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世界のリーダーは 日本人か?

 鈴木孝夫著『日本人はなぜ日本を愛せないのか』(2006)によりますと  ( a ) 日本の文化は 《着せ替え人形型》だ。  と言います。おおきく 一つ目として 中国の文化に 自分たちの文化から 部分的にしろ 着替えたのだと言います。  二度目には その時期の前後に 戦国時代ごろからの西洋学や蘭学やあるいは直近の戦後からのアメリカ文化を配しつつ 明治維新による西欧文明に着替えたのだと。  このとき   ( b ) もし芯があるとすれば それは 一部で 《有るようで無い 無いようで有る中空型》とも言われるようなのですが これを むしろ積極的に 《有神論をも無神論をも許容する神の道》であると見ることはできないか? それがふさわしいのではないだろうか? これが ひとつめの質問です。  ( c ) 新しく着せ替えた文化は いづれも 貴い内容を持ってはいたが ほんとうに理想とするところではない側面も いくつか見えて来ている。いわば和魂洋才で 相当程度 それらの文化を消化してきたと思われるが それでも 消化し切れない部分がある。もしくは 精神の胃袋において消化しようと思うと むしろ吐き出したくなるような部分もある。ということは 持て余しているのではないか。  (この問いは あまりにも抽象的ですので 次の問いに継ぐかたちになるかと思います)。  ( d ) けれども合理主義と言いグローバル化と言い 欧米の思想や生活態度については通俗的に言っていわゆる唯一神体制という観念の繭の中で心がその倫理規範によって縛られているといったかたちが 何ともやりきれなく感じられる。  この齟齬は じゅうぶん指摘されて来ている。経済の仕組みとしては 確かに消化したくないのに 食べようとしていたり おいしくもないのに グローバル化のもとに 食べ続けなければならない。としてもそのマチガイは 人びとにとって分かっている。  ( e ) けれども消化不良の問題は端的に言って ブディズムではないか?  これは いやと言うほど食べ尽くした感があって じゅうぶん消化して来ていると思っているようなのだが まだまだ 馴染まないところがあって どうにも 持てあましているのではないか。  だからと言って その反動が 何かの弊害としてあまり出ないのは ブディズムが よく言えば幅が広くて柔軟であり わるく言えば勝手な解釈をゆるすあいまいな思想であるからではないか。  ( f ) この話の筋から行くと ブディズム論になると受け取られるかと思いますが その長き停滞から脱することに重きを置いて しかもこのブディズムの克服を成就したなら 日本人は ひとつの側面としていわゆる一神教の弊害を朝飯前のごとくに知っており ならば 思想面において世界のリーダーになれるし むしろ成らねばならない歴史的情況にある。のではないだろうか? ということに重心をおいて ご見解を寄せて欲しいと思います。  ( g ) 《さとり》についての問いは すでに不毛だと人びとはさとったのではないか?  われわれはすでに一人ひとりが ブッダである:【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7526932.html  これは既成の出発点であるのではないか?  だから 前項の克服は あと一歩なのではないか?  それは 何であるか?  ( f )( g )についてのたたき台は 必ずしもありません。漠然とそういう方向を思っているという状態です。  以上の問いについて ご見解をお示しください。

