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発達障害の子がいると周囲は思いやりが芽生えるのか?
クラスに発達障害の子がいれば、周囲の子に思いやりが芽生えるのでしょうか? 大人が見ている時だけ表面上優しくしたり、裏表を器用に使いこなすようになるだけでは? トロイ子に合わせて待ってあげる。という配慮は疑似仲間感覚で気分よくさせるかもしれないけど、 本音で付き合ってない分、哀しいものを感じます。 場の理想の形がよく分りません。 何かご意見ください。
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- LOTUS18
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#7です。お礼ありがとうございます。 友達のこども(4才)が通う保育園に 1人発達障害の子がいます。 保育士さんが1人ほぼついているそうです。 そのクラスではあえて「発達障害です」と 紹介はしていないにも関わらず なんとなく「そういう子」という認識があり 何かあっても柔軟に対応しているようで 集まる親の質によっては、「あの子にばかりついて」 ってなる場合もあるでしょうが トラブルになった事は今のところないそうです。 でも お迎えのバスが一緒の別のクラスの子と トラブルになり(放っておけばいいのに ちょっかいをかけて、キーッとなるのを 誘発するため、別のクラスの子を叩く) バスに乗るタイミングを変えさせられたそうです。 ちょっかいかける子の親が凄い剣幕で苦情を言って。 同じ子でも、場所によって、というか関わる人によって 対応が全然違うものになるのです。 これは発達障害ではない子でもそうではないでしょうか。 ちょっと人よりも動作が遅い、言葉がわかりにくい、などで いじめられる原因になったりもします。 排除しようとする心理が働き 実際そのように行動する人間にしてみれば 相手が誰であれ思い遣りなど持てないのです。 自分がスムーズに何事もできるのが当然、ペースを乱すものは邪魔者 という意識なので。 それはその子の育った環境と どういう感性でいるのか、によります。 大人が見ているから優しくする子もいるだろうし まったく無視な子もいるでしょう。 >私は、ある程度、自分の基準を持つべきだと思っています。 大切なのはその集団にとって 「心地いい形」になる事だと思いますので 自分の基準を基盤にしつつ そうなるように誘導してみるのはいいんじゃないでしょうか。 実際いいようになるかはやってみないとわからないけれど 雰囲気が悪そうな場合てこ入れする事は 悪い事ではないです。 自分の理想をどの集団にも適用しようとしたら それは現実的でない身勝手な事ですが 柔軟性を持ってその集団がしっくりくるありようを目指すのなら 自分の基準は大切です。 複数のこどものいるママ友に聞いても その学年のこどもの質、親の質によって 雰囲気は全く違うらしいです。 だから 「理想の形」は「皆が配慮できる集団」なのだろうけど 大人にもできていない事をこどもに教えるのは どこかでほつれとか矛盾が生じるだろうし 人間は基本愚かな生物(と私は思います)ですから 意識しないと楽な方に流れるのは自然な事で そう考えたら 小さいころからの「自分で考える道徳」の教育が 必要なのかな、と思います。 でもそれ言ったら 大人からの教育が必要ですね(^_^;) あと「思い通りにならない」という経験。 実際自分が当たり前にできていたことが 体調崩したり怪我したりして出来なくなったとき 他人に対しての見方が変わったりするので そういう経験から想像力が働くようになり 「トロい子にあわせて待ってあげる」が できるようになる可能性もあります。 でもそうそうそんなことは起きないので 接点を増やして動向をみる、のがいいかもしれません。 何事も慣れれば普通になるので。
