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うつ改善のための宗教的視点と哲学的思考

薬を飲んでも治らないなら、うつ病の原因は心理的なものだと考えるのは妥当な考えだと思われないでしょうか。 ある日突然うつ病になったわけではなく、心理的なストレスと不安の蓄積が今のうつ病と診断されるにいたる経緯ではないでしょうか。 学者の言う脳内のセロトニンがどうのと言うのは結果論であって、始めは心理的な要因だったはずです。 ですから、薬でストレスや不安をどうにかしようというのは極限状態にある人に対しては良しとしても、通常の治療方法として正しいとは思えません。 うつ病の原因は自分自身に対する無理解と思います。 同じストレスを感じても人によってその受け止め方が違います。 受け止め方が下手な人がうつ病患者には多いだろうと思います。 極端に自分を責めるのは正しい思考とは言えません。 そういう自分自身の思考を自覚し修正する作業が必要なのではないでしょうか。 これはうつ病に限らず、どんな人にも言えることです。 自分自身を理解するために必要な道具が宗教と哲学だと思います。 宗教的視点と哲学的思考が生きる上でどんな人にも必要なのではないでしょうか。 古い手法ではありますが、今のところ宗教的と哲学的がうつ病を治す唯一の方法だと思います。 宗教的視点と哲学的思考なんてうつ病患者には無理だという意見もあるでしょうが、 他人が治せる病気ではないのは明らかです。 自分を理解することに遅いは無いはずです。 現代人はまるでゲームのルールを知らずに参加しているプレイヤーの様ではないでしょうか。 数千年前から人の基本は変わってはいません。 皆さんはどう考えるでしょうか。

みんなの回答

noname#182038
noname#182038
回答No.7

こんにちは。 薬を塗っても飲んでも、いつかは勝手に治る自分の身体ですね。 ウツは体質で、ご指摘のセロトニン他、、神経伝達ホルモンの 過多・減少でおこるものです。 治療法に疑問を御もちなら納得いくまで、セカンドオピニオンなども 利用して徹底的に追及され、改善を図るべきです。 宗教・哲学に関してはご自分の気が収まり穏やかなる人生となるのであれば 利用したらいいと思います。 仰る、社会はルールは、守る人と破る人の割合で気になりますが、そのことと 病気因果関係は、人間社会に生きる上で当然に有ります。 ご質問内容に、強い社会に対しての不安と病気の無理解、焦り、怒り、が感じられますが 「依存と無力が人間に課せられる課題で有ること、それを乗り越える事こそ人生である」 と我々、全てが認識できた時に安らかな生涯を得ることが出来ますね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ハード面からのアプローチだけでは無理があるのではないかと思うのです。 セロトニンがどうのというのは結果論であって、初めは心理的なストレスが大部分ではないでしょうか。 (ハードが原因の場合はいくらでも薬を使ったらいいと思います) 宗教や哲学は本来なら予防的効果の方が高いとは思いますが遅いということはないと思います。 >「依存と無力が人間に課せられる課題で有ること、それを乗り越える事こそ人生である」 全くですね。自分の足で歩けるようになりたいものです。

