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戦後日本人への警告
日本の歴史を勉強しているのですが、 何が本当かわかりません。 特に戦後は、禁書になったりしたそうで、 歴史が分断されたように感じます。 そこで、戦後日本人への警告を発した、著名人は いたのでしょうか。 教えて下さい。 今わかっているのが、 江藤淳、小林秀雄等です。 宜しくお願いします。
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- TANUHACHI
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三度にわたる丁寧な御回答をいただきありがとうございます。 今までお話しをしていませんでしたが、僕は企業に勤めると同時に大学で歴史学の教育及び研究に携わる者でございます。こうした遣り取りを続けさせていただく間に、僕自身がなぜここまで学問に関わり続けるのかとの原点を改めて見直す機会に恵まれたことを感謝致します。 >「日本」という空間と時間のなかにあって「公と私」の関係が如何にあり、そしていかにもたれ合い捻れた関係を構築してきたかとの問題は、僕が企業勤務後に大学院の門を叩いた理由と全く同じ問題意識です。 「個人」が歴史的文脈の中で形として位置付けられたのは間違いなく明治時代以降のことです(夏目漱石『私の個人主義』)が典型です。イギリスに留学した漱石がそこで学んだものの一つに「自立した個人という人格」があります。近代(ヨーロッパを指します、アメリカには近代以前がありませんから)は須く市民革命との歴史体験を経て構築されてきましたが、日本にはそれがなかった。「上からの改革」としての明治維新はあったにせよ、それは形としての近代化であり本質的には近代以前の「家」や「ムラ」といった帰属先をその中に取り込みベースとして社会基盤を再構築したハリボテの近代社会ではなかったのか、との疑問は僕にもありました。そして現在でもその様な事象には出くわします。 >本来こう言う話しが居酒屋とかでもできたらいいのですが、なにせちょっと話すと頭がオカシイ呼ばわりされまして… 少しも「オカシイ」などとは申せません。すこしばかり「真剣に」社会を眺めようとすればこの様な素朴な疑問をお持ちになっても不自然ではないと思います。「青臭さ」は大人として失いたくない部分の一つです。 >私がなぜこういうことを考えているのかと言いますと、自分のアイデンティティ(自尊心)を求めているからです。どうも日本人なのに、日本が悪いとか嫌いとか思うと、自分も否定するような気がします。しかし、歴史が例え悪くても真摯に受け止め、今後繰り返さない必要があると思います。 こうした点には敬服致します。一時期「自虐史観」と声高に叫んでいた方々がいましたが、あの方々の論調からは「負の遺産」「なぜ過ちを犯したのか」との部分が欠落していました。「日本人だから正しい」「日本人だから過ちなど犯さない」というのはそれこそ勘違いともいえます。人間誰しも完璧な存在など古今東西の何処を見渡しても見つからないでしょう。もし完璧だったならば、それ以上に認識も進化せずそのままに留まることとなります。 >そのために正しい情報を探しています。ただ100%正しいものはないと思いますので、流れだけは感じたいと思っています。 この「正しい」との言葉がしばしば問題の根源となります。一体「何を以て」正しいといえるのでしょうか。歴史学ならばその基準は一つ。「史料」を読み解き、そこからうかがい知ることのできる事実をその時代および歴史の流れ全体の中に無理なく齟齬なく位置付ける作業と結実のみを「正しい」と呼びうることができると僕は考えます。そのためには対立軸としての反対側にある意見をキチンと聴き、評価すべきは評価する姿勢が何よりも肝要です。 >日本の大きな流れとしては、「公」のような気がします。 「公」は確かに大きなウェイトを占めます。けれどその「公」も誰によって「公」と意識されているのか、その属性(階層)によって異なります。時代劇に登場する「公儀」「公方」は幕府そして将軍を指し示しますが、それ以前の戦国時代やら室町時代では戦国大名を指したり、寺社勢力や一揆衆を指す場合もあります。誰から見ての公であるのか、が改めて問われる問題です。また「公」も「私」なくしては成り立ちません。その逆も然り。近代以前の日本では統治する主体が一つの権力措置として機能することから「国」と同義になりえますが、明治維新以後ではそれに法的根拠が付加されます。実質としての「国家」が前面に出てくる形です。「国=公」の図式です。 ご存知だと思いますが、私の現時点で考えている問題点は、 ・ 「個人主義」→利己主義とは異なり、相手と相手の主張も尊重する。 ・ 「自由」→英語の“Liberty”と“Freedom”では少しばかりニュアンスが異なります。 ・「家族」→社会集団としては最小単位。