みんなの回答

回答No.7

#6の者です。 >思想は生活態度だと考えますから、すでに市民たちの生活において >世界に先駆けて縁起共生のふつうのあり方を実現しているという場合 確かに、思想は価値観であり生活と政治に直結すべきものです。 ただし、「生活に直結したした思想」というのは大概、宗教や モラルに類する、甘い分析による独善的な本質認識と、その 実用的な応用(こちらが優先)にはしったものがほとんどです。 分かりやすく、便利で、それを導入すればうまく行く、という(でも 社会的延長で歪みを生じたり、非科学的で不安定であったり)。 その程度の「人文的創造主」は、世界に掃いて捨てるほどいます (小コミュニティ以上に広がらないから『他に類を見ない』と勘違い している輩)。 本当に抜本的に変革するものは、たとえば「認識において世界は 生じている」→「認識を深めるべき」→「自己の社会生命的延長を 非自覚的に行う貨幣制に反対」といった過激な結論が出なければ おかしい(実際は貨幣は必要悪であり、まずはマネーゲーム化を 阻止する短期の株式売買を非合法化といった柔軟性が必要だろうが)。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  質疑応答が あなたのルール違反だと主張する《議論》ということにならなければよいがと かえってこちらがおそれますが それは それとして対話をつづけます。  ★ ~~~~  ただし、「生活に直結した思想」というのは大概、宗教や  モラルに類する、甘い分析による独善的な本質認識と、その  実用的な応用(こちらが優先)にはしったものがほとんどです。  ~~~~~~  ☆ ここは あくまで社会生活のそこそこの安寧ないし安定を基準として 日本人のそれが世界の中で相対的にすぐれていると見るところから 話を始めているのですが その可否の判定をもふくめて一般論としても いわゆる庶民の生活における《おつきあい》や《たすけあい》なる思想だけでは まだ浅いし 弱い。――こういうご見解であると まづは 受け留めます。  それではぎゃくにお尋ねします。  ★ 「生活に直結した思想」  ☆ には基本的に言って 見るべきものがなく――つまり将来へ向けてこれこれをいわゆる伝統として維持発展させて行けばよいという観点からも 見るべきものがなく―― 哲学の探求にとってもとりあつかうにあたいしない。――こういう見方を提出されていましょうか?  そこをまづ 互いに明らかにさせたほうが 話は早いでしょう。  つまり ダメなものがダメだ。ということでしたら おおむね見解の相違として互いに合意して 話し合いはおしまいです。意見を見なおすに到るまで ときを俟つかたちになります。  次のように提案なさることは それは 生活次元の思想としてなのか。それとも それとは別に 生活次元プラス α のようなことを考えてのことなのか?   ★ ~~~~~~~  本当に抜本的に変革するものは、たとえば「認識において世界は  生じている」→「認識を深めるべき」→「自己の社会生命的延長を  非自覚的に行う貨幣制に反対」といった過激な結論が出なければ  おかしい(実際は貨幣は必要悪であり、まずはマネーゲーム化を  阻止する短期の株式売買を非合法化といった柔軟性が必要だろうが)。  ~~~~~~~~~  ☆ そうですね。質問を発するかたちで話し進めるのがよいでしょうね。  さきほどの問いとしてあらためて:  (あ) これは 生活次元の思想としてなのか。それとも それとは別に 生活次元プラス α のようなことを考えてのことなのか?   (い) ただ単に生活次元だというものではないとすれば 考えてみるのですが たとえばこうでしょうか?   