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神道の神観について
誠実な質問のつもりです。 よろしくお願いします。 私はクリスチャンですが、自分が知らないものを軽率に否定するつもりはなく、神道を頭ごなしに否定するつもりは全くありません。 ただ、ふと素朴に思った疑問なのですが、キリスト教の神は力ある神、人格を持った神として信じられています。 そうした観念の中、フと神道の八百万の神観が解っていない事に気づきました。 例えば神道では水や風、雷や木、花等々あらゆるものを神と捉えていると理解しています(が間違いありませんでしょうか)が、そうだとした場合、人間が工業廃水などで汚染した水や空気等が自浄作用及ばずどんどん汚染されて行く現状は神道的にはどういう理解になるのでしょう。 キリスト教の絶対神が所謂「天之御中主の神」と同じ様な絶対神であって、水や風など他の存在としての神との間には等級の差異があり、言葉が良くありませんが「低級神」として捉え、これらはその低級の故に力及ばず汚染されて行く。のような考え方になるのでしょうか。 と言うのは仮にも「神」と名がついている存在が人間の世話にならないとやって行けないというのはクリスチャン的には理解し難いのです。 真面目な質問のつもりなので、どうかお怒りにならずお応え頂けます様お願い申し上げます。
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- toatouto
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お久しぶりです。 社長の件に関しては、キリスト教の神を人間にたとえることそのものに無理がありますから、白紙と致しましょう。 >何を言いたいのかと言えば、 ここから先の文章は、むしろ何をおっしゃりたいのかさっぱり分かりません。 キリスト教の概念では、神が全てを作ったのであって、それに感謝するのが当たり前、と言うお話でしょうか? 仮にそうだったとして、そのようなお考えが根底にあるから神道を理解することが出来ないのだ、と言う理屈であれば、それはもちろんその通りだと思いますよ。 初めから、キリスト教と神道では価値観が違い過ぎるのです。その上で、神道を理解しようと思うのであれば、キリスト教の考えを駆逐する以外に方法はありません。 質問文にあるように、「理解し難いのです」と言うことをただおっしゃりたいのであれば、それは質問とはなり得ませんし、私はここまで、特段話がすれ違っているとも感じてはおりませんよ。
- toatouto
- ベストアンサー率31% (60/190)
なるほど。 そう言った意図がおありならば、全く相容れないと言うことも無いのかもしれません。 神は精霊とは全く別のものですが、同一視する考え方が無い訳ではありませんから、キリスト教の神を絶対と考えつつ、神道の神を別個の偉大なものとして敬うことは可能でしょう。 ただ、神はあくまでも神ですから、「神ではない」と思われることを、まず喜びはしないと思います。それでも、ほかの方の回答にもあるように、日本の神様はおおむね寛大ですから、事情をお話しすれば、悪いようにはならないかもしれません。 この場合、お話しするとは比喩や冗談の類でなく、本当に自分の言葉で、自分の事情をお話しするのです。 日本の神に向き合う時に必要なものは、感謝の気持ちと礼節です。これを忘れず、まずは色々な神社に実際に足を運んでみて下さい。 そして、神を感じる神社に出会ったら、そこでお参りをすると良いと思います。別に賽銭が無くとも、鈴を鳴らさなくとも、手を合わせて神と対話をされるだけで結構です。そうして何か良いことがあった時に、あぁこれは神様が守って下さったのだなと感じることがあれば、お礼にまたお参りする、と言うことの繰り返しで、神道の神を実際に感じられるようになると思います。 また、 >無神論の人は神道の神もキリスト教の神も仏も知っています。彼らの前には多くの「神々」が居るのです。そうでしょう? については、無神論である以上は神の存在は認めていない筈で、神と言う概念があることを知っていても、それは神としての認識ではないのですから、これは考え方としては成り立たないでしょう。 無宗教であれば、神の存在については肯定しますが、この場合も信仰はありませんので、どれを神と認め云々と言う考え方は成り立たないかと思います。 そして、宗教が関係無く個人の問題、と言う捉え方も理解しがたく、宗教自体がそもそも個人の問題である筈です。 会社の例えにつきましては、では社長とは誰のことでしょう? 社長と言うのは生まれながらにして社長でしょうか? 特別な家系や特別な企業の話をするのでなければ、社長、それも文脈から察するに起業した本人は、もとはただの社員なりこれに順ずる労働者でしょう。この場合、宝くじが当たったから起業出来た、などと言う運の話をしている訳でも無いかと思います。 そうであれば、おっしゃるところの「社長」は、早い話が会社が潰れればただの人、起業を成して従業員を従えるまではただの人、大体現実的な経営の話をするのであれば、現場の仕事も分からない人間に、会社を導く能力はありません。 生まれながらに才のある人が居ます。これは確かに恵まれた人で、それは多くの人の役に立てることが望ましいでしょう。そして、生まれながらに家が裕福だとか、そういう人はその人が恵まれているのでは無く、単に恵まれた環境に生まれただけです。大切なのは、その環境でいかに幸多い人生を送るか、ということを考え、一生懸命生きると言うことです。それは恵まれた環境に生まれなかった人たちと何ら変わらないものです。 漠然と「その時偉い人」とそれ以外を区別して考えることより、人はみな同じように人である、と捉えた方が、心が豊かになりますよ。 天皇家については、当然ですが神の末裔ですから、血筋が違います。