しかしそうした中にあっても個人は最大限尊重されるべきとも考えます。とても難しい問題です。心情論か冷静な議論か。 ・「共同体」→帰属集団もしくは組織として総称できると考えます。その度合いや拘束力が強いか弱いかは個体差があり、その裏付けは時として「法(慣習法を含む)に基づく契約」などがありますが、近年ではドイツ語のゲゼルシャフトおよびゲマインシャフトとは少し異なる「コミュニティ」とそのあり方に焦点があたってもいます(マイケル・サンデルやジョン・ロールの考察)。日本の前近代社会の構造として「身分」の問題がありますが、この身分を論じる上で「アジールとしての境界域」が顔を覗かせます。閉ざされた空間を示すアジールには独自の論理のみが通用し「公のるーるとしての法」は通用しないとの現象が散見されます。これを公と私の関係でどの様に把握するか、中々興味の尽きないところです。 ・「憲法」→現行憲法はその「理念」をヨーロッパ(殊にフランスの人権思想論)に求めていますので「個人」を対象として扱う。組織の一員であっても「個人」として守られるべき存在と位置付けています。これは1945年以前との明確な違いです。 ・「民法」→その前提として近代以前の「家」をイメージしています。たとえば「相続」の問題や「扶助」の問題があります。「個人」を前提とする憲法とは相容れない要素が多分に含まれ議論の余地があるところです。個人的には旧態依然の温床であるとも考えます。 ・「近代化」→一つの基準なり形をそのまま他に強引に当て嵌めようとすると失敗します。イラクやアフガンそして「アラブの春」が卑近な事例です。その土地土地により異なる文化風土や経済発展の段階を踏まえねば歪んだ形となり何れは暴発する危険性もあります。 ・「グローバル化」→現在、最大の関心が寄せられている問題の一つです。グローバリゼーションとグローバルスタンダードには「デ・ファクトスタンダードとしてのアメリカン・スタンダード」との文言が附されているケースが多いのですが、それをそのまま適用すると「近代化」と同じ道のりを辿る結果となっています。 ・「拝金主義」→マイケル・サンデルの近著『あなた、それをお金で買いますか?』が正しくこのテーマを扱っています。市場原理に任せた世界のあり方がもたらす現実に対し、私達はどう考えるか、招来の世界をどうデザインしていくかが問われています。少なくとも僕はお金に任せて全てを解決することができるとは考えていません。お金の持つ魔力として、「与える側と与えられる側」の間に支配や隷属の関係を生み出しかねない。それはどう見ても正常であるとはいえない側面も多分にある。もしお金で全てを買うことが可能ならば、人間の意識や価値観そして社会の良識や道徳までも商品になりかねない。 こんな床屋政談や銭湯での遣り取りが居酒屋でごく自然に行われれば、日本の社会も少しはまともになるでしょうね。僕が学生時代だった頃、アルバイトして週末は居酒屋で様々な世間の出来事に話の花を咲かせたり、喫茶店でコーヒーカップに煙草の灰が落ちるほどにビンビンと議論したりなどは自然な光景で、今でも懐かしく思い出され、その当時の友人達はかけがえのない財産ともなっています。 >どこから手を付けていいのか… ご自身の生活実態に即して考えてみては如何でしょうか。日々伝えられるニュースや投書を眼にしていますと、実態とはかけ離れた所に身を置く「公」の姿が浮かんできます。何のための公なのか、その公を自らのものとするには何が求められそこに如何に参画していくか、など「公共」の一部として自覚することが日本の近代化では欠落していたのではなかろうかとも考えます。 共にじっくりと勉強していきましょうね、働く中で得た智恵は学窓で学ぶ知識よりも説得力のあることがたたあります。
- TANUHACHI
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コメントありがとうございました。 「近代化がまずかったのかしれない」そして「日本の2000年の歴史を見ると、戦後あまりにリベラルと言いますか、行き過ぎているような気がしています」に関して補足的な説明をさせていただきます。 「近代化」をごく普通に使うならば「西洋化」とほぼ同義になります。日本では幕末維新の開国、およびそれに伴う「近代国家の成立過程」を指し示す学術用語(テクニカル・ターム)を指します。そしてこの「近代化の過程」をどう評価するかによって幾つかの考え方があることとなります。 その中の一つの事例が、丸山眞男や藤田省三にみられる「天皇制国家の原理と心理」です。これは日本独自の近代化を説明する時に有効な表現です。「近代化」が一般的に市民革命によって招来された歴史的動向である部分、これが表向きの日本の近代化ですが、そこに西洋社会との根本的な相違も見られます。西洋社会では「王政」を否定した上に新たな枠組みが構築されますが、日本では形としての社会構造の内部に前近代の残滓(丸山はこれを古層と表現しています。)