補足をありがとうございます。 嫌ったり引いたりするのも自然か。ということですが、 確かにその通りです。しかし、これは物凄く考えさせられる問題ですね。 前提として、人の反応を変えることは、基本的には出来ないものだと僕は思います。障害の子を嫌ったり引いたりする子がいても、それはそれで仕方のないことだとも思います。それを無理に否定したり叱ったりすれば、かえって偏見が強まるような気がします。 しかし考えてみれば、それは障害の子に限らず、どの子も事情は同じですよね。どの子にも些細な理由から好かれたり嫌われたりすることはありますし、苛められたりすることもあります。 そういう不安定な状況の中で、それぞれの子は一生懸命に自分の友人関係を作り上げ、打ち解けていくわけです。 中には、なかなか好かれず友人が出来ない子もいます。色々な事情の子がいますが、その中の一例に障害があるわけです。ただし、障害のある子は特段大変なハンディを抱えているわけですよね(少なくとも質問者さんは、たぶんそう思っておられるのでしょうね)。 特段のハンディをいくらか和らげるためには、大人が態度で示して子どもたちを感化させるという地道な積み重ねが一つの方法かと思います。具体的な方法については、正直わかりません。 ただし繰り返しますが、嫌ったり引いたりするのも、子どもの素直な気持ちからなので、これは正直どうしようもないです。下手に叱りつけるのは、かえって障害の子に対する偏見を増してしまうでしょう。 忘れてはならないのは、障害のある子に手を差し伸べ、自然に仲良く接してくれるという、優しい子も間違いなくいるということです。そういう子との縁を静かに待ち、縁に恵まれれば大切にする、ということは間違いなく大切なことだと思います。「障害だから」という思いに囚われると憎しみが増し、そういうことをおろそかにしてしまいがちになってしまいます。子ども大人も。 それと、理想の場を考えるのも大事だとは思いますが、まずは障害のある子はどういう心情なのか、その子自身の視点で考えことが一番重要なのではないかと僕は思います。人の反応だったり環境などは、なかなか変えることはできませんが、障害のある子ども自身を変えることはできる筈です。自身が変われば、友達も増え、環境も変わるかもしれません。
お礼
ありがとうございます。 私は教員ではないのですが、発達障害の子を嫌ったり、避けたり、距離を置いたりする子は居るんですが、 自ら何かを感じて優しさを向ける子いますね。 あと、違いにまったく無頓着で他の子と同じように接することの出来る子。 そういう子を見ると感動します。 大人が作った仲良し工作のお膳立てによる発生ではなく、天然なものでしょう。 タイミング良く、目に止まればいいんですが、私が見落としてるものもあるかもしれません。
補足
みなさまありがとうございました。 自分で自問自答するだけでは限界があるので、いい機会になりました。 即遮断せず、お付き合いいただいた方に感謝します。 良いご意見が多く、BA決めに悩むのでBA無しで間もなく締めようと思います。 何かありましたら、再回答ください。
- 5S6
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あまり関係ないと思います。 ようはその人の親次第って所でしょう。 子供に無関心、放置、離婚経験ありの場合は残念ながらよく育たない可能性が高いです。 この場合は、一般の子とも仲良くしない。なれない。 「友達」関係を気づけない、信頼しないから。というのがありますからね。 優しい子がいれば、そういう子もいるでしょう。 ただそういうのは小学生までだと思います。 小学校低学年だとまだ、一緒にいる子が障害児だったりしても特別扱いしないと思います。 そういうこの子は変だ、おかしい。などという感情もないからです。 まだ低学年のうちは男子女子の区別がわからない、意識しないような感覚だと思います。 自分が子供の頃はそうではありませんでしたか? まじめに異性を意識するようになったのも、高学年、中学になってから・・・というか。 そういえば小学校の時、おもしろい歌を突然繰り返し歌う子がいました。 当時はおもしろいなー、○○ちゃん。とか程度でしたが今考えるとなんらかの知的障害者。 だったのかな。って思います。 理想という形では、そういう子を助けてあげる。 というのが理想なのかもしれませんが、日本の教育ではおかしなところがあるんです。 それは小学校中学年ぐらいまでは、みんな仲良く。いじめはダメだよ。 とか教えるのに、高学年、遅くても中学からは部活や高校受験、つまり成績など競争があります。 当然優劣が決まります。いじめも同様ですね。自分より強い人にはやらないでしょう。 弱肉強食は生物の掟です。昆虫や魚だってそうですね。バクテリアですら。 人間も大人になれば・・・説明するまでもありません。 本来であれば、そういった障害者は殺してしまう。では問題発言になりそうですが 生まれてこない方が良いのかもしれません。 自分が親だったら深刻な問題です、自分にも多大な影響を与えますからね。 介護の問題とかも、自分の親ですら理由を付けてしたくない。やらない。 親との同居は嫌だ。とか多いのに。他人に押しつけようとします。 労働の問題とかでもそうですよね。 理想は難しい物です。