憲法でも象徴と定められている通り、そこらの社長と同列に考えられる次元の存在ではありません。 またキリスト教の理解についてですが、個人的にはキリスト教を理解しようとは思いません。知識として得ることに意義はあると思いますが、信仰の対象にはならないからです。ですから、「違う」と感じられるのは、それが理解でなく知識だからだと思います。情報と言っても良いかもしれません。宗教に関して言えば、信じようと言う気持ちのある人でもない限り、民俗学者など特定の目的を持った一部の人々を除いて、「理解」と言えるほどに知ると言うことがまず無いのではないでしょうか。宗教は必ずしも生活に必要なものではありませんし、知らなくても困ることはありませんから。 最後に、ほかの方の回答に横槍を入れるつもりはありませんが、宗教が違っても類似点がある、ということはキリスト教と神道に限らず、一般的にも認められている事実です。ギリシャ神話然り、ヒンズー教然り。ただこれらは宗教学として研究されるもので、信仰として見た場合には、逆に相違点が重要となるでしょう。おのれの信じるものが揺らぐと言うことは、信心の根拠が揺らぐと言うことですから。 ちなみに個人的には、似通った部分がある、と言うのは偶然の一致か、そうでなければある程度文明が発達してから相互に伝わった可能性が高いのではないかと思います。物理的に考えて、信仰が発生した当時に大陸間の交流があったとは考えにくく、(これは民族の身体的特徴を見ればそう考えるのが自然かと。)また記録手段が無かったこともありますから、文字が発生し、大陸間の交流が可能になってからいかように事実をねじまげようとも、それが捻じ曲がった事実だと言う証拠はどこにもありませんし、それが証明される必要も無いように思います。 ただ、思うに、もし根幹が同じであるとすれば、全ての神が一様に「根幹は同じものであるから、宗教同士で争うな」と諭すのが理に適った導きではないでしょうか。それが無い以上、隔たったものと考えて、特段不都合は無いように思います。
- furupai
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こんにちは。 なにか神道対キリスト教のような感じになってきているようですが、ひと言。 神道の八百万の神といわれているものは、全て造化三神に集約されます。 キリスト教でいえば父と子と聖霊ということでしょうか。 そこかしこに神がいてそれを祀ってあるのは、キリスト者から見れば邪教に映ると思いますが、仏教、ヒンドゥー教でいうところの「化身」のようなもの、と考えればわかりやすいとおもいます。 直接的な表現はありませんが、草木、動物、人、物など森羅万象は神の「言霊」により成り立っているという認識で、神の一部としているわけです。 実は大多神教ではないのです。それが真相です。 ヨハネによる福音書にも「初めに言があった~万物は言によって成った」とあります。 荒れ野でサタンの誘惑を受けたイエスも、「人は~神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と退けています。 創世記にも「神は言われた」として六日間(安息日を入れて七日間)で全てのものが形作られています。 これは神道でいう「神代七代」(かみよななよ)にあたります。 それぞれの神の名が、創世記の神の神業に対応しているのです。 たとえば 三代目の宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ) 宇比邇とは水を含んだ土、泥を、須比智邇とは乾いた土、砂を表します。 創世記では第三の日 「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」に対応いたします。 六代目 淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ) 淤母陀琉とは面足るであり、面が足るということで地の面が完成したこと、阿夜訶志古とは(あやに畏し)で、畏れおおく褒め称えることです。 創世記では、第六の日 「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」~ ”神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。”に対応します。 神道は表向き教祖も教義も神との契約もございませんが、あきらかにユダヤ教、キリスト教がベースにあり、なにかを封印しているかのようにカモフラージュされています。 天照大神(元はアマテルという男神)の天の岩戸隠れの話は、イエスの死と復活に非常に良く似ております。 元神社本庁調査部長の岡田米夫という方が、神社新報社発行の「大祓詞の解釈と信仰」という冊子の中で次のように述べられているそうです。 「この神隠れは、国津神スサノオノミコトの罪を、天照大神が徹頭徹尾自らあがなわれ、身を隠されたことを意味する。 天照大神はスサノオノミコトの罪を責められず、その改悛(かいしゅん)を最後まで期待されるとともに、常に「むつまじき心もちて相許したもう」という大きな自愛と包容力とをもって、その罪を許し、あがなわれたと書紀に見えている。 ~天照大神はスサノオノミコトの罪をあがなうために、一度は神隠れされるが、再び復活されて、人々に「温かい手をさしのべられ、人々の罪を許す神」として今に至って、私共の上に輝きわたられているというのが、民族古典の示すところである。」 以上 他サイトより抜粋引用 スサノオ=荒んだ者、罪びとと考えれば、これは慈悲の神イエスの行いそのものではないでしょうか。 私は、日本とは封印されたセム系キリスト教国であると考えております。 驚くべきことに、明治時代の小学校の教科書には、次のようなことが書いてあります。 「天津神は、月、日、地球を造り、のち、人、鳥、獣、草木を造りて、人をして諸々の支配をなさしめたり。」 「神は万物を創造し、支配したもう絶対者なり。」 以上引用