回答No.6

「心理的な要因」・・・ここが医学・宗教の堺かもしれませんね。 ただ、「宗教的と哲学的がうつ病を治す唯一の方法」。。。この一点で質問者様には共感できません。 うつ病は自分でも直せないし、医学を無視できないのです。好きで自分を責めてません。 あなたがいう、自分自身の思考を自覚し修正する作業が必要なので医療を手段とします。 まず、うつ状態では宗教の実践や哲学への共鳴などとても無理ですよ。 だからこそ、そこまで精神を持っていくために薬を服用します。 宗教を軽んじたり、哲学をおろそかにしたいわけではありません。 昔は薬も医学もなかった、とおっしゃりたいのでしょうが、病気は存在してたのでは? 病気への人々の長い苦しみがあればこそ、医学の発達があり、そして宗教も哲学も現代に生きています。 解決への方法が見つかれば、医学・宗教・哲学と軸を合わせて行けば良いと思います。 相反・相対してしまうとなんのための宗教、何のための哲学でしょう。 治療法が見つかるよう、あるいはうまくいくよう、完治できるよう 苦しみながらもいっそう祈りは深まり、哲学が自己に備わるでしょう。人生の深みをそうやって知るのだと思います。 宗教・哲学の実践にはある程度は健全な精神が必要です。 人生の意味を知る気高い行為だと思います。 それだけにどこかバランスを崩したままでは、自分を見つめる行為にも歪みが生じるはずです。 そこに気がつかないまま宗教や哲学を実践することのほうが怖い・・・・。どうでしょう? そんな歪みにも気がつかないまま実践するより、通院してる人のほうがよっぽど自分を理解してるんです。 だからこそ他人の痛みにも同苦できるんです。どんな宗教者・哲学者よりも。 数千年の間に人の基本は変わらずとも、環境は発達し科学は発展しました。その拠り所は人々の精神にあると思います。 ルールを知ってる人は健全でありたいから病院に通って、社会に参加できるプレーヤーとして復帰したいのです。 ルールを逸脱する連中に傷つけられた人も多かろうと思います。それでも健気に治療を望むのです。その治療に期待をしながら。。。。宗教・哲学がこのような人々に下支えを与えるのは大変良いことです。そうあってほしい。 以上 私の所見です。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私はこのカテの質問を見ていると医療の部分だけに全てをゆだねている人が多くいると感じています。 自分のそれは病気なのだから薬を飲んでいるのだという10年選手のいかに多いことか。 質問者さんの言うように医療、宗教、哲学のバランスが取れていればこの問題はあるいみ簡単に解決できるだろうと思います。 私がこのカテでこのような質問を立てなくてもいい日が来るといいのですが。

noname#235729
noname#235729
回答No.5

 ワシは鬱病は負の自己催眠の結果だと思っています。  人は習慣化したものを変えようとするとストレスを感じる生き物ですが、長く同じ環境に身を置くと「生き延びられた方法」として、今度はその生き方を維持しようとします。  それがたとえふさぎ込んだ生活であろうと、「生き延びられる」以上、防衛本能はそれが安全な生き方と判断し、それを変えようとするとストレスを感じるようになります。  毎日繰り返し使う言葉によって、そういった本能に刷り込んで変えていくことができるんですが、長くふさぎ込んだ生活を続けて肉体的にも変化が出た状態では、プラスの言葉など口にはできません。  その辺、宗教的なものだと、例えば聖書なんかはプラスに傾く言葉が多く書かれていますから、祈りをすることによって開放されることも考えられるでしょう。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >脳内異常は結果であって原因ではない これは私も同感です。 医学はここに焦点を当てすぎて安易に薬を処方しているように思います。 患者もこれをよりどころとして自分のそれは病気のせいなのだと思いたがるようです。 精神の問題は薬では解決しないという当たり前のことがなぜわからないのかと思います。

  • 23tomo-u
  • ベストアンサー率27% (433/1565)
回答No.4

今さら何をいってるんですか、 もうちょっと勉強しましょう。 宗教や哲学に頼って治るならそれも手です。 また心を科学的に捉えたものが「心理学」です。 心理学から心理療法が生まれました。 心の病を治すのは何も薬だけではないのは、 周知の事実です。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 精神疾患が増えてきているというのに周知の事実とはこれいかに

noname#166169
noname#166169
回答No.3

心理学や心理分析と精神医学を 混同していませんか? 別でしょう。 自分を理解と言うより 自分の中できちんとした 理屈を持つことが 強くなれることに近いのでは。 自分で治すことだとは 医者が全員思っている。 治療に過ぎないです。医者や学者は 完治に向かって研究を している過程であり 人間を総合的に捉えることが できないことをすでに知っている。 それはそうですね、と答えるしかないですね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 人間の心を、心理学、心理分析、精神医学・・・・とバラバラにとらえても恐らくこの問題は解決できないと思います。 むしろバラバラになったものをどう統合するのかという問題ではないでしょうか。