お礼
色んな事例を直で見た方でしょうか。 ご回答を寄せていただいて嬉しいです。 仰るように、色んな家庭の形がありますね。 模索している私には優しいお声掛けでした。 ありがとうございます。
- toshipee
- ベストアンサー率10% (725/7148)
自分が都心で、息子は郊外で育ちましたが、自分の小学生の頃の都心の小学校と、発達障害の息子が育った郊外を比べると、格段に受け入れる前の、おおらかさと言いますか、親の育て方の違いを感じます。校外は、地の人が多く、お金的にも時間的にも子育て的にも、その土地になじんでいれば、すこぶるおおらかで他人のことに寛大です。息子が自分のクラスにいたとしたら、40数年前でも殺されるくらいにいじめられていたでしょうね。友達はいいヤツらで、不満は全くないのです。だけど、私らの時代でもムリヤリケンカさせる、裸にするは軽い方、ストーブのカギを外して赤熱したものを太ももに押しつけたり、予防接種で当時校舎裏で捨てられていた注射器を拾い、太ももに落として刺していましたね。 息子がいることで、周りが思いやりが芽生えているとは思いませんでした。たまたますんだ土地が、すでに思いやりがある地であったことに、感謝してます。
お礼
貴重なお話ありがとうございました。 地域、、学校でしょうか。 私も同じ市内でも隣の学校でも人の横のつながりに違いがあるのは感じます。 一度、陰な方に傾いてしまったら、元に戻すのも時間がかかりますね。
- kyo-mogu
- ベストアンサー率22% (3398/15358)
大人が手をさしのべないと思いやりの心は難しいです。自分勝手な行動に見えるので。 自然にを期待しては駄目。お世話好きな子供なら良いのですが、概ね育ちません。 そこで、どう接したらいいのか、お友達のことをどのように認めてあげるのかという指導が必要に成ります。どうすれば、大丈夫なのかなどその子供に合わせる必要性があるので、時間をかけてですね。 でも、そうすることで思いやりの心は育ちますが、発達障害を持っている子供が暴れやすいと、やっぱり時間がかかりますし、子供同士では難しい面もあります。我が子がそうなんですが、自分から手を出すことは少なく、どうも息子ですが、女の子から人気が有るようです。男の子からはちょっと嫌われている感じかな。 大人が上手に教えていかないと、子供は分かりませんから。
お礼
ありがとうございます。 やっぱりこういう場合は、こうあるべき。 という考えが場の監督者には求められるということでしょうか。 でも、捉えにくいんですよね。気付くのも遅れたり。 まあ、投げませんが。
- rokometto
- ベストアンサー率14% (853/5988)
ないですね 特に日本人は個性のない「普通」と回りに合わせないと不安を感じる「空気読み」民族です だから普通でもなく周りにあってない子は基本排除されます 身体的なものであれば障がいスポーツや一日車椅子などの体験を得てある程度共感はできますが思考の面ではよっぽど高度な手法と熟練した人が行わなければヘタすれば逆効果にもなりうると思います 大人は身近には親切だけど子どもは残酷、それが今の日本社会
補足
ありがとうございます。 私が子どもの頃もやっぱりちょっと変わった奴(男の子)はいました。 からかいながらも一緒に遊んでましたね。 男は身体を使った遊ぶが多いから、混じり合う事が出来たのでしょうか。 女の子は会話など仰るように思考を伴うコミュニケーションが主体となるので、 会話が成立するかしないかが、重要になるのかもしれません。 もう高学年でそういった波長で交友関係を選ぶ女の子に「みんな仲良く」というのが無理な話かもしれません。
- E-1077
- ベストアンサー率25% (3258/12620)
