったため、茶器などの道具類が置けないのが難点でした。 狂歌に、 「四角でも炬燵は野暮なものでなし」 と詠まれたほどでした。 寝具: 江戸では、現代の掛蒲団にあたる「夜着」(よぎ)が一般的でした。 「夜着」は、袖と襟のついた大形の着物のような形で綿が入っていました。 上方では、元禄年間頃には敷布団よりも薄くて幅広い、いわゆる現代風の掛蒲団が庶民の間にも定着したと言われています。 また、「寝間着」といった独立した衣服は存在せず、昼間着ていた下着や肌着のまま寝るのが普通で、夜着も持てないような貧乏人は、ありったけの着物を身体に巻きつけて寝ましたので「寝間着」ではなく「寝巻」と書くのが本当。 以上、江戸の風俗でした。

noname#255902
質問者

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回答No.7

皆さんの回答は、「冬の寒さに昔の人はどう対処したのか」を回答されています。   私は、「現代人は寒さに弱くなったのでしょうか」をメインに回答します。 7月8月には気温が25℃でも寒く感じました。今は、22℃でも暖かいと思います。 きっと、4月に最高気温20℃、最低気温10℃になると(11月とほとんど同じなのに)ずいぶん暖かくなったと思うのでしょう。 季節にもよって、暖かい/寒いはずいぶん違います。きっと住んでいる地域の事情によって寒い、暖かいはずいぶん違うのだと思います。 もちろん、冷暖房完備、機密性の高い家に住んでいるのと、ほとんど暖房のない家で、断熱材もなく、ガラス窓もなくて明かり取りは障子で、天井や戸、床などありとあらゆるところからすきま風が入る家に住んでいて、衣服も木綿か麻、合わせや綿入れがあれば最高という状況で育てば、暑さ寒さの感覚はまったく違うでしょう。 なお、昔は「子供は風の子」と言いました。    屋外で生活している野鳥などをみると、寒さや暑さなど気にしている様子はうかがえません。子供もあまり寒さを気にしていないようです。(少なくとも昔の大人にはそう見えた) 年をとったりすると、寒さにも弱くなり、火の側に行きたくなるのでしょう。   子供は風の子の意味  http://www.proverb.jp/proverb2186.html 子供は元気なので、冬の冷たい風の中でも平気で戸外で遊ぶということで、子供は寒さに強いのだから、寒い日でも戸外に出て体を鍛えるのがよい意味。「童は風の子」ともいう。「子供は風の子、大人は火の子」と続けてもいう。   マラソンや駅伝も寒い時期にやります。   生活の仕方が変わって、体を動かさず日常活動量が減り、体重に占める筋肉量も減ると、基礎代謝も低下して、恒温動物だったはずなのに、変温動物のようになり、寒さに弱くなるということもあるのかもしれません。

noname#255902
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  • tpg0
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回答No.5

こんにちは。 昭和30(1955年)年頃が昔になるのかは、人それぞれの判断になりますが、当時の様子をリアルに体験してる者です。 この頃は、日常的に使う電気製品は照明用電球やラジオぐらいで、他には電熱アイロンぐらいしか普及してなかった時代です。 ですから、一般家庭の暖房器具と言えば「火鉢」や「堀炬燵」が主役でした。 火鉢や堀炬燵の燃料は「木炭」や「練炭」でしたから、冬になると「火の不始末による住宅火災が多かった」と子供ながらに思ってました。 実際に、明治生まれの父親や大正生まれの母親の話しを聞いて育った印象では、当時も同じ暖房器具だったようですから、江戸時代も同じような暖房器具だったと思いますが、練炭が燃料に使われ始めたのは「石炭」が使われるようになってからですから江戸時代には練炭はなかったはずです。 この頃と現代で、大きく様子が違うのは「冬の服装」でしょう。 戦前は、日常生活でも一般庶民は和服姿が普通でしたから、寒い冬は「綿入れ半纏」を家の中でも羽織ってた寒さを凌いでたようですが、昭和30年頃の子供だった私でさえ、家の中でもセーターを着るなど厚着してました。 これが、昭和30年代に入ると「電気炬燵」や「石油ストーブ」が一般家庭に普及して、火鉢や堀炬燵が暖房器具としての役目を終えて姿を消しましたが、相変わらず「冬は厚着」で寒さを凌ぐことが多かったです。 これには、一般家庭の住宅に「断熱材」が使われてなかった「保温性の悪い木造住宅」が大きく影響したと思います。 しかし、昭和40年代に入ると断熱材を使った保温性の良くなった住宅や石炭ストーブなど高カロリー暖房器具の更なる普及で、家の中で厚着をしなくても寒く感じなくなりました。 そして、現代はエアコンや石油ファンヒーターなど高カロリー&高性能暖房器具に「保温性の良い住宅」が当たり前になって来たので、私のように「真冬でも家の中ではランニングシャツと半袖シャツ」だけで過ごせるような快適な時代になりました。

noname#255902
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  • Verhalten
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回答No.4