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうです。 こういう方面での話し合いになるつもりで質問をさせて頂いたのですが、何故か非ぬ方向に行ってしまい、どうしようと思っていたところなのです。 確かNo1辺りで書いたと記憶していますが、仏教の曼荼羅の諸仏は中心の大日如来の陰であるとか、天之御中主の神とか別天津神など、あとはお示し頂いた神代七世の辺りの話しは本当にキリスト教だけでなく、多くの宗教が似た様な話しを持っています。 また、神道の神は「働きの名前である」と言う様な事を聞いた事がある等、そういうところから、皆繋がっている。或は別々の地域の別々の言語、認識の形式を持つ民族に同じ神が現れると現在の様な様々な宗教が生じ、その同根を差し置いて枝葉の部分で対立しているとすればそんなにもったいない事は無いと思うのです。 しかしながら私の神道の知識は非常に限られており、専門の方にお伺いしたいと思った次第です。 天照のスサノオの罪償いの話しは存じませんでしたがそう言う理解だと確かにイエス・キリストの話しと似ていますね。 ちょっと別の話しになりますが、「義」と言う漢字。羊の下に我と書きます。羊とは言わずと知れたイエス・キリストの別名です。このイエス・キリストの名の下に私たちは義とされるのです。他に「船」という漢字。これもノアの箱船の乗船人数は8人です。 まぁ、偶然の産物と片付けてしまえばそれまでですが、それにしても似た話しが世界各地で独自にオリジナルとして生じているのは興味深い事です。
- toatouto
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どの辺りに問題があるのかいまいちよく分かりませんが、とりあえず順番にお答えします。 まず、誤解があったとのことですが、どの辺りが誤解なのでしょうか?要するに、「愚かゆえに自然を創造した存在の有無に考えが至らないことは仕方が無いが、相応の知識があるにも関わらず、何故これに気づかないのか」と言う感覚は「創造主がある」と言う前提に基づいたものであって、神道ではそもそもそのような考え方自体を必要としなかったと言うことは申し上げた通りです。ちなみにやはり時系列で考えるのならば、恐らく自然そのものを崇め、神としての人格を持つ前の段階では、人間の知恵もさほど無かったことでしょう。そして知恵がつき始めてからは、天地開闢やほかの神話をあれこれと考え出したのですから、愚かゆえに自然を創り出した存在に考えが至らなかった日本人は、次第に知恵を付けてその存在を考えるようになった、と言うのが客観的に見た本質かと思います。 体系があるか、とのことですが、ある所にはあると思います。一般には普及していませんし、少なくとも私は知りませんが。 相容れないと言うことに関しては、それは当然そうでしょう。 まずはキリスト教と言う宗教が、他の神の存在を一切認めないのですから、神道の神はキリスト教の思想の中では生きられません。逆もまた真なりであって、神道では多くの神がおわす訳ですから、唯一の神、絶対の神などと言う存在は神道の世界には存在しません。ですから、少なくとも日本と言う国家がまず土壌としてあり、そこに神道と言う土着の信仰があり、あくまでも遅れて輸入されたキリスト教ないしほかの宗教が全く別の価値観を持って確立することを許容されているのであって、これらが相容れると言うことは、即ち相容れるに値する本質的な柔軟性が備わっていることが必須条件となる訳です。その点仏教は割と強引に習合されたり、色々とごっちゃになっている部分はありますが、これについては触れないことに致します。 >しかしその中に目には見えないがキリスト教の神も居る。 この見解については、賛同致しかねます。 先に申し上げた通り、キリスト教の教義で多神教を認めないように、神道でも唯一神を認めることはありません。ですから、日本の神々と同列にキリスト教の神はありません。混在していると言うのはあくまでも宗教と言う実体の無い概念が信仰の自由に則ってそれぞれ認められているだけで、それぞれの神が同じフィールドに立つなどと言うことはあり得ないでしょう。仏教の話には触れないと申しましたが、仏が神と同一視された事実はあっても、やはり本質的には違うもので、寺と神社を同じものだとは思いませんし、仏と神は同列ではないと感じます。 全てが神、と言う観念の意図するところは図りかねますが、少なくとも神道を信ずる心でものを考えるのであれば、「自分だけが唯一の神であって、他に神など存在しない」と豪語するような存在は、神とは思えません。 会社に例えての見解については、特に否定しようという気持ちはありませんが、敢えて答えるのであれば、人は皆働くものです。働くというのは労働に限らず、成すべきことを成すと言うことです。神も同じではないでしょうか。成すべきことを成し、そこにある。ただ信じてもらう為だけに在る存在など、信じる価値はありません。権力があるから信じる訳でもありません。神には大いなる力があり、その力で成すことがあるから、人はその力を畏れ敬うのです。会社に例えるのならば、皆同じように人間です。偉かろうが凡夫だろうが、一生懸命働いて糧を得、誠実に生きる。それが出来れば人間としての価値に差などありません。そう考えれば、神がそれぞれにどれほどの加護を与えるか、人間はただその恵みに感謝して誠意をお返しすれば良いのであって、そこに神の格だの権力だのは関係無く、等しく神は尊いのです。それをわざわざ他の神教の神を引き合いに出して、どちらの神が偉いとか凄いとか考えるのであれば、それは信仰の観点からでなく、学問として追及出来る姿勢でなければ、ひどく低俗な議論になることは言うまでも無いことだと思うのです。 また、折角ですから最初のご質問に戻りますが、自然破壊について神が止められないのか、との疑問に関しては、昔から日本では、神が宿る木を人間が伐ってしまって祟られる、と言うようなことが起こっていました。