普通クラスにいるってことは知的には問題ない発達障害ないのかな? それとも養護クラスと行ったり来たりなのかな? なんというか変な話ですが「干支」にもよるみたいです。あの学年はやりやすい、やりにくいって年代があるんです。 長男がアスペルガー症候群なんです。小学校時代にかなり荒れましてね。怒らせると面白いからってからかう子が出てくる。でも、幼稚園から一緒の子はそれをかばう。片づけが出来ないでいると、隣の席の女の子がやってくれる。ズボンからシャツが出てるとさりげなく入れてくれる。放浪が始まると担任が一緒に「じゃ散歩でもしようか」と付き合ってくれる。トイレにこもっても「あれ?○○君はどこ?」と先生がいうと全員で「個室~」と答える。 感想文コンクールで一位になった時に、クラスのドアや窓を全部占めてシーンと待っていて、長男が開けたら一斉に拍手! これは感動したって担任が涙ながらに報告してくれた。 これ・・・・犬と猪のクラスなんです。だから指示が入りやすいって思います。 逆に寅と卯のクラスはグループに分かれるかわれ関せずの世界。バラバラに見えて一致団結するときはする。ツンデレな感じ・・・・。担任も寅だったので気分が乗らないと職員室に還るという先生・・・・(お~い!)って感じ。 午と未はもうてんでばらばら。呼べば来ない。必要のないことに首を突っ込む。見て見ないふり。唯我独尊。良く言えば自立しているし、悪く言えば他人を信用していないタイプ。 知っているだけのクラスを上げてみましたが、本当にあるんですよ。性格の似たのが集まるから、クラス運営は難しい。 理想論はいくら語り合っても実現は難しいです。 今は個性の時代だから。障害のあるなしにかかわらず「素」のままで付きあえるようなクラスになればいいんですけどね。 長男は幸いに良い友人に恵まれて「お前薬飲んだ?」と聞いてくれるとか「本が好きなお前ならわかってるかと」と聞いてくるとか、PCとか情報処理に強いので、先生より早いとか。かなりレアなケースですが、良い同級生だと感謝してます。 逆に友人のお子さんはADHDでLDで擁護クラスにいたんですが、元クラスに戻っても居場所がないらしい。保護者同士もそうなったって、嘆いてたけど、その人自身がADHDだから・・・・・われわれママ友仲間もかなり辟易してた。 クラスに障害児が居た場合のクラス運営の在り方はいろんなケースがあるので、その都度クラス会議で子供たちに障害を説明しどうしたら迷惑行為がなくなり、どうしたら仲間として受け入れられるのか・・・・を考えさせる必要があるでしょう。勿論絶対に受け入れられないという意見もあって当然です。 本音じゃなくても表面上うまくいっているならそれでもかまわないくらいのおおらかさがないと、本当の慈愛は生まれません。 まずは形からでいいと思います。 長男の時のクラスでもかなりの数のクラス会議が開催されたとか。 担任に感謝です。 理想の形はそれぞれ。 まずはその手の体験談の著作をお読みになると良いかと思います。
お礼
干支論ですか。。。。面白そうなので、それは、別の機会にゆっくりお聞きしたいです。 形からパワーで入ってみましょう。 ありがとうございます。
- ShowMeHow
- ベストアンサー率28% (1424/5027)
よくわかんないけど、うちの子供の学校には特別学級があるし、 クラスにもボーダーラインな子がいるけど、、、 そういう人間が、世の中に普通に存在することと、 そういう人間との付き合い方を学ぶ事はできると思うよ。 ある意味、裏表を使わなくてはいけない場面が世の中にはあるということをね。 目的を達するためには、協調と配慮が必要な場面もあるということを。 でも、スポーツなんかに関しては、適当に加減して相手の機嫌をとりながらやっていると、 なんか嫌になっちゃうみたいだよ。 みんなが少し本気になりだすと、泣きが入ったりして、 で加減して、なんてやっていると、ストレスがたまるみたい。 で、そういうことから、少し仲間はずれにされたりしていく観があるかな。 でも結局、本気でスポーツを一緒にはできないんだよね。 何でも他人と同じにやらせてあげたいっていうのは、 ある意味大人のエゴなのかもしれないって思うよ。
お礼
そのボーダーな発達障害の子は、周囲に「この子は発達障害です。話は具体的に。解らなそうだったら、端折っちゃって、KYだけど流してください。」とは紹介されません。 そのため、不快な子と受け止められてしまうことがあると思います。 あなたの回答が、「しかたないよ。元々無理があるんだもん。」という意味なら、気が楽になります。 そこをスタート地点にできるなら、さらに追求してみようと思うからです。 ありがとうございました。
