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親の介護と親子の確執
私は兄、私、妹の3人兄弟です。 自己中心的で支配的な親の元、精神的に悲惨な子供時代を過ごしてきました。 世間を否定しているのに体裁ばかり気にする親で、世間体的には立派な親に出来のいい子供達で通ってきました。 しかし私の事は何事も気に入らず、常に否定的で私の立場になって物事を考えたり私のために何かをするということがほとんどありませんでした。 いつも悪いのは私。それですべてが片付きます。 そんな私でしたが、まわりの人達に恵まれ結婚後もある程度余裕のある生活がおくれ子供達も問題なくいい子に育ってくれています。 それでも両親にとって私は問題のある子という位置づけです。 兄と妹はいろいろな問題を起こし親に迷惑も何回もかけているのですがそのことはスルー状態。 親に甘えたい。認めてもらいたい。そんな気持ちを持ち続けて生きてきましたがそんな事はもう無理だから私は私の人生を生きていこうと親と距離をとって生活してきました。 ところが、母が倒れてしまい今は入院中で父は一人で何もできず・・・ 兄も妹も遠方にいるので両方の世話を私がやっています。 しかし、世話をするのは当たり前で感謝もなくしかも私のやり方が気に食わない様子 相続で家などは兄にやるといっています。 私はそんな事に関わらず後で後悔のないように自分のために両親の世話をしようと思う気持ちでいますが、時々なんともやりきれなくなります。 多少立場が逆転したのではとチクチクと過去の事を私が訴えるのですが、両親は話題をすぐ変えるなど一切耳を傾けようとはしません。 私が病室に行っても嬉しそうな顔をする事もなく淡々と洗濯などを持ってってと言われます。 じゃあもう世話をしなければ・・・とおっしゃるかもしれないですがそれが出来ないから苦しいんです。 あんなひどい親と思いながら、そんな親だけど親だから仕方ないと思う気持ち。 だけど現実接してても割り切れない 距離を取りたくてもできず苦痛の毎日です。 どなたか いいアドバイスがありましたらお願いいたします。
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- tyghujk10akwm
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私は長女として家族の面倒を見るように育てられました。母は家事全般が苦手で、片付けと料理が特にできません。なので、そのおかげで家の中は争いばかりでした。母が悪いわけではなく、きっと家族全員がそれぞれの問題を抱えていたにすぎなかったのでしょうが、子供には辛かった。逃げ場がなく、自分のことはいつも後回し。そのうち、友達や好きな人や、外界との接点よりも、家族を優先している自分がいた。家族以外の人と仲良くしたくても、心も体も疲弊していて、自分のために孤立を選んでいました。余分なエネルギーを消費しないために。あるいは余分なエネルギーを消費しなかったために、問題を抱え込んでしまったのかもしれない。呪縛、解放と呪縛の間で揺れていた私は、そう感じずにはいられません。 そんな私は人の世話を焼くのが趣味だと思われています。趣味ではなく、出来ない人は仕方ない、出来る人がやるしかない、というルールが自分の中に根強いのだと思います。人の顔色ばかり気になる、のではなく、相手が何を欲しているのか、何が辛いのか、自分なりに同調してしまうからなのではないかと思うのが最近気がついたことです。一度気がついてしまうと、気づかなかったことにできないから苦しむのだということに。でも、それって自分勝手なことかもしれないと時々気づきます。相手は何も自分に面倒見てもらいたいなんて一言も言っていないかもしれない、あるいは言っても、本当はできるのに安易に甘えさせて、自立させる場を奪っているのではないかと。 多分、私たちのような人にとって、一番辛いのは身内(色んな意味での)の言葉です。色々やって感謝してほしいのに、されないから辛いのかと思ったら違いました。そうではなく、勝手に私という入れ物を作り、勝手に私を形作り、勝手に私を判断し、勝手に見下し、そのくせ必要になると何もなかった顔で頼みごとをすることに、そしてそれに安易に傷ついて、傷ついた見苦しい恥は出せず、馬鹿馬鹿しいほど繊細な心を持っていたに過ぎないことを。