  • bekky1
  • ベストアンサー率31% (2252/7257)
回答No.2

【現代人はまるでゲームのルールを知らずに参加しているプレイヤーの様ではないでしょうか。】 ココが面白いので参加させてください。 ルールはね、あったんです、昔から。 まずは食べることに充足する。 動物的な充足を得ること。 そして、集団であることからのルールです。 価値の相違はあっても集団としてのヒエラルキーを集団がソレとして認知すること。 古くは、ヨーロッパの王権神授説とか、日本の士農工商とか。 現代なら、勝手に決めて、それでよしとしたことに思えるでしょう。 もちろん、反発する人もいる。 しかし、規範としてあるから、従うか、従わないかということをまず、デジタルで決められるのです。 いまは、民主主義ですから、基本、全員がフラットなんです。 だから、従うとするなら、誰もが一緒であるが前提で、「でも違うじゃないか、自分は不利だとおもう。」 ココから、与えられているものの最初の一歩に不幸感が勝手に立ち上がる。 神がいると、「神の前の平等」ですから、現世での不平等は、神の試練ですから、ソレはそれで 自分は選ばれてのエリートです。 ユダヤの困難がそれです。 ナチスの排除はありますが、もとから、ユダヤは選民思想をもってます。 うつ病は現代は’神’が、身分などもない、なので、、タダの不公平感から戻れない。 何で自分だけ・・・・と、オチこぼれ的のおもうわけです。 ヒマだからですね、いえ、仕事が忙しすぎて・・・も、もちろんありですが、バリエーションとしての日常が ヒマだから。 パターン化したことしか繰り返さない、密な時間をすごして、体を使っても、 ソレは、パターン化した過密なので、体として脳の細部を含めて体全体を使わないから、体がヒマなんです、結果。 【数千年前から人の基本は変わってはいません。 皆さんはどう考えるでしょうか。】 百姓といいますが、コレは、まさに生き残りをかけて、すべての仕事をする。 畑を耕すだけが仕事ではなく、人間的な能力のバリエーションすべてです、さらに、日本は気候的に忙しい。 自然と共生するということを再考するなら、生活規範が基本です。 それと、体が精神を支えるのであって、鍛えられない体の持ち主は当然、その一部である精神も脆弱です。 体を鍛えるのも、トレーニングというのは基本、つらいものです。 ソレを乗り越えて、さらに強くなる。 精神、神経系もそうです、いい意味での「慣れ」というのがトレーニングだとはおもいませんか?

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ヒマだからというのは一理あると思います。 戦争中は精神病院は空っぽになるという話を聞いたことがあります。 死ぬか生きるかの時にうつ病になる人は恐らくいないでしょう。 そういう意味でヒマ(うつ病になる余裕がある)のかもしれません。 通常は普段の生活による慣れが精神を鍛えるのでしょうが、人それぞれの固有の癖というか特性がありますので、そこにはまりすぎると精神疾患になるのでしょう。

  • poipoi_sa
  • ベストアンサー率52% (40/76)
回答No.1

なぜ認知療法を省かれたのでしょう? >自分自身の思考を自覚し修正する作業が必要 治療の目的もぴたりだと思いますが 実際に治療成果も上げています。 >宗教的と哲学的がうつ病を治す唯一の方法 一般的に認知療法の特性として、思考能力を求められます。 よって、患者自身の自分を省みる思考力が うつによって、または生来の、または性格上 得意ではない、及び問題がある場合、 主張される、思考を自覚する作業が非効率的であるようです。 だれもが、宗教、哲学に向いている訳でも、 それが唯一の方法でも無いと私は思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 歴史という時間の量からいえば哲学や宗教ははるかに古く、恐らく認知療法のそれをすべからく含んでいると思われます。 今後出てくる新しい手法も同様と思われますから宗教と哲学で良いのではと考えます。 また、これは向き不向きの問題ではなくどう生きるかの問題ですから必須項目とさえ言えるのではないかと思えます。

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