- LOTUS18
- ベストアンサー率31% (1807/5783)
芽生える場合も芽生えない場合もあると思います。 なぜなら周りも色んなバックグラウンドを抱えた人間なので ある物事が起きたとき どういう反応を示すのかはその子によるし その集団がどういう雰囲気になるのかはその集団によるし どう流れるかはそこを管理する大人の采配で決まるからです。 ですから理想の形は その集団によって違うと思います。 ある一部のこどもが思い遣りを持って付き合うが 多数はあたらずさわらず、でバランスがとれる場合もあるでしょうし みんながほどほどに関わる、でバランスがとれるかもしれないし 圧倒的に排除、でバランスが取れる場合もあります。 本人が「放っておいて欲しい」と思う場合、その集団にとっては 「圧倒的に排除」であってもある意味理想の形、といえなくはないのです。 大人が 「~しなさい」で引き締まることもありますが 「○○くんならどうかな?」と想像させてみることも手だし 関わりを増やすことで「特別」と思わなくなることもいいかもしれません。 実際は自分がその立場を体験するのがわかりやすいですが それは難しいので 「置き換えて考える」「想像して考える」こと 「どうされたらいいか」想像することなどが 出来る機会を大人が作ってあげたらいいのかもしれません。 だけど大人も大人でストレスを抱えていて その余裕がなかったりするので なかなかしっくりいく形はできないものです。 個人的には誰もが 小さいときから色々な人と関わって 「色んな人がいる」を体感しているといいのでは、と思います。 「他人は思い通りにいかない」っていうのも。 大家族とか、近所づきあいが密とかだと体験しやすいですね。 そしたら自分のペースでいかない相手と出会っても 分けて考えられるというか、「まあしょうがない」と思えます。 でもそれをすべての人に求めるのは非現実的なので だとしたら本人に危機管理能力がつくような体験を させてあげるのがいいのか? と思ったりします。
お礼
ありがとうございます。 私は、場を作ろうとしてるのではなく、納得しようとしているだけなのかもしれません。 お話を聞いてそう思いました。 普通の子(言葉の選択ご容赦)の中に発達障害の子がいる。 その、「こうあるべき」「こうだったらいいなあ」の基準が自分の中にないのかもしれません。 よく、自分の思い描くようにしようとするのは間違いというご意見もありますが、 私は、ある程度、自分の基準を持つべきだと思っています。 このケースについて経験不足なんですね。(経験豊富な人もあまりいないと思いますが)
思いやりは、芽生えるかどうかはわかりません。 理想の場(=心からの思いやりをもって接してやれる場?)を作るためには、僕の考えですが、発達障害の子を特別視しない(確かに劣る部分もあるが、誰しも必ず劣る部分はあるし、それは皆同じこと。少し周りと変わっているだけ)ことが大事であると考えます。 障害の子も自分が特別扱いされることを望んでいないし、普通に扱ってほしいはずです。別に特別扱いする必要がなければ、そもそも思いやり以外で接するメリットもないですし、他の子も妙に構えず接していけると思います。 ただ、特別視しないという考え方は、実際に障害の子と長く接してみないとわからないという面もあると思います。なので、きっかけは単純なもので良いと思います。大事なのは、とにかく接することで、そのうち相手の気持ちも分かってくるでしょうし、単に親切にすることが必ずしも本人のためになるとは限らないことを知るでしょう。相手を思いやることの本当のむずかしさを学べるのではないかと思います。 だから、とにかく接する機会を多く設けて、相互理解を深めるのが理想の場なのかもしれません。あとは、子どもを信頼するしかないと考えます。 以上素人考えからの意見でした。
補足
ありがとうございます。 普通に接する。 そうすると、その子を別の子が嫌ったり引いたりするのも自然であり、自由なんだろうか?と。 そう思えてきます。 大きくなってくると、自分に合う合わない相手が固まってきます。 合わせる限界もあるのでしょうか。
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お礼
参考にさせていただきます。 ありがとうございました。