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神道において、どこまでを神々の御加護と考えればいいのか
私は神道に興味があり、その結果、 日々のさまざまな良い出来事を神々のおかげであると考えるようになってしまいました。 ここで、重要且つ、うまく行き過ぎている出来事を神々のご加護に違いないと考えるのは良いことかもしれませんが、 私は極端な人間ですので、ちょっとした物が手に入ったり、飯がうまかったりしただけで、 神々のご加護かもと考えてしまいます。 如何せん、一切、神通力などという高等な力は持ち合わせていないので、 そういうのが分からないのです。 そのためか、神々が不快に思うことも分からないので、作法でよく後から後悔したりもします。 どのように基準ラインを探せばいいのでしょうか?
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>>どのように基準ラインを探せばいいのでしょうか? 神道の神に限らず、キリスト教でも、仏教でも多くの信者さんがいる組織のトップは「忙しい」のです。もちろん聖徳太子のように、いやそれ以上に、同時にうん千人とかうん万人の相談事に対処可能ですけど、日々の細々としたことにまで「ご加護」するのは無理ですね。 だから、「ちょっと体調悪ーい。風邪ひいたようだ。○○様、治してください。お願いします。」とか「明日の映画のチケットがどこかに行ってしまった。○○様、探してください!」なんてお願いは無視されるでしょう。 その方の「人生の転機」あるいは「生命の危機」っていうようなときに、人智を超えたパワーを使うことが基本でしょう。とはいえ、人間は100年余りも生きれば、誰しも死ぬわけです。どんなに素晴らしい人でも、恋人でも「最後は死ぬ」ので、不治の病になったとき、神に祈っても無駄なことも多いのですけどね。 ですので、個人的なことで祈ると「風邪ぐらい自分で努力して治せ!」とか「この日本を指導する神のトップグループの私に、探し物をしろというのですか?」って、神様は不快に思われるようですよ。 でも、ささいなことにでも感謝するのは、良いことだと思いますので、「ご飯がおいしい。お天と様、大地の神、ミミズ様、お百姓様、配達してくれたヤマトのおにーちゃん、ありがとう」っていうのはOKですね。 基本的に、プラスは感謝、マイナスは「自分の努力不足あるいは、もっと大きな失敗をしないための予防接種・神からの警告」って考えればいいと思います。
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- lv4u
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>>その後いいことが起こると、相当小さいことでも、 >>「これ、神様のおかげじゃないか」と考えてしまうのです。 まあ、ちょっとぐずぐずして家を出るのが遅れて、「予定の電車に絶対間に合わない。でも、この合宿研修には遅刻したくない!」って思っているとき、ホームに出ると、普段は遅れることない路線の電車が「車両点検の影響で、5分遅れています」っていうことがあったりすると、「これって神様のおかげ?」なんて思ってしまいますよね。 まあ、小さいことなら、神様ってよりも、現実にそのよいことに影響あった人達に感謝するってほうが適切な気もします。スカパーをこの前見ていると、京セラのセラミック包丁の製造過程を原材料の採掘過程から、工場での製造工程、そして料理店で使っている職人の様子までを放映していました。 この工程に参加している方はもちろんですが、その製造が可能になった科学技術を発明・発見した方までも含めると、膨大な人々がたった1つの包丁にからんでいるわけですね。 まあ、考えてみれば、毎日膨大なエネルギーを無償で提供してくれている太陽存在も、無償で「空気」を提供してくれている地球生命体って存在もありますので、小さいことでも「神様のおかげ」ってしても間違いではないでしょうけど、現実に生きている関係者や、過去に関連することでがんばった人へのおかげという視点も持っていれば、良いのでは?
- hakugaku
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神々様の御加護の明確な基準はないと思います。 よい出来事ばかりがおかげではなく、事故にあったとか、病気になったりしてもおかげは必ずあります。 私自身、昨年は交通事故にあい、平成17年には心筋梗塞を患ったんですが、軽く済ませてもらえたので(事と次第によっては死んでいたかもしれないから)、これも神々様の御加護と感謝しておるしだいです。 どこからどこまでが神々様の御加護というのは、ひとによりまちまちです。
お礼
ご返答ありがとうございます。 前向きな信仰は良いですね。
お礼
ご返答ありがとうございます。 私も神々へ思う気持ちは、それと近いです。 たまに行く神社でいきなり願い事をするのは大変失礼でしょうから、 私は直接的にはお願い事をせず、日々の感謝の気持ちをを伝えます。 その後いいことが起こると、相当小さいことでも、 「これ、神様のおかげじゃないか」と考えてしまうのです。