反幕と倒幕
薩摩はどの時点で、倒幕を考えたか?というのは、維新史のもっとも重要な問題だと思いますが、このことを論じた学者は見つかりません。
黒船が来て、日本全体が一つになって西洋に対抗しなければならない、と考えた人々は、それまでの幕藩体制のままではだめだと考えました。
全国の大名が共同で日本防衛を考える体制に変える必要がある、と考えて一斉に反幕運動を開始しましたが、その運動は結局「大政奉還」として、まとまりました。
この間の動きは「反幕運動」でした。
維新後現在に至るまでの日本近代史は、おのずと維新を正当化する史観になりますので、これらの反幕運動をすべて討幕運動だったように考えて、反幕と倒幕の区別をしないできました。
反幕と倒幕を区別して考えると、反幕の意味は解るが、倒幕の必要性はわからない、という議論に発展するからです。
ちなみに私は日本の近代化のためには、大政奉還で十分だったのであって、倒幕は必要の無い、権力闘争に過ぎなかった、という見方をしています。
こういう事情があって、質問のような問題意識の研究は今まで存在しないので、以下は私の独創になります。
さてご質問の倒幕(権力奪取)という思想はどこから来たのか?と言う問題です。
長州にあっては、関が原以来、反徳川の気持ちがあったと言われており吉田松陰なども早くから倒幕を言っていたようです。
これは戦国時代の発想で、長州が天下を取る、というような野望だったと想像できます。
しかし長州藩内での倒幕思想は途中で、徹底的に弾圧されましたから、それが藩論となったのは、大政奉還(公武合体)が成ったその直後ではないか?と思われます。
これは幕府による長州征伐に対する反感が影響した点もあると思われます。
一方薩摩の藩論が反幕から倒幕に切り替わったのも同じ時期と考えられます。
これは権力に目がくらんだ、西郷、大久保たちと長州の桂たち、公家の岩倉、三条たちの共同謀議と考えられます。
しかしこの謀略は、きわめて少数の人間によって行われたもので、島津久光は後から、西郷たちに騙された!と怒っていたそうです。
阪本竜馬をリーダーとした土佐藩はあくまでも反幕の範囲に留まるつもりだったのですが、薩長の勢いに飲まれてしまいました。
あくまでも倒幕に反対した竜馬は、そのために暗殺されてしまいました。
明治維新は成功したクーデターだった、ということができます。
そして倒幕クーデターが思いつかれたのは、大政奉還のほんの一瞬のときだと考えます。
日本の近代化は、徳川慶喜のままでも十分可能だった、権力の移行は必要なかった、と私は考えています。
このクーデターが意外に簡単に成功したので、同じ柳の下のどじょうをねらう人が、同じ藩から続出しました。
佐賀の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争などがそれです。
このとき土佐藩だけは乱が起きませんでしたが、その代わりに板垣退助は自由民権運動によって反体制を叫びました。
そしてこのクーデターの伝統は、石原莞爾の満州謀略、2,26事件などに受け継がれていきます。
お礼
回答いただいて有難うございます。 私はあなたの仰るとおりかなと思います。 背景としては、とても良く理解出来ます。 私は誰がボタンを押したのか? それを聞きたいと思いました。 難しい質問だったようです。 でも歴史をしっかり捉えていらっしゃる。 感心いたしました。 有難うございました。