(伐ろうとしたら祟られた、と言うことももちろんありました。)神が居ない間に悪戯を、などと言うこともあったでしょう。これはとても不思議なことで、確かに神が万能であれば、このようなことは絶対に起こりませんね。私見ですが、恐らく神は「宿るもの」であって、本体が木や岩では無かったと言うことでしょう。ですから、自らが宿る木を伐られて怒る。日本の神様は、もともとお酒を飲んでどんちゃん騒ぎをするような方たちですから、人間にとても近いのです。崇高で尊い存在なのに、とても身近で親しみ深い、それが良いところだと私は思います。ですから、自然を破壊されてそれはもうお怒りでしょうが、それと同時に、人間が因果応報で苦しんでいることを知り、何とか元に戻す手助けを出来ないかと考えて下さっているのではないかと思います。沢山の人々が環境問題を憂い、自分に出来ることをしようと努力を欠かさないのであれば、神は喜んでこれを守り、力を貸して下さるのです。全ての人間が責任を放棄し、反省の気持ちを無くせば、恐らく日本は滅びるでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「その中にキリスト教の神も居る」ですが、これは同列に置いている訳ではなく、神の概念を持っている人間の前にはそれだけの視野があるということを言いたかったのであり、同じ次元に置いたのではありません。 宗教を抜いてただの素の人間の視野内にと言う意味です。 無神論の人は神道の神もキリスト教の神も仏も知っています。彼らの前には多くの「神々」が居るのです。そうでしょう? その中のどれを神として認識し、どれを精霊と認識し、どれを仏と認識するかは宗教はそもそも関係なく、個人の認識の問題だと思うのです。 会社のたとえは、格とか権力という意味で言ったのではなく、社長、つまり「創設者」が居なければその社員はあり得ない。 社員は勿論一所懸命働きますしそれは尊い事ですが、その平社員が果たして会社を設立したしょうか? 社員は「あらかじめ完成された会社の名前があるから」名刺を持っており、会社の信用にてお客様のところで働く事ができます。 現場では平社員しか働いていませんが、天皇陛下も一般の会社には顔を出さないがトップクラスに忙しいスケジュールで働いておられるのと同じ事です。 最後の辺りの「宿る」というのはやはり霊が先にあってそれが宿るところとして岩とか山、木があるというのであれば、やはり「精霊」などという類いの分類になる可能性もあるのでしょうか。 私は純キリスト教信者ではなく、個人で個人的に神と出会い、それがキリストだったからキリスト信者になっただけで、教会の教義と必ずしも一致はしていません。 そういう私の信仰姿勢に置いては、概念しだいによっては「相容れる」事がありえるかなと思ったのです。 キリスト教の神は水戸黄門に例える事ができます。(笑) 実際には最高の地位に立っている人なのに、一般市民になりきって一般市民として暮らしています。必要な時に印籠をだして悪人を懲らしめたりします。それを水戸黄門だと知っているスケさんとカクさんが所謂クリスチャンです。彼は別に威張りもしませんし、皆が平穏に暮らしているならただのおじいさんとして暮らしています。 キリスト教信者では無い方のキリスト教に対する理解を聞く時「大分違うなー」と思うのです。これは仕方のない事ですけどね。
- toatouto
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#11です。 特に失礼だと感じることはありませんが、申し上げた通り、「かくあるべき」という考えをお持ちでしたら、神道の概念を理解することは不可能に近いものと考えます。 神とは何か。=天地創造して普遍で万能の唯一神 という考えはキリスト教のものでしょう。 >自然の美しさを認め、そこに神性を認めるなら、なぜそれを造り出した方に気づかないのか との問いに真面目に答えるとすれば、それは必要が無いからです。 日本人にとって太陽や自然の全ては既にそこにあるものであって、それそのものが尊いのであるから、それを誰かが作ったとかそういうことはどうでも良いのです。むしろ何故それをわざわざ誰かが作ったなどと考えなければならないのでしょう? 日本神話に見る天地開闢の顛末などは、あくまでも後付けの御伽噺であって、初めからそれがあった訳ではありません。 ですから、人間が認める認めないという概念以前に自然は美しいのであって、そこに神性を認めるのでなくそれそのものが神なのであって、神話によれば神は自然発生的に生まれた訳です。 そこでご質問の「人が神を造った」についてですが、これはその通りと捕らえてよろしいかと思います。 正確には、人々が神と認識した存在が神として語り継がれ今に至るということです。 例えばですが、今私がここで神を名乗ったところで、普通の人は信じませんね。 しかし私が神であることが肯定されるような出来事があり、誰もが神であると思うようになれば、その時点で神道の考え方では神として位置づけることが可能です。ただ、現実問題としてこの社会の中で現人神を名乗りそれを信じてもらうのは難しそうなので、一度死んだ方が可能性は高いのですが。 再度時系列でお話ししますが、日本の神は初めは自然そのものであった筈です。そして信仰が根付くと、便宜上人の形を取りました。ご指摘にあった通り神道の神に宇宙や惑星という観念が見られない(これは考え方にもよりますが)というのは、つまり当時の日本人が宇宙や惑星の何たるかを知らなかったからでしょう。概念としてあると言うことと、学問的に証明されることは全く違うことで、紀元前の人間が太陽の大きさや温度、まして地球との距離などを知っていた訳が無いということです。 そして、人間が知恵を付け、文化を発達させるに従って、神道も然るべく姿を変えて来たと言うことです。 従って、 >つまり、神様は永遠に不変の方なので変わる事がありませんが、人間の造った教えは時々で変わります。 