すなわち    (い-a) あくまで人間とその存在 という次元を基礎とする。   (い-b) しかも この人間観ないし存在論としてながら 《認識論》の問題として見ている。ということでしょうか?   (い-c) たとえば《「認識において世界は生じている」》という出発点が挙げられていますが では 人が生まれるというのは どういう《認識において生じている》のでしょうか? と問わなければなりません。どうでしょう?  それも 人間の存在論にとってのひとつの要素でありそれに答えることは 哲学にとっての必要条件になりましょう。   (い-d) 《→「認識を深めるべき」→》ということは 認識を深めるなら 人がこの世界に誕生することまで その深められた認識において生じている。ということでしょうか?   (い-e) 《→「自己の社会生命的延長を非自覚的に行う貨幣制に反対」》という思想に帰結してくるなら 《世界は認識において生じている》のだから よき思想が生活次元においても実現するであろう。という見方でしょうか?   (い-f) どこまで行っても 《認識》の問題なのでしょうか?   (い-g) 認識より前に 存在があり具体的には生活がある。のではないのですか?   (い-h) そもそも 《おカネが あたかも唯一神体制のその構図と同じようなかたちで神となっている部分的な側面が 現実にある》ということは どんな《甘い分析による独善的な本質認識》を持った人間であっても 知っている。のではありませんか?   (い-i) すなわち 世界についての認識くらいは 誰もが心得ている。のではありませんか? 不本意ながら その《悪貨が良貨を駆逐している》情況に残念ながら甘んじている。に過ぎないでしょう。   (い-j) なぜ――《認識論》を超えて――そのように《生活》次元からの見方を持って発信しないのでしょう?   (い-k) つまり 《→「自己の社会生命的延長を非自覚的に行う貨幣制に反対」》という認識なら 誰もが知っているのです。   (い-l) ということは そうすると たとえばこの《貨幣制》の改革・揚棄を優先的にうながしそのあたらしい政策の実現に向けて動くか それともあくまで大筋としては生活次元での安寧と安定を第一の目標とするのか。こういう選択になるかも分かりません。   (い-m) ということは どちらをも並行しておこなって行けばよい。と考えられましょう。ならば 《生活次元における共生》を具体的に身の周りから始めて実践して行ってもよい。となるのではありませんか?   (い-n) おしえてください。あなたが 《認識論》を振りかざす意図が分からない。  よって 人間として・そして日本人として どこから手をつけるか? もういちどご回答をお願いしたい。こう考えます。  (いえ むろん どこから手をつけるかの議論に限りません。基本的に世界の趨勢を踏まえて これこれのあたらしい道があるといったご見解を示してもらってもかまいません)。     (い-o) ★ ~~~~~  (実際は貨幣は必要悪であり、まずはマネーゲーム化を  阻止する短期の株式売買を非合法化といった柔軟性が必要だろうが)。  ~~~~~~~~~~~  ☆ これが どこから手をつけるかの処方箋でありましょうか? そしてそれは 日本人が世界のリーダーになる・ならないとは別個に あたらしい世界への一歩として提案しているということでしょうか?  たぶんこれだけでは――つまり これだけを主張されているのではないでしょうが これだけでは―― 採り入れられないでしょうね。  なぜなら たとえば長期の投資をした人が その会社についてのよくない情報をその買ったあとほどなくして得たというとき 売買できないということになれば とうぜんその法案には反対するでしょうから。つまり それが一般の考えでしょうから。

