- ベストアンサー
神社等の参道の中央を正中について
参道の中央を正中(せいちゅう)といい、神様の道とされているから、 神様に対する礼儀として歩いてはいけないといことを聴きます。 しかし、昔のビデオとか正中を歩いている神主などがいます。 質問1:後から作られたものでしょうか? また、 質問2:正中のある参道とは一の鳥居、二の鳥居・・・・のどこからどこまでしょうか? お社から一番近い鳥居からお社までの参道の正中のことだと思うのですが、 確証を持てません。 質問3:一の鳥居しかない場合、その手前で礼をすべきで、それをくぐる道が参道となり、 一の鳥居とお社との間に手水舎があったとしても参道にあたるのでしょうか?
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
いいえ、全くのデタラメです。 量が多くなるので簡単に答えます。 1)確かに正中を避けるという作法はあります。但しそれは拝殿内の話です。 私たちが「参拝」といっているのは拝殿前での事ですよね。でも真の「参拝」というのは俗に言う「昇殿参拝」の事です。私たちが行っているのは略式の参拝で「自由参拝」とも言います。 「正しい作法」と言っているのも戦後神社本庁が示した“参考例”でしかありません。それまでは自由参拝に作法などほとんどありませんでした。一礼するだけでも立派な参拝となります。 祭事においては正中を守ることは重要な作法になります。神殿前の階段を上がる場合も外側の脚だけで上がるか正中に向かって横向きに一段ずつ上がる。体を反転する際も正中に尻を向けないように廻る。などです。 いくら参道の端を歩いても階段を上がるのに普通に上り、プイと神殿に尻を向けて帰るなら何の意味もありません。 でも、祝詞をあげるとき、自由参拝でも拝礼する時には正中に立ちます。第一鈴は正中にあります。 あれは似非マナー講師、安芸人、自称霊能者が良い始めたことです。中にはこの俗説に呼応した愚かな神社庁があるのも事実。しかし本庁にはそのような事は書かれていません。現代人はマニュアル族ですからマニュアルを示されると根拠のない事でも簡単に信じてしまうのです。 2)参道は広く解せば街道そのもの、伊勢街道は全て参道になります。新潟弥彦神社などの大鳥居は遥か彼方にあり、この道も全て参道。 しかし伊勢の内宮の図面を見ると内宮前の階段は正中にはありません、僅かに斜めになっています。しかも鳥居は更に正中にはないのです。このほか多くの神社でも斜め、或いはカギの手に曲がっています。つまり参道が正中にあるほうが傍流であり、先に申し上げた通り、正中にない参道の正中という意味すら成り立ちません。 昇殿参拝を考えてください。神殿に上がる手前で手水を行います。そこから考えれば手水の後が真の神域と考えるべきでしょう。でも参道の手水舎は鳥居の先にあったりします。ですから「ここから」などと考える必要も無いということです。 個人的には拝殿前の階段、或いは灯篭や狛犬の先と目安をつけています。 3)拝殿直前の鳥居については様々に呼ばれています。一の鳥居、二の鳥居の順番も時代によって逆転しました。 直前の鳥居は中門鳥居とも言われています。また両側に玉垣がある場合は玉垣鳥居とも言われます。 鳥居は神域の入り口・・これも間違っていないけれど正しくもないです。大鳥居の先には普通に街があります。つまり鳥居は道標でもあったわけです。 昇殿参拝を見てみると、手水は神殿に上がる前に行います。道義的に考えても身を清めて神前に赴くのが当然でしょう。なので神域に入ってから手水を使うのは不合理というものです。 ですので一の鳥居や大鳥居は領地の入り口であって神域の入り口ではない、神域の入り口は手水舎の先にあると考えるべきです。 神宮の手水舎は階段のすぐ下にあるじゃないかという人もいるでしょうが、昔の参拝者は、松阪辺りから川を渡るたびに禊をしたそうです。ですから御神橋より遥か前から身を清めつつ参道を歩いたということになります。 例えばお城を想像してください。御門を通っても更に先があり、城に入っても謁見の間までは幾重にも門やふすまなどがあります。 手水舎は城内の中の清めどころ、狛犬によって最終チェックをされ、合格すれば謁見の間(神前)に立てるということだと解釈しています。 参道というのはそこまでの道のり全てを言います。最後の神前の参道は手水舎の先をいい、さらには狛犬や灯篭の先、階段を指すと私は考えています。 参道の正中がいいい加減だという確たる証拠。神様事に都合で考えが変わることなどあってはおかしい。でも初詣では正中も糞もなく歩いている。「特別なんだ」という人もいるけど、そんな人の都合で特別が出来るなら常識は要らない。 正中は偉い人(宮司や勅使)が通る場所。だから神職が来たら正中をはずして通り過ぎるのを待つのが礼儀。追い越したり素通りするなどもってのほかです。 ほんらい石畳は痛まないようにというのと神仏習合の時代の不殺生戒から来ています。だから神宮にはない。 つまり石畳の外を歩くのはそれ自体無作法。狭い石畳で神職とすれ違うなら一歩だけ外に出て立ち止まってやり過ごし、再び石畳の上を歩くのが作法です。 さらには一般参拝者通しでは帰り道の人が優先となると考えます。
お礼
ご回答ありがとうございました。 とても勉強になりました。 ここで得た物は、私の個人的な解釈になってしまいますが、 参拝して戻ってくる人は御札やご祈祷を頂いた人であり、 その形で神様を携えておられるわけですから、正中とまではいかなくても、 道を譲るという意味で真ん中を歩かないでおこうと思います。 相手が神主の場合もしかりですよね。 ご神体や神様自身が注連縄を超えて一人で歩かれる訳でもありませんよね。 ただ考えられる場合は、神無月に出雲へ行かれる時ですかねえ。