とのことですが、「神様は永遠に不変の方なので変わる事がありません」と言う考え方そのものがキリスト教的なもので、神道ではそのように考えません。 そして、もちろん神道でも神に格付けはありますが、キリスト教の神と比べて力がどれくらい、ということを考える必要は無いでしょう。天使に順ずる存在もありますが、日本ではこれを有難く感じることはあっても信仰することはありません。 稲荷社において、狐は神の使いであって、狐が神なのではありません、と言われるのと同じです。ただ、初めは狐狸妖怪の類であったものが次第に力を付け、神に上がることはあるようですが。 日本でもキリスト教は受け入れられていますし、信じる人は沢山居ると思いますが、神道の思想に限定して考えるのであれば、日本人にとって、「誰か一人の普遍で万能な世界を創り出した人」と言う神が必要無かったと言うことでしょう。私から見れば、キリスト教の神と言う存在はありませんが、それを主張してお話したのでは何も始まりませんから、まずキリスト教を信じる人にとってはその神は存在すると言う前提でものを考えます。同様に、神道の神々にはキリスト教的な神はおらず、またその教えも無い、と言うことを理解して頂ければ、水とか油とかいう概念も払拭されるのはないでしょうか。 宗教はあくまでも宗教です。科学で証明されることと相反することもあります。それでも神道が信仰としてあり続けるのは、日本人が神道の神々を、「本当にあったかどうかは分からないけれど、ある程度は歴史に関わることでもあるかもしれないし、第一脈々と我々の民族が支えられて来た存在は、真偽に関わらず尊いものである」と理解しているからだと思います。 要するに神道を信じると言うことは、どう安らかに生きるかと言うことなのだと思いますよ。神と対話したい時は手を合わせ、時に神の存在を忘れてもそれくらいのことでバチが当たることも無く、むしろ現代の日本人であれば調子が良いくらいに正月の初詣くらいしか神社に赴かないくせに胸いっぱいにお願いごとをして帰る、そして次の正月もまた、篤くお礼を申し上げることも無くお願事をして帰る、そんな人が大多数でしょう。形骸化していると言えばそれまでですが、それでも日本と言う国を守り、我々の生活を守って下さる神々に感謝し、どこかで神の存在を信じている人も多く居ます。初めに申し上げた通り、まず神があるのではなく、まず人があるのです。人が信じるから神になる(神として在る)のであって、神が在るから人が信じる訳ではないと言うことです。 繰り返しますが、「キリスト教では~である」と言うことを正義ないし絶対の真実であると言う前提で考えるのであれば、神道の神について理解して頂ける可能性は無いでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ご寛大に感謝致します。 すみません。 「何故その美を創造した方に思いが行かないのか?」という部分は私の引用不足が誤解を招いてしまった様です。 今該当箇所の検索ができないので相変わらず私の記憶からですが、この箇所は神を信じる人と信じない人の対比をしている文章で、趣旨は「自然を信仰(当時も現地には太陽神信仰などがありました)する人の過ちはそれほど大きな物ではない、何故なら彼らは自然の美しさを認めつつもそれを創造した方まで考えが回らなかったからである。しかし彼らの過ちは無い訳ではない、何故星の運行(占星術等の事です)を見極め、天と地の印(様々な自然から得る知恵)を極めるほどの知恵があったなら、なぜそれを創造した方に気づかなかったのか」という様な意味でした。もしかしたら正典ではなく、外典かもしれませんが。 私は欧米から移住してきた在住欧米人ではなく、日本で育ち、初詣や除夜の鐘を鳴らしに行くなど普通の日本人として育った後にクリスチャンになった普通の日本人です。 ですから、神道の姿勢も何となくは理解しているつもりです。 ただ何か体系みたいなものがあるのかなとも思ったので質問をしてみました。 理屈や教義ではなく”体質”として私は日本人なので神道とキリスト教の共存に全く問題を感じませんが、改めて「教え」とか「教義」という視点から見てみた場合はやはり相容れないもののようにも思います。 聖書中ではよく「外国の神々」という表現が出てきます。 ここでは外国の「神々」と表現されていますが、これは「神」として神格を認められている訳ではなく、「人々が神と呼んでいるもの」という意味で用いられていると私は解釈しています。キリスト教には唯一神以外に神は存在しないからです。 ここでこの状況を自分を当事者にして見た場合、以下の様な景色が目の前にあります。 目の前に多数の神々(人々が神と呼んでいる存在で、自分自身では確認のしようも無ければ証明のしようもないので神々としておくといった存在)があります。これらの神々は太陽や山、水や風といった「目に見える」形で存在しますから認識しやすく、存在を認めるのも簡単です。 文字数の制限があるので補足に続かせて頂きます。
補足
しかしその中に目には見えないがキリスト教の神も居る。 つまり我々人間側からすれば全てが神々なのです。 この視点に立った時、神道とキリスト教の神の混在は普通の事で、特に問題として取り上げる事はありません。 多くの日本人クリスチャンは半ばこういった立場というか視点で生活していらっしゃるのでは無いでしょうか。 しかし、例えば会社に例えると、目の前に人が沢山います。 みな「社員」です。 しかし中には部長もいれば平もいる、そして当然社長もいれば会長も居る訳です。 私たちの目の前に現れるのは平とか課長、部長までで、それよりも上層の社長や会長などが一般のお客さんのまえに現れる事は滅多にないでしょう。しかし「実権」を握っているのは彼らです。 私たちはこの事実を横に置いて「皆社員」と一緒くたにすべきでしょうか。 強いて言えばこういう問題のようにも思うのです。 いかがでしょうか?