江戸時代はアンカが主流ですね。 上から矢倉らこたつをかけたり色々です。 火鉢は武士や裕福層しか使えません。 長屋ではどんぶりのような火鉢でした。 明治~昭和になると火鉢が普及し、ほりごたつやカイロも普及します。 炭の他に安い豆炭や強力な火力の練炭を販売しました。 厳冬地帯では薪ストーブや石炭ストーブもあったそうです。 平安時代は火桶と言う、周囲が木で、中に金属を張った物で温まっていました。 ミニ火鉢のような物です。 アイヌの家であるチセは、夏場も暖炉を燃やし続けます。 冬になると家や地面から熱が放出され、全く寒く無いのだそうです。 合掌造りの民家に雪が積もると藁から熱が出なくなる。 逆に暖かくなったのだそうです。

noname#255902
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  • hp100
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回答No.3

防寒具ではなくて暖房用具だと 不完全乾燥の薪は燃えにくくて煙いだけで熱効率は良くないです  拾って来るとタダだし,安く買えたのかも? 良く乾燥した薪はそれより燃えるし熱効率が上がります,しかし炭より短時間で熱効率悪いです  少し値段が高い?でも,保管場所が確保出来れば本人や使用人を使い集めさせてたかも? 炭は使用した樹木にも寄りますが,長時間燃えるし,熱効率も良いです  加工品だしランクもある,無名品でも薪より値段は高い?使用人に炭焼きさせてる商人もいたかも? 囲炉裏や火鉢の中はワラ灰が入ってます これは延焼を防ぐ為と,木炭の火を細かくして火の調整をする為です 日中は薪をくべて煮炊きに使い,その炭を完全に灰に埋めなければ炭は酸素供給が出来るので 炭は少しずつ燃えているのです 日中は乾燥した薪をくべ,その薪が炭になった上に炭をくべておくと長時間燃えるので 一晩中ある程度の温かさが確保出来たと思います 養蚕農家は住屋が下階,農耕牛馬を持ってる農家は住み家と続きのところがありますね 昔の日本家屋は完全密封ではないので二酸化炭素中毒も起き難いと思います

noname#255902
質問者

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  • hp100
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回答No.2

養蚕が伝わったのが弥生時代中ごろ,大々的に行なわれるようになったのが元禄時代 絹,綿が着用出来たのは限られた人間だけ 平民が着ていたのは麻,葛,藤,楮等の植物繊維 冬季でもこれらの植物から折られた生地を着ていて,重ね着してたようです 例えば「この寒さは麻何枚の寒さだ」と言っていたとか 江戸時代,養蚕技術が向上しましたが やはり絹は高価な物なので京都の公家が新品を着て,大阪商人が古着を集めて江戸で売買 古着でもまだまだ高級品なのでお金持ちの商人や武家が購入 その古着を買取る商人が染変え等をしてランク下の商人や武家や裕福な町民が購入し その古着を庶民が購入して継当てして襤褸になるまで使った 庶民はね,まだモコモコの丹前着て外を歩けるので良いんですよ。 貧乏侍は「腹は減っても高楊枝」と同じで「そんなボロ着ねぇよ!!」と薄着で外を歩き 奥歯ガッチガチ言わせてた,なんとまぁ呆れた根性です ちなみにあの時代の庶民の布団は植物繊維とった後のカスや藁クズを襤褸布に詰めた物だし 畳敷きではなく床はスノコ状態と言っても過言ではない状態の住居もあったようなので 布団から飛び出して動き回る方が温まったようですよ ついでに,明治の頃にフランスやイタリアで蚕の病気(微粉子病だったかな?)が蔓延 蚕種(卵)や絹の輸出が爆発的に増加して日本経済は発展,女工哀史の世界です 昔の人は忍耐力があったんですね

noname#255902
質問者

お礼

ありがとうございます。 忍耐力があったんですね、、そうですねぇ。 病気になりそう。

  • jkpawapuro
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回答No.1

基本農村部では家に居る時は一日囲炉裏に薪をくべてその前に居たのでしょう。

noname#255902
質問者

お礼

ありがとうございます。