- 締切済み
第一次世界大戦中のロシア
シベリアというのは 第一次世界大戦中のロシアのことですよね? 一緒に連合国側で戦っているのになぜ 喧嘩をふっかけるようなことをしたのですか? あと二十一箇条の要求も同じ連合国側なのに だされましたよね?なぜですか?
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
みんなの回答
- mekuriya
- ベストアンサー率27% (1118/4052)
第一次世界大戦を引き起こしたのはロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世です。大津事件でも有名です。大津市で斬り付けられたときはまだ皇太子でしたが。 ところが第一次世界大戦のさなかロシア革命が勃発。戦争大好きニコライ2世が前線で指揮を執っている間に本国では、怪僧ラスプーチンが民衆の怒りを買って暗殺され、ついに2月革命が勃発し、ニコライ2世は退位させられてしまいました。ロマノフ家の運命はいかに?それはさておき政権を握った臨時政府は厭戦気分一色の世論を反映して第一次世界大戦から離脱していくことになります。10月革命が起こり臨時政府が倒れレーニンが指揮するボリシェヴィキが政権を握ることになる。その後もロシアは混乱が続きロシア内戦に移行する。 このように第一次世界大戦の初めと終わりで、ロシアはまるっきり違う国みたいになってしまったわけです。 二十一箇条の要求は袁世凱の北京政府に対して発せられたもので、このときの中華民国は中立です。山東半島のドイツ租借地でドイツ軍と日英連合軍の戦い(青島の戦い)が1914年にありましたが、北京政府は中立を守ってドイツにも日英にも味方しなかった。つまり、まだ連合国ではなかったのです。それは二十一箇条の要求の時点でも同じ。狡賢い袁世凱は第一次世界大戦が連合国の勝利で終わりそうになった時点で慌てて駆け込み乗車で勝ち組に加わろうとして、アリバイ作り的にドイツに宣戦布告したが、実際には軍を全く動かしていない。ただのアリバイ作りだけ。中立国のまま終わったら、ドイツが負けても山東半島の租借権が日本に移るだけで中華民国には返ってこないと気づいたからです。 結局、山東半島は1922年の日中間の山東懸案解決に関する条約によって中華民国に返還されましたが、それは中華民国が名目的に連合国だったからでもなく、中国人民の対日感情に配慮したといった理由です。 ちなみに二十一箇条の要求というのは、日本がポーツマス条約でロシアから譲渡された旅順・大連などの租借権の位置づけが辛亥革命で清が倒れたことであいまいになっていたから、それを正式な契約にしようとしたものです。賃貸マンションを借りていたら、大家さんが死んでしまって、その相続人と賃貸契約を結びなおそうとしたような話です。そういうものですから、そもそも連合国も中立国も中央同盟国も関係ない話なのです。それは第一次世界大戦とは何も関係がない。たまたま山東半島のドイツ租借地が第一次世界大戦に巻き込まれて、その帰属が問題になったというだけの話です。 中華民国が連合国を名乗りたいのであれば、青島の戦いで日英同盟軍に加われば済んだ話です。 おかしいと思いませんか?そうしないで中立国を気取っていたくせに、ドイツが敗北すると当然のような顔をして山東半島を返せというのは。 ま、それはそれとして歴史の教科書は便所紙の代わりも勤まらないごみくずですから、独学で勉強していただきたいと思います。そうしないと一生、質問するだけの人になりますよ。(了)
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
シベリア出兵のこと? 帝政ロシアが革命で潰れて・・・ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5 「ボリシェヴィキ政権は単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を結んで戦争から離脱した。このため、ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中することができ、フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。連合国はドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図した干渉戦争を開始し、ロシア極東のウラジヴォストークに「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵した。」以上 引用 21箇条の要求 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82 1915年1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)は袁世凱に5号21か条の要求を行った 中国は1917年8月14日にドイツ・オーストリアに宣戦布告