回答No.6

「世界のリーダー」の前に、日本のリーダーでさえまともなのがいない。 集団主義の日和見リーダーか、その反動の過激パフォーマンスリーダー だけで、長期的かつ総合的な将来像に基づいて“国の舵取り”を しようという姿勢の見える人材は皆無だ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~   思想の情況と言いますか 情況において思想が持つチカラは どうでしょうか?  ひとつに 思想は 生活態度だと考えますから すでに 市民たちの生活において世界に先駆けて縁起共生のふつうのあり方を実現しているという場合。  ひとつに ほとんど同じことですが たとえば国際関係における外交などに際して判断力や決断力が必要となるといった場面において これを そうではなく 人びとの生活が安定しているというような側面から支えて行くというような行き方。  つまり だまって生活における共生力なる基礎事実をうったえるといった対話力。  そういうふうな人間関係や国際関係へと舵を切って行けませんか? どうでしょう?  ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~~~  日本人が現実の社会生活のありかたにおいて――つまり 外交力においてというよりも むしろ沈黙の生活のありさまにおいて―― 世界にうったえて行く。といった道筋は どうでしょうか? と言おうとしていたと思います。  No.1のお礼欄にも書きましたが 趣旨説明欄には たしかに書き込めませんでした。  そのように理解してもらえるとありがたいです。  ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~~~~  たとえば    ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~   ( b ) もし芯があるとすれば それは 一部で 《有るようで無い 無いようで有る中空型》とも言われるようなのですが これを むしろ積極的に 《有神論をも無神論をも許容する神の道》であると見ることはできないか? それがふさわしいのではないだろうか? これが ひとつめの質問です。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  といった主題をめぐって考えるところを お話してみます。  おそらく   ★ 宗教観は関係ないでしょう。   ☆ とおっしゃるように 宗教や信仰のことが話題になることは 少ないでしょう。そして 自分やひとの信仰がどうであろうと その差異を超えて共生することが すでにいろはのいであるというジョウシキになっているかと思います。  ただし というのは それは日本人のあいだだけではないかとおそれられる。ということが 問題なのでは? とも思うわけです。 それが この( b )です。  ○ 《有神論をも無神論をも許容する神の道》  と言っています。つまりは キリストであれブラフマンであれヤハヱーであれアッラーフであれ アミターバであれマハーワイロ―チャナであれ どのような名の神であってもその有神論も 神は類型として同じひとつであるということ。しかも 無神論とても まったく同じくこれらの有神論と同じく ただ名が《無い神》という神として違っているだけで そもそも《信仰》である。という議論です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて  ★ ~~~~~  集団主義の日和見リーダーか、その反動の過激パフォーマンスリーダー  だけで、長期的かつ総合的な将来像に基づいて“国の舵取り”を  しようという姿勢の見える人材は皆無だ。  ~~~~~~~  ☆ このたぐいのもんだいについては すでに次のようにお応えしています。  ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~   ★ 正しい状況認識をして自分の姿を知り、そこから / 戦略を打ち立てるのが普通だが、   ☆ これは だいたい対症療法ですよね? 心理学のように心のうわべのことを扱っているというきらいがなくはありませんか?  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《日和見》でない指導力 あるいは 《その反動の過激パフォーマンスリーダー》たること これらはいづれも 対症療法であり その場主義に落ち入りやすく けっきょく人びとの心や生活のウワベのことに対して処理したり上から道を示したりすることまででしょう。  それは――ダメだと否定するべくも その現実の事態に関する限り ありませんが―― しかもそれは ふるい。およそ絶対的にふるい。  たとえば なぜなら  ☆☆(同上) ~~~~~~  No.1の回答からここまでずっと 生活のことを 思想の基礎として問うて来ています。  安寧なる生活また共生ということが 沈黙のメッセージとなるやも知れません。そこに 指導的役割が望まれるということも 将来には 起こりうる。こう考えての質問です。どうでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~  万人司祭説ではありませんが また従業員みな経営者説でも必ずしもありませんが 市民一人ひとりが 社会の指導者である。でありましょう。  このあたらしい局面・あたらしい舞台には 世界広しと言えども どのくにの人たちよりも日本人に一日の長がある。  趣旨説明欄には このたたき台を書き込めませんでしたが こういう問いを問うています。  あらためて いかがでしょうか?  カッコウをつけることをしない――生活基本として そういうパーフォーマンスぶりからは自由である――人びとが 互いの関係においてみづからの指導者となるのでなければ 《社会的生命を身と心に帯びた 自立する人びとの民主的な世の中》は 望みうべくもないことでしょう。

