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神道について

神道について、またまたお聞きしたいのですが、二拝二拍手一拝 この作法のなかで、いつ神様とお話をするんでしょうか? お陰さまで~、とかです。 二拍手のとき、手をおろしてから、心で会話をするのか、手を合わせた状態で会話をするのか、全ての作法が終えてから、会話をするのかどちらなのでしょうか?

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  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.4

いつでも良いですよ。最初でも、最後でも。拍手の後でも前でも。そしてしなくても。 (解説) 私達がしている作法は神社本庁が問い合わせに対して参考例として出したものです。 つまり決まった作法でも何でもありません。作法と言い出したのは無知なマナー講師と芸人ですよ。 ではなんなのか・・ 明治時代に神社を再興、統一するために政府は三つの神道を作りました。そのうちのひとつが神社神道です。 神道を作ったと言っても新興宗教ではなく、神道そのものは昔から存在し、その祭式の式次第を統一したのです。 その際に現代風の再拝二拍手一拝が作られました。【正式には二礼と再拝は異なるものだそうで、再拝と言うのが正しいんだそうです。そしてこの一連の動作を拝礼と言います。】 後にいくつかの神道が国の支配から脱退。この一部が「古来の作法を復活する」といって四拍手を復活しました。 代表が出雲大社教ですが、宇佐八幡や弥彦神社、その他の教派神道などでも四拍手を行います。逆に神社本庁と連携を持った出雲大社などは「二拍手でもかまわない」としています。 明治時代の神祇庁は国家神道へと変貌し、戦後に解体されて神社本庁が作られました。 さて本題ですが、神祇庁が決めた作法はあくまでも昇殿した際の神職の作法です。 昇殿参拝をした方ならご存知ですが、式次第の中で我々が神職に合わせて拝礼するときと、神職だけが拝礼するときがあります。そして祝詞を奏上する場合は神職だけが拝礼します。参列者は頭を下げているだけです。 そしてここから少し差があるのですが、祝詞の前後に拝礼する場合、再拝して祝詞を読み、その後に二拍手一礼する場合などがあります。 で・・・ 私達が日常拝殿前でやっているのは略式の拝礼で、自由参拝とも呼ばれます。その作法は経緯は先ほど述べた通りです。つまり戦中までは一般には今の作法は定着していません。拝礼はあくまでも神職の作法ですからわれわれは最敬礼するのみです。なので戦中までの画像では人によってバラバラです。江戸までは神仏習合だったので合掌するだけと言うのもアリでした。 で、神社本庁の解釈では簡単に言ってしまえば、略式だからセルフサービスでと言うことになります。 昇殿参拝なら桶に入れて巫女さんがもっていてくれる手水も手水舎でセルフサービス、巫女舞の鈴と拝礼の前の祓えを一緒にしてセルフサービスで鈴を鳴らす、祝詞もセルフサービスだから拝礼もセルフサービスでと言うわけです。 で、本来なら祝詞の前後にする拝礼も略式だからどちらでも一回で良いということになります。また再拝して祝詞を奏上することから再拝と拍手の間に読んでも良いということになります。 もちろん前後でも良いですが、混んでいる時は後の人のことも考えて一回にしましょう。 鈴も今では賽銭の前後が定着していますが、巫女舞は拝礼後ですからね、それを考えると後でも良いのかもしれません。でも「鈴祓え」なので先に身を清めるために鳴らすべきだと個人的には思います。 さて、会話ですけど・・ 神職の中には「神との会話は大和言葉で決まった形式に従わなければ通じない」という人もいます。 たしかに形式は宮中に倣い武家でもそうだったようにお上との直接会話はご法度、請願などは決まった形式にのっとり仲介役が行いました。つまり神職は仲介役なのです。 だから正式な祈願は昇殿参拝のほかに無い、自由参拝は挨拶だけのものと言う道理はあります。 でも略式は略式なりに体裁を整えると言うことから神社本庁では「神拝詞」を作りました。 「祓え給い 清め給え 神(かむ)ながら 守り給い 幸(さきわえ)え給え」と言う奴です、これは神社によって多少違いがあるので境内に掲げられている場合はそちらに合わせてください。 「願い」というのはその場で思いつくものではなく、その人が長年思い続けていることや強く思うことです。ですから日頃から願っているのですから神には通じています。拝殿前で長々と話す必要など無いのです。まして待っている人をないがしろにしているというのはよくありません。 「思いは手水舎まで、そこから先は心を無にして、感謝の気持ちだけで参拝する」という考えもあります。仏教でも心の無にして読経する事により仏の教えが心に入るとします。神道でも同じ。心に様々な思いが一杯だったら神様の気が入る余地がありません。 また祝詞は「法る」(心の中のものを表現する、伝える)と「吐」(と、息を吐く)と言う意味だから声に出さねば願いは通じないと言う神職がいます。だから祝詞はとうとうと声を張って読み上げるのです。 神拝詞は願いを突き詰めた文ですから、そこに思いをこめればイチイチ願い事を言わなくてもOKです。 と言うことで、 手水舎に付くまで一生懸命に心で願いをこめ、手水をして清めたら無になって、拝礼と神拝詞を声を出して唱える。と言うことになります。 神職が祝詞を唱えるときは文面を間違えないように読み上げますから手は祝詞文を持っています。 私の目撃例からすれば、祝詞を持たずにあげる場合、合掌してあげることもあれば、手を体側におき、頭を少し下げて唱える場合もあるようです。また杓を持ったまま頭を少し下げて唱える人もいます。 従って、合掌する、手を下ろすのどちらでもかまわないと思います。

noname#160518
質問者

お礼

回答ありがとうございます. 詳しすぎて、プリントアウトさせていただきました。 鳥肌ものです。本当に、ありがとうございます。

その他の回答 (3)

  • zkxzm4kz
  • ベストアンサー率11% (601/5075)
回答No.3

最後の一拝のときですね。 こまかくいろいろな違いがあるので 神社へ行ったとき宮司さんに聞くことですね。

noname#160518
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 いろいろな神社に行って調べてみたいと思います。

  • simotani
  • ベストアンサー率37% (1893/5080)
回答No.2

これは公式にいつと決まってはいません。 厳密に言えば神社によっても微妙に作法が違う為、神社に聞くのが一番かと。

noname#160518
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 神社ごとに違うのですね……。

回答No.1

吉田神道では 手をおろしてからです 他はわかりません すみません

noname#160518
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 とても勉強になりました。

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