を滑り込ませる形で成り立っていたと評価しています。 簡単な表現にすれば「お上」の対極に「我ら庶民」がいるとの形であり、それはそのまま前近代の構造を内部に取り込んだ形です。 そしてその原理としての国家神道であるとか「国家の歴史(お上の歴史)」を正当化するために明治政府は「国史編纂事業」に乗り出した形です。つまり「国家としてのイデオロギー」がそのまま「天皇制を正当化するためのイデオロギー」に変質していった形です。 この様に記すと回答者様は僕のスタンスを左よりと考える可能性も多分にあります。けれど「歴史学」は決してイデオロギーに基づく学問ではありません。歴史学が依って立つべきは「歴史事実」を史料に即して正当に評価するだけであって、全てはその史料を「どう読み」その結果として導き出される「歴史事実」をトータルな時代像の中に位置付けるかが問われる学問です。そのための「歴史観」であって、亀井勝一郎のように「人間の歴史が描かれていない」との評価を下す根拠が不明確では歴史学として成り立ち得ない、との見解が歴史学の立場です。 次いで >日本の2000年の歴史を見ると、戦後あまりにリベラルと言いますか、行き過ぎているような気がしています この問題ですが、亀井勝一郎と同様「リベラル」の内容が表記されていない部分が問題と考えられます。 奈良平安期の六国史にはじまり、日本にも史学史の流れに位置付けられる書物は数多くありますが、『愚管抄』に見られる「武者の世になりにけり」とする貴族社会から武家社会へと移り変わる様子を綴るものもあれば、南北朝時代の『神皇正統記』のように天皇の歴史を書くことが日本の歴史をかくことであると評価する立場もあります。江戸時代になれば新井白石の『読史余論』に見られる「天下九変五変説」や伊達千広の『大勢三転考』として歴史が三度変わったなどの見解もあります。ただ一つだけ「史書」として重要であるべき点が「変化を書き留める」ことであり、それが「一貫して変わらない」とするのは物語としての立場と言わざるを得ません。 少なくとも僕個人としては「リベラルが過ぎる」とは思わない。むしろ「歴史の歯車を逆転させよう」として「正しいなどの抽象的な言葉で誤魔化す」流れの方に僕は危惧を感じます。 「近代」を別な表現にするならば「自らの眼でみて」「自ら判断し」「自ら行動する」成熟した市民によって形成される社会のあり方であり、個人のオピニオンを誰の制約も受けずに表現できる社会を意味する。だから様々な意見があってもそれは一向に差し障りのないことでもある。ところが保守の立場はこれを嫌う。一つの原理に統合されたもの以外は認めないとの偏狭さに支えられている。ここが最大の問題であり、それ故に市民権を得る段階に至っていないとも言えるでしょう。自民党の中にいるリベラルな考え方の方と民主党の中にいるタカ派の方の議論を聴いていると、どちらがどちらであるか解らなくなってくる。一層のことタカ派はタカ派だけで政治団体を作ればすっきりすることになるでしょう。けれどもそこに中曽根さんなどは決して参加しないとも思う。なぜなら中曽根さんは「相手の意見を必ず聴く」との点でそうした方々とは一線を画している。こうした部分と大阪の跳ね上がり坊やは本質的に違う。 【追記】 「日本」を外から評価している文献ならば、過去に様々な蓄積があります。 ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』や『昭和-戦争と平和の日本』などからお読みになってはいかがでしょう。あるいは「社会科学分野」を飛び越えての『ナショナリズムの由来』大澤真幸あたりからお読みになるのも良いでしょう。 こうした分野を学ばれるのでしたら大学によりけりですが文学部の歴史学科では少し不足しているかもしれません。社会学もしくは法学部の政治学科あたりが妥当です。
お礼
回答者様 回答ありがとうございます。 本来こう言う話しが居酒屋とかでもできたらいいのですが、 なにせちょっと話すと頭がオカシイ呼ばわりされまして… 私がなぜこういうことを考えているのかと言いますと、 自分のアイデンティティ(自尊心)を求めているからです。 どうも日本人なのに、日本が悪いとか嫌いとか思うと、 自分も否定するような気がします。 しかし、歴史が例え悪くても真摯に受け止め、 今後繰り返さない必要があると思います。 そのために正しい情報を探しています。 ただ100%正しいものはないと思いますので、 流れだけは感じたいと思っています。 日本の大きな流れとしては、「公」 のような気がします。 ご存知だと思いますが、 私の現時点で考えている問題点は、 個人主義 自由 家族 共同体 憲法 民法 近代化 グローバル化 拝金主義などです。 どこから手を付けていいのか…
- TANUHACHI