- toatouto
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突き詰めて行くと際限が無いと思いますが、少なくとも、一神教と多神教という考え方をするよりは、厳密に神道とキリスト教の違いを考察する方が理解が楽になるのではないでしょうか。 まず、在り方についてですが、キリスト教は最初に神があると思います。神道では最初に自然と人間があります。 キリスト教では神があって、教えがあり、それを守りなさい、信じなさいと教えますね。 神道では、まず人が居て自然があり、人が勝手に自然を神として崇めます。それから、神という概念が根付くと、今度は亡くなった人の中で特別な人達のことも神として崇めます。その信仰の中で、神は人間に対して、信じなさいとは言いません。 神道の神は、そもそも積極的に人間を導こう、その為にどんな教えを施そう、などということは考えませんし、あくまでも困った人間が何とかしてくださいと泣きついた時に、助けてくれたり、場合によっては助けるどころかバチを当てたりします。(これは他の方も回答なさっている通りです。) バチが当たるのは当然神様を怒らせた時ですが、その原因は様々でしょう。 神道の神の考え方は、おおまかに言えば「善行を成せば幸福となって己に還る」と言うことだと思います。しかしこの場合の善行は、特段キリスト教の神が定めるように定められたものでは無く、これを怠れば罰が下る、という性質のものでもありません。(バチは当たりますが、神様がいつも見ていて悪いことをすると即座に罰せられる、という類の教えは小さな子供に親がしつけとして教える程度のもので、大人が実際にそれを信じて、キリスト教の様にいちいち悔い改めたり懺悔することはほとんどありません。) そして、神と神でないものの区別は、とても分かりやすく言うならば、「凄い力を持った存在」が神です。 大昔の日本人にとって、太陽は恵みであり、また脅威でもありました。そして同様にほとんどの自然現象がそうでした。雀や兎やただ人はそうではないので神ではありません。次第に神という概念が定着して来れば、岩や樹木にも神は宿ります。その時点で人格を持っています。そして凄い力を持った人が亡くなったり、亡くなってから祟った(凄い力を持った)人を神格化して祀ります。それはそうしないと危険だからです。(雷を落としたり病気を広めたりしますから。) ほかの方の回答にもありますが、にぎみたまとあらみたまは性質が違いますね。穏やかな神は愛され崇められ、荒ぶる神は畏れられ崇められたのです。どちらも日本人が生きて行くために必要なことでした。そこにキリスト教のような、とにかく神とその教えを信じよ、そうせねば救われない、という概念はありません。神道の神は、信じても信じなくても救うとか救われるとかいう約束をしません。(神との対話能力があれば、そのような約束もあり得ますが、ごく普通の人間には神の声が聞こえることはありませんので。この点はキリスト教と同じかもしれません。) そして、土地神(氏神)のような存在は、それぞれの土地で別々に信仰され、ほかの様々な神様の頂点に天照大神がおわしますが、伊勢神宮は遠いし毎日はお参り出来ない、という事情があったり(というか、身近な神の方が当然いつも守って下さるというのが本当のところかと思いますが。)、ご利益があればどの神でも良いと言う人も確かに実在するのでしょうが、困った時に助けて下さる神様を信仰する日本人がやはり多いのではないでしょうか。 日本人にとっての神(神道の神)とは、あくまでも「守って下さる」ものです。信仰とは、守って頂きたいからお願いをし、そして守って頂いたからお礼をする、そういうことの繰り返しが厚い信心となり、受け継がれて来たものだと思います。 それから神に良いとか悪いはありません。等しく尊く敬うものです。 また、神に関しての考え方としては、時系列で考えて下さい。 申し上げた通り、まず初めに自然があり、それを畏れ敬い、そこから神と言う概念が定着し、色々なものに宿るようになり、一部の人間が神格化されるようになる、と言うように、変遷を経ています。その中には国策であったり、色々な歴史が絡んだり、仏教やその他の神教が混入したり、一概に「神道」と言った時に、明確なものは無いと考えた方が、腑に落ちるのではないでしょうか。キリスト教は、教えがあって、それを守りなさいという観念が確立して以降、ずっとその姿を変えていないと思いますが、神道は流動的に変化をしながら今の形になったと言えます。 また、環境破壊に関しての神の態度を考えるのであれば、昨今の汚染よりはるか以前に、山を削ったり川を埋めたりしていますから、神はとっくの昔にお怒りかと思います。お陰でこんなお先真っ暗な状況に陥ったのかもしれません。神道の考え方とは言いませんが、自業自得です。 最後に神道の神について理解を助ける考え方を一つ。 一番簡単なことは、キリスト教の神という概念に基づいた「神とはかくあるべき」という思い込みを無くすことです。神というのは信仰の中核となるものですが、それはイコール キリスト教の神 ではなく、「神」という概念の中にキリスト教の神も含まれるということにほかならないのであって、同じ概念の中にある神道の神は、キリスト教の神とは全く違った性質を持ったものです。それをまず根幹として、神道の神の何たるかを知って頂ければ、「キリスト教の神はこうなのに」という思考そのものが発生せず、神道を理解出来ないことは恐らく無いことと思います。(逆を言うならば、「神道の神は何人も居るのに、何故キリスト教には一人しか居ないの?神道の神は教えを強要しないのに、何故キリスト教では教えを守らないと救ってくれないの?」となります。これでは理解どころか認識すらままならないでしょう。)
