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生きていても生きていなくても同じという見地
この世に生きていてもこの世に生きていなくても同じという見地があるとするならばそれはどこにありますか。 見地といっているのでそこに意識が存在していること自体が矛盾してはいますが。 (まあこの質問も失敗するでしょう。)
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- sheep67
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熟睡から目覚めた直後の、「ここはどこ、わたしはだれ?」という、それすら自覚する前の一瞬、というのはどうかなーと思ったのだけど・・・
- amaguappa
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的確な応答だと思います。 現前性が無限のほうからフィードパックするのと同様に、 「他者」という、可塑的で経過的な関係性において結ばれる像が 確固としたファンタジーを獲得して自己像の措定へフィードパックするのです。 それがまとう諸々の属性に満ちたリアリティに比べ、 「世界」において自己は泡沫のようであると。 自己疎外という問題は、 ヘーゲルにおいてはいくぶん自己完結的な葛藤を演じる主体性のうちに論じられ、 マルクスにおいては、社会的存在としての人間の属性を資本主義がそこなうものとして描かれました。
お礼
>「世界」において自己は泡沫のようである 衝撃の事実を皆いつも携えているんですね。 しかも逃れられない。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
ずーっと先の時間で、まあ遠近法の消失点の概念のように遠い、 永劫だとか永遠だとか無限だとかの概念が描き出すあたり。 まあ振り返ってみればこっちなんざあってもなくても「ほぼ」同じだろうと、遠近の関係の遠さゆえに関係の薄さがきわだってくる。すると、永劫や永遠や無限のほうを固く実在のように錯覚し、関係の薄いこっちの実在性が希薄になる。 そして、今の時間は、確率論的に存在と非在の微々たる分け目なんだというファンタジーの本末転倒が起こって、生きていても生きていなくても同じというような見地が浮かぶのでしょう。
お礼
自分で自分と思っている概念も他者から見た自分の概念とは随分違っていそうに思えます。 他の他者からの場合も然りです。 つまり基本あやふやで合っているかどうかなど随分怪しい作り物像であることがわかります。 ということは自分の中にある自分像も同様に随分とあやふやな物である可能性も多く感じられてくるのでした。
- miko-desi
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胎内記憶、誕生前記憶は子供にとって当たり前のようにあるようです。 しかしそれ(秘密)を話すと忘れてしまうもののようです。 生きていながら生きてなかった記憶を呼び出せるチャンスは一度きりかも。 ビデオ等で証拠として記録しておきたいですね。 胎内記憶と誕生記憶 http://www.30ans.com/memory/backnumber/200602.html 胎内記憶Q&A http://www.30ans.com/memory/backnumber/201203.html
お礼
不思議ですね。 >しかしそれ(秘密)を話すと忘れてしまうもののよう
- miko-desi
- ベストアンサー率19% (69/352)
近くに33未満のお子さんがいれば 「お母さんのお腹に居る前はどうしてた?」 と訪ねてみるといいかもしれません。 4歳にもなると胎内記憶はなくなるそうです。 安産であったより難産であった子供の方が記憶が残りやすい というデーターもあります。 そういえば大概の人の自分の一番古い記憶も4歳ぐらいからが多いですね。 ちなみに私の子供が2歳ぐらいの時に 「どこからお母さんのお腹に入ったの?」と聞いてみたときとき 「お耳から入った」といい、 お腹の中はどうだった?どうしてた?と聞くと 「黒い人(多分胎盤のこと)がいてちょっと怖かった。 ピンクと緑の紐(臍帯?)があって遊んでた、 体中にクリーム(体胎?)がついてた。 喉が渇いたらお湯(羊水)を飲んでた。 外に出るときピカピカのハサミが見えた」と教えてくれました。 なんか凄いな! 聴覚は心停止しても最後まで感知するそうです。 生まれる前は意識が死んでいたので、 音を捉えることは自然と別れた自分としての意識が芽生えた という証拠にもになりそうじゃないですかね。 本質を固有の意識、感覚としても存在は本質に先立つ。
お礼
自分をその他から確立できてない極幼少期のそれですね。
生きていること生きていないこととを物質のレベルで区別することは難しいと思います。いわゆる分子生物学の研究者で生きているということを明確に定義できる人は少ないのではないかと想像します。つまり現在の生物学の見地そのものではないかと思いました。
お礼
生きているということを明確に定義できる人は少なさそうですね。
- Mokuzo100nenn
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>それはどこにありますか。 死に関する無知、認識不足にあります。
お礼
ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
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意識=宇宙である以上、「生きていなくても同じ」という 「見地」は、相対性を排除した絶対化=不確定性原理に よる存在性の確定化における無限不確定性への発散 =絶対無です。 量子論的世界像において、有限な存在性は観測される 事によって生じています。 認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 全ての存在は、量子性=確率波動性に基づいており、 無限につめ込むと存在確率の山が平ら(無限不確定性 と等価)になり、無と等しくなるのです。 その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば 相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互 作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性) としての宇宙を認識するのです。 自我仮説(記憶=時間的流れ=時間軸)に対して相補 分化する時空仮説(予測=空間的広がり=空間軸)に おける無の射影(「何かあるんじゃないの?」という現象的 疑問に対する「本質的には無いんだけどね」)=他我性 こそが宇宙(無の無限の闇に対する自我の射影)。 全ては、あなたが存在するための必要なのです(ただし、 物理的根源にまで遡った「必要」なので、現象(肉体)的 “自我”の思い通りにはならない)。
お礼
ハイゼンベルクの不確定性原理ですか?
>この世に生きていてもこの世に生きていなくても同じという見地があるとするならばそれはどこにありますか 誰が?という補足を要求します。見地とはある特定できない主体(第三者)からの視線を言っているのなら、その人以外の生死はその人の見地には何ら影響を与えないだろうという見方ができます。
お礼
自分から見て自分をと言う意味で質問しました。
- seo_yashiro
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誰からも何からも認知されない存在、場所があるとすればそこなんじゃない?
お礼
しかも生粋でですね。
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お礼
そうした瞬間がそれに当たるであろうと。 おぼろげな感覚。 自分がいることも忘れ自覚していない瞬間ですかな。 そうした時間は自覚できた後から見ると貴重ですね。 幸せな時間かも。 忘我というか。