  • wellow
  • ベストアンサー率46% (892/1932)
回答No.4

> 特には欧米人との対話における問題でしょうか。 > そしてそこでの 日本文化についての説明が こちらのチカラの不足もあるとは言え あちらもなかなか同じ土俵に立つようには納得しないであろうというむつかしさがある。でしょうか。 これは強く感じます。彼らが興味あるアイテムは、勝手に吸上げていきます。逆にこちらが説明したい内容は、彼らの言語で主張しない限り、聞いてもくれません。 内政については書記局の力不足ではありますが、実は経済関係者以外は幾ら言っても興味を持ってくれません。為替、株価の視点でして興味を持っていないので、お互い同じだろうともいえますが。 >また単体でも米人に余程文化的慣習に説明を納得してもらわない限り誤解の元になる各種風習を説明するのは困難だったことでしょう。 WW営業、経理は興味を持ちます。もなないWW営業は相当駄目です、というか、WW営業に日本の商習慣を説明してください、日本マネージャが説明していないことも大問題ですが、そこはうまく立ち回ってください。 > 芯はある、日本人なら(日本の文化的的側転を理解できるから理解できるはず)という期待を混めつつ、でも受取人は日本人ではない、という点は文化的背景、宗教的価値感の違う米人には理解し難かった部分が大部分ではなかったかと思います。 宗教観は関係ないでしょう。納品から研修に至る期間、研修条件、トライアルから本番機器導入決断といった流れです。研修期間は研修に徹してもらい(もちろんプリSEのフォローはいる)、役に立ったとう経験かた本番導入を目指します。 営業も大変ですが、営業付きSE(PSE)も大変です。評価機を貸すという貸しを梃子に、PSEによる設計を更なる貸しにして顧客を追い込んでください。というのがもとPSEとしてのお願いです。PSEは営業所属であること(はるか後の工程に直接タッチできない)から、短期決戦で利害関係を考慮した大枠をくみ上げなければならないからです)。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。現場での体験にもとづくご発言だったんですね。  ゑろうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  わたしは現場のくわしいことは分かりませんので たとえば  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~  ( b ) もし芯があるとすれば それは 一部で 《有るようで無い 無いようで有る中空型》とも言われるようなのですが これを むしろ積極的に 《有神論をも無神論をも許容する神の道》であると見ることはできないか? それがふさわしいのではないだろうか? これが ひとつめの質問です。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ といった主題をめぐって考えるところを お話してみます。  おそらく  ★ 宗教観は関係ないでしょう。  ☆ とおっしゃるように 宗教や信仰のことが話題になることは 少ないでしょう。そして 自分やひとの信仰がどうであろうと その差異を超えて共生することが すでにいろはのいであるというジョウシキになっているかと思います。  ただし というのは それは日本人のあいだだけではないかとおそれられる。ということが 問題なのでは? とも思うわけです。 それが この( b )です。  ○ 《有神論をも無神論をも許容する神の道》  と言っています。つまりは キリストであれブラフマンであれヤハヱーであれアッラーフであれ アミターバであれマハーワイロ―チャナであれ どのような名の神であってもその有神論も 神は類型として同じひとつであるということ。しかも 無神論とても まったく同じくこれらの有神論と同じく ただ名が《無い神》という神として違っているだけで そもそも《信仰》である。という議論です。    自分の宣伝をつらねるのも何ですが 次の質問への回答として 日本人の信仰のかたちをまとめています。  よかったら利用してみてください。  【Q:神道を神学するにあたっての手法はなんですか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6862707.html  わたしの回答は No.2とNo.7です。  欧米の価値観ないし表現の仕方にできるだけ沿って書いていますので これらをお話に出されると おもしろいのではないかと手前味噌のごとく取り上げました。  こういった哲学の話と実務のお話(こちらは ほとんどそれをうかがうだけですから)とがかみ合わさってくれば よいかと思ってみました。どうでしょうか。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

>「グローバル化」 人権は侵害しないように、てか。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  グローバル化の現状について それが経済活動として もはや一人ひとりの人間の制御の効かないチカラでまだまだ突っ走っているかぎりで 人びとはその歩みに従って行かねばならないが それにしても  ★ 人権は侵害しないように  ☆ という警告を発し いろいろな配慮をなすべきだと この質問の趣旨は言っている。のか? というお尋ねでしょうか?  そのことを否定するのではなく そうではなく そういった配慮の問題にしても 日本人が現実の社会生活のありかたにおいて――つまり 外交力においてというよりも むしろ沈黙の生活のありさまにおいて―― 世界にうったえて行く。といった道筋は どうでしょうか? と言おうとしていたと思います。  No.1のお礼欄にも書きましたが 趣旨説明欄には たしかに書き込めませんでした。  そのように理解してもらえるとありがたいです。