お礼
ご回答ありがとうございます。 お話しをお伺いする限りではやはり「人が神を造った」とも聞こえますがいかがでしょうか。 以下恐らく大変失礼な内容なので初めにお詫び申し上げます。 どうかご気分を害されずに読んでいただければ幸いと存じます。 先ず、キリスト教の神も旧約と新約ではかなり違います。 そして多くの方が言う「キリスト教の神」というのは概してこの旧約の性質を指している場合が多いです。 また、新約では大分大らかになっていますが、旧約(言ってみれば新約信者のクリスチャンも旧約を学びます)では人間が造り出した(考え出した)種類の神は「偶像」として神の忌み嫌うものです。 この「偶像」は新約になって「人の中にあるイメージや概念」等を指すと言う事がよく言われます。 実際旧約時代の人々は「人間が考え出した種類の神」を崇めたが故に廃退を繰り返しました。 そして、聖書にはこういう箇所があります。 「自然の美しさを認め、そこに神性を認めるなら、なぜそれを造り出した方に気づかないのか」と。ここでは美について語っていますが、力などもこの内に入れる事が出来ると思います。 つまり、自然の力に驚異を感じ取る事ができるなら、なぜそれを創造された方に思いが行かないのか?と言う事です。 つまり、神様は永遠に不変の方なので変わる事がありませんが、人間の造った教えは時々で変わります。 教えと書きましたが神観とか、神の概念と言っても良いと思います。 人間よりも凄い力をもった存在と言うのであれば、キリスト教には無数の天使が存在します。現にヨハネというキリストの12使徒の一人が天使のあまりの栄光にひれ伏して礼拝しようとしましたが天使はこう言います。「止めなさい。私はあなたと同じ”仕える者”に過ぎない。ただ一人神だけを崇めなさい」と。 この天使の力は神道の神のレベルに換算しても天照大御神に匹敵するほどの力に見えます。天照大御神を詳しく知らないので何とも言えませんが。 そのレベルの天使(凄い力をもった存在)でもただの”仕える者”として捉えるのがキリスト教です。 十人十色の信仰とはいえ、この違いは大部分の人が持っていると予想されます。 と言う事はやはり水と油なのでしょうか。。。 「気にしない」という部分で普通に接する事はできますし、実際そうしていますが。。。
- mizutaki
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そうですね。 やはり宗教として形になるそれまでの課程が全く違うので、十人十色 10人に聞いたら10通りの答えは出てくると思います。 基本的な縛りがない、非常に自由な宗教ですからねw 気が向いたら、ほかの人にもこの質問をしてみるといいかもしれませんね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 周囲に神道の信者さんが居ないのですが機会があったら聞いてみます。 ありがとうございます。
- mizutaki
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やはりそれも根本的な物が違うと言えます。 キリスト教は一つの教典から派生したり、書き換えがあったり、分割されたりして、今のキリスト教やその他の宗教という風になっていますが、 神道のような宗教は、民俗信仰が寄せ集められて、それがうまく融合して、現在の形になっています。 八百万の神と呼ばれる原点は、元々何万何十万の伝承信仰が互いに情報交換して、自然と統合されてきた物なので、十人十色。 で、日本の神様は結構気さくで柔軟な方が多いので、啓示のような堅苦しい教えを持っている神は少ないですよ。 (というか、A地方の神様が堅苦しくて住民が面倒だと感じたら、B地区の神様に鞍替えする事も起こりえる事ですから) そして、善悪の分別を与えるほど潔癖で完璧で押しつけがましい神様はほとんど居ないです。 助けを求めて来たら、その求められた神様なりの解決方法を導いてくれる事はあるかもしれないですね。 巫女や神主、天皇のお仕事は、神様に世の中が良くなるように頼んだり、ちょっとした助言をもらう事ですしね。神託とか善悪の判断のような生活に想定以上の変化が起こるような教えは神は通常行わない。 祝詞は「目上の人と接する礼として必要」、 大祓は「穢れ(汚れ)を祓う(払う)事」ですから、年末に大掃除して新年を良い気持ちで迎えたり、というのが原点の一つらしいです。 大掃除をする時期に、神様から「大祓だぞ」と声をかければ、掃除しなきゃいけないという気持ちになりますしね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 もし私の発言に御気分を害していらしたら真に申し訳ありません。 再度念のため謝罪しておきます。 mizutakiさまの信仰姿勢が神道の代表的な姿勢という訳でもなさそうですね。 十人十色なのでしょうか。。。