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逆の視点からお話しします。 戦後歴史学において「昭和史論争」と呼ばれる「歴史をどう書くか」に関する論争がありました。元々は遠山茂樹・藤原彰・今井清一の共編による『昭和史』(1959年岩波書店刊)の記述のあり方を巡る「歴史評価」の問題に端を発します。 歴史学の成果として結実した著作に対し、文芸評論家の亀井勝一郎がケチを着けた形です。彼は「感性」としては歴史をとらえたが、学としての歴史学を理解するには全く無知蒙昧としか云いようがありません。「人間不在」とはいうものの「人間が社会的生き物として」歴史を動かしてきたとの範疇を彼は持ち合わせていない。この流れに連なる人物がご指摘の江藤淳であり小林秀雄です。 「歴史」が人間の社会的営みの蓄積とその足跡であるとの理解に視座を置くのが「学問としての『歴史学』」のスタイルであり、これが近代歴史学のスタンダードです。 日本でこうしたスタイルを採るのが丸山眞男であり藤田省三や萩原延壽そして福田歓一や石田雄といった政治学者や大塚久雄や高島善哉といった経済学者が代表格です。歴史学の分野ならば石母田正・黒田俊雄・永原慶二・佐藤進一・石井進・網野善彦などの中世史、竹内理三や吉田孝・早川庄八・直木孝次郎・北山茂夫といった先学そして現在ならば成田龍一がいます。 文学分野で歴史を直視していると個人的に理解出来るのは永井路子や杉本苑子そして城山三郎であり、男の作家は英雄ばかりに目を奪われているとの点で亀井やら江藤の呪縛から逃れることができていません。 こうした意味でいえば、戦後日本人に対して警告を発することが出来ている人物の象徴が大江健三郎や寺島実郎そして筑紫哲也であり後藤田正晴や野中務といった戦前を知る人物達だったと考えます。残念なことに筑紫さんも後藤田さんも鬼籍の方となってしまいました。 日本の歴史を学ばれているとのことですので、「史学史」の視点で「日本の歴史をに日本人はどう描いてきたか」を社会との関わりで克明に綴っている書物をご紹介させていただきます。『20世紀日本の歴史学』永原慶二著 吉川弘文館刊です。亀井勝一郎などのスタンスが歴史学にとっては如何に浅薄なものであるのかが地道な検証の元に明らかにされています。
補足
日本の近代化がまずかったのかなとも思います。
- blackhill
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>>特に戦後は、禁書になったりしたそうで、 >>歴史が分断されたように感じます。 歴史を学んでいる者が、こんな曖昧な言い方をしてもいいのかな。 お求めは保守的文化人のリストでしょうか。それなら福田恒存が典型でしょう。 最近では、竹内洋『革新幻想の戦後史』(中央公論社)が吉野作造賞を受賞した話題作です。もっとも歴史を勉強中なら、もちろんご承知でしょう。 逆に、上丸洋一『諸君! 正論の研究』(岩波)は、保守論壇の変貌を綿密に追及している点で、資料的にも貴重な資料です。 余計なおせっかいですが、江藤淳や小林秀雄しか挙げられないようでは、歴史を勉強しているとはいえません。まして、いわゆる文化人の著作だけ読んで、なにが本当かを知ることは不可能です。独学では必要なスキルが身につかないので、聴講生になるなど入門レベルの訓練を受けることをお勧めします。
お礼
回答ありがとうございます。 すみません曖昧で。 確かにどこか受講する必要があると感じています。 普通の人が先生でしたらですが。 ご指摘の保守的文化人とういうのはその通りで、 日本の2000年の歴史を見ると、戦後あまりにリベラルと言いますか、 行き過ぎているような気がしています。 左はほっといても、情報がありますので、 保守的な方も勉強しなければと思っています。
補足
外国の本も少しづつ読んでいます。 バーク、トックビル、オルテガ等
- あずき なな(@azuki-7)
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徳富蘇峰は?
お礼
回答ありがとうございます。 ガーネットクロウがお好きなんでしょうか。 徳富蘇峰を検索しましたが、 なかなか深くて今から勉強します。 ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。 真摯な対応と、深い知識に感銘を受けております。 上記の回答にほぼ同意致します。 かなり先に行かれているので私の文章で伝わればいいのですが… 今後こういった話もできなくなるのではないかと 危惧しております。 また概念になってしまいますが、 近代化により、薄味から濃い味に変化してしまったんではないかと思っています。 お茶漬けを毎日食べていたのに、ステーキが出てきてその味に慣れてしまったような。 何とかして「なつかしい」「情緒」(和歌)などを残したいのですが、 そうとう難しいです。 追加の問題点がありますので、 教えて頂ければと思います。 消費者至上主義 常用漢字の変更 デフレ 男女雇用機会均等法 マスコミ 教育 震災大国 資源不足