  • wellow
  • ベストアンサー率46% (892/1932)
回答No.2

bragelonneさん、こんにちは。あくまで自分の概念での回答です。 人間に意識行動の変化には時間がかかることを20代の若造に説明したら、右側と評価され、挙句国語を理解していないと説教されたレベルの回答者ですので、軽く扱ってください。w >( a ) 日本の文化は 《着せ替え人形型》だ。 戦後直後の日本の文化という観点ではそう言えると思います。GHQの規制もあり、あの手この手で規制外になるようあがていましたし、それを正とした価値感が広まりましたらから。 でも、二次大戦で独立を貫いた(批判は色々あります)タイの表面的な手法を流用したかのような方法は、手法論として非難されるようなことではないと思います。また、文化の多重性についても、それを説明する工数が不足し、また単体でも米人に余程文化的慣習に説明を納得してもらわない限り誤解の元になる各種風習を説明するのは困難だったことでしょう。 芯はある、日本人なら(日本の文化的的側転を理解できるから理解できるはず)という期待を混めつつ、でも受取人は日本人ではない、という点は文化的背景、宗教的価値感の違う米人には理解し難かった部分あ大部分ではなかったかと思います。 日本側(外務省、防衛省)は察してくれという文体をいれ、米は「うーん、守るよ、だけどね」と要った文書で合意しています。地位協定もあるので、仕方無いところもありますが。 色々ご質問項目がありますが、自衛隊が守らないなら米軍も防衛しない、自衛隊が守っている(=中国と交戦状態)なら合意に従った兵営は出すよ(ほんの少数だけど)、というあたりふぁ真実ではないかと思います。 内閣総理大臣制というのは、米国以上に為政者の暴走を可能とするシステムです。 「支持者を全て収容する」がベターで、「支持者の身の安全を保証し、出国の許可を得る」が ベストです。ベターが逮捕れる危険があるが、ベストは逮捕、拘留、科料の区別はないそうです。 消去するか、支持者の命を聞かないようにするか、既存のリクエストをキャンセルするかでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ゑろうさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  特には欧米人との対話における問題でしょうか。  そしてそこでの 日本文化についての説明が こちらのチカラの不足もあるとは言え あちらもなかなか同じ土俵に立つようには納得しないであろうというむつかしさがある。でしょうか。  ★ ~~~~  ・・・また単体でも米人に余程文化的慣習に説明を納得してもらわない限り誤解の元になる各種風習を説明するのは困難だったことでしょう。  ★ ~~~~  芯はある、日本人なら(日本の文化的的側転を理解できるから理解できるはず)という期待を混めつつ、でも受取人は日本人ではない、という点は文化的背景、宗教的価値感の違う米人には理解し難かった部分が大部分ではなかったかと思います。  ~~~~~~  ☆ こうなると どうでしょうか? 或る程度は 日本人が世界を指導して行く方向もありかも知れない。でしょうか? ただし 対話のむつかしさがあるのだと。  ★ 内閣総理大臣制というのは、米国以上に為政者の暴走を可能とするシステムです。  ☆ これは めづらしいご見解かと思うのですが いまひとつよくつかめなかったのでもあります。  まだ長い目で見ていくといった視点でおっしゃっていましょうか。  いま少し分からなかった部分があって お応えが少な目になりますが ありがとうございました。

noname#211894
noname#211894
回答No.1

>世界のリーダーは 日本人か? 否 悲しいかな。神は日本人に決断力を与えてはくれなかった。

bragelonne
質問者

お礼

 きゃと‐しと‐わんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 決断力  ☆ ですか。これがとぼしいと。  思想の情況と言いますか 情況において思想が持つチカラは どうでしょうか?  ひとつに 思想は 生活態度だと考えますから すでに 市民たちの生活において世界に先駆けて縁起共生のふつうのあり方を実現しているという場合。  ひとつに ほとんど同じことですが たとえば国際関係における外交などに際して判断力や決断力が必要となるといった場面において これを そうではなく 人びとの生活が安定しているというような側面から支えて行くというような行き方。  つまり だまって生活における共生力なる基礎事実をうったえるといった対話力。  そういうふうな人間関係や国際関係へと舵を切って行けませんか? どうでしょう?