- mizutaki
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キリストの返答は一神教らしいと思いました。 キリスト教的にはそれは正しい事であるというのは分かります。 しかし神道のような多神教になると、 「(その話に出てくる)神は権力的な支配状況を保つために自分の敵になる者を悪魔とし、実は悪魔は革命を望み一点集中の権力支配構造を撤廃し民主主義的な状況を作り出すための存在」 という解釈でも別に問題はありませんから。 というか、キリスト教のように重要な教典が存在しているトップダウンな信仰と、神道のような民間信仰の発展系になるボトムアップな信仰では、根本的な考えの出発点が違う気がします。 神が悪で悪魔が正義の考えは一つの例で、 一神教の考えでは、一つの回答が導かれる問いでも、 多神教の考えになると、回答は多種多様になり、その信仰者のほぼすべての心に届く一つの回答はおそらく存在しない。 でもって予め悪魔と契約するのであれば、それはその人の責任だし、悪い者だと知らなかったらそれは結末が見えるまではどうしようもないかと。
お礼
ご回答ありがとうございます。 神道には神からの啓示による教え的なものは存在しないのでしょうか。 巫女的な存在がその時その時の状況に合わせて御神託を預かるのは知っています。 でも、私の知識の範囲内ではそれは教義とか教えというよりはその事象に対する対処法に思えるのです。 つまり、神さまが善悪の分別を人間に与えるような事は神道ではないのでしょうか。 「知らなければ仕方が無い」と放っておく感じなのでしょうか。 大祓祝詞等はかなり知的な存在の意思を感じるような内容に見える気もするのですが、どうでしょう。
- mizutaki
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キリストの信仰は一神教らしいと思います。 キリスト教的にはそれは正しい事であるというのは分かります。 しかし神道のような多神教になると、 「(その話に出てくる)神は権力的な支配状況を保つために自分の敵になる者を悪魔とし、実は悪魔は革命を望み一点集中の権力支配構造を撤廃し民主主義的な状況を作り出すための存在」 という解釈でも別に問題はありませんから。 というか、キリスト教のように重要な教典が存在しているトップダウンな信仰と、神道のような民間信仰の発展系になるボトムアップな信仰では、根本的な考えの出発点が違う気がします。 神が悪で悪魔が正義の考えは一つの例で、 多神教の考えをすると、回答は多種多様になり、その信仰者のほぼすべての心に届く一つの回答はおそらく存在しない。 でもって予め悪魔と契約するのであれば、それはその人の責任だし、知らなかったらどどうしようも無いと思います。
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お礼
すみません。 どうも話しがすれ違うようなのですが、どうすれば良いのかの対策案も出てきません。ネット上のコミュニケーションて時々難しいですね。。。 会社のたとえに偉いとか偉くないとかいう観念を込めたつもりはありません。あと、あの例えの社長はキリスト教の信仰から言えば生まれながらに社長なのです。神は元々完全であり、成長すると言う事がありませんから。 そして社長(神)が造った会社(宇宙を含める全世界)はその内終わる時が来ます。でもその時点でも社長は社長なのです。何故なら会社が無い=社員(我々人間)が居ないという事です。会社の終わり=世界の終わり=社長がただの人になったなどと評価する人そのものが居ない状態なのです。 何を言いたいのかと言えば、親の心子知らずと言いますが、子は親から生まれたくせに自分で育った様な顔をして過ごします。 ここに感謝の欠落が見られます。その子は自分で育ったと思い込んでおり、親の無上の愛による精神的恩恵や食費学費など金銭的な恩恵を全く無視つつ欠点ばかりを見たりする場合もありますから、感謝など出て来る訳が無いのです。 では、家の家賃を払っている訳でもなく、食費を出している訳でも無いが、父よりは比較的身近で馴染みの深い兄弟姉妹はどうでしょう? 彼らは年齢が近いので境遇も似ており、よって生活サイクルが同じなのでいつも一緒です。ここからも勿論大きな精神的恩恵を受けます。が両親が居なければ彼らもまた立っていけないのです。 念のため注ですが、私は何もキリスト教の布教をしようとしている訳ではなく、私の視点を知って頂く為にキリスト教信仰(教会を代表する信仰姿勢ではありませんが)から見た神道への考え方を述べているだけです。 私たちは兄弟姉妹にも勿論感謝しますが、親には更に大きな感謝を持ちますよね。と言う事です。 孤児だったとしても、生みの親より育ての親と言いますが、生みの親が居なければ存在することそのものができなかった訳ですから、生みの親の偉大さはやはり大きいのです。私たちが幸せなのは存在するからこそであり、存在がなければ幸福感そのものが無いのですから。