あるいは、単純に頼まれて感謝されるのが嬉しいという、忠犬の心。思い返して見て下さい。あなたはこれらを否定できますか?求められて嫌だという事が言えず、困っている人を見捨てることができないのは、助けられた後のほっとしたあの気持ちを味わいたいからではないですか。私たちに必要な本当に必要な人にはされるべきことと、そうではないことの区別ではないでしょうか。実際はどうであれ、私たちがしていたのはただのその場しのぎの愛ではなかったのではないでしょうか。 話は変わりますが、下の兄弟にとって、私は可愛がられているように映るようです。特別愛された実感もなく、軽い育児放棄やや多少の言葉暴力や体罰、静かな虐待(子供が拒否できない親からの愚痴を昼夜、長期間に渡り、延々聞かされる)があったのに。それでも特別に映ったということはある意味、下の兄弟とは異なった愛情を受けたのだと思います。私にとっては辛いものだったのに。だからといって、私がこうなったのは家族のせいではない。私がこうなったのは、私自身がそう選んだから、選んでしまった過程だと、それは安易な自己憐憫ではなく、悟りほどまではいかない未熟な心なのにそれが動かせられない事だと気づいている。あなたは違いますか?選んでいってしまったことが今になったのではないかと、薄々気づいてはいないですか?例え、そう言い切れなくても、心の片隅で本当はもっと違う道があったのではないかと思うことはなかったですか。 きっと私たちの問題は、問題を深刻にし、抱えこむことなのではないでしょうか。小さな問題の共有を私たちは怠って、それが大きく複雑に成長しさせてしまったのではないかと思うのです。コミュニケーション一つとっても、言い方一つ、接し方一つで、受けての世界は180度違うものになるのを、些細な場でも、私たちは他者によって知っています。ただ私たち知っているほどに、それを実行しきれているのでしょうか。不器用な私たちは内面の多様性を、伸びやかに表現できたでしょうか。それは単純な喜怒哀楽ではなく、思考の柔軟性としてプレゼンできたでしょうか。 私たちは愛情を持って家族に接してきました。迷惑と思うことも確かにあった、でも捨てきれない情が、愛という言葉で簡単に片付けられないことをそこに色んな感情が混ざり合っていることを知っている。そんな色んな感情に色をつける区別するのを怖がっているのだと。それはもちろん、自分と相手、関わる全ての人の感情。それだけ、私たちは余計なものを背負いこみすぎるのです。本当の気持ちなんて誰にも分からない。今は青でも、数分後には赤になる、数年後には黄色になって、全てが終わる時は無色になるかもしれない。それを決め付けることは誰にもできない。自分自身でさえも。 そして素直な愛情をそのまま表現してこれたのだろうか疑問に感じることがあります。特にトラウマ相手なら、のびのびしてはいられないし、手放しに気持ちをさせだせない抵抗を感じませんか。 本当に家族が欲しいのは、面倒を見てもらうことなのだろうか?本当に欲しいのは、もっと心がのびのびしてくつろげて、ほっとできる瞬間ではないのかと。赤ちゃんのような気持ちで、心を軽くさせて、遺恨もフリーにして、真っ白なマインドで、ずっとそうありたいけれど、そうはできない。だから心に鎧ができる。その鎧が壁になる。見えない壁は、自分にとってトラウマの人、家族の前に築かれる。壁が築かれるから、相手も身構える。苦手意識が警戒として相手に伝わって、相手が警戒する。だから世話されている側も、いいことをされている気がしない。悪循環。でも、そこまでくると壁がなかった頃に戻れない。壁がなかった自分を思い出すことができない。さらに悪循環。これを断ち切るには、自分の気持ちに他人の気持ちに振り回されすぎないでいるしかないのではないでしょうか。 問題に対する全ての情報を共有し、客観的に具体的に判断できるよう箇条書きして、あなたはまず一人で分析してみてください。そこにあぶりだされるべきことに嘘があってはいけない。介護に掛かる費用のこと、交通費、時間、これもある意味親からの遺産なのです。これを正直に記載しましょう。今までの分も含めて、実際請求するかどうかは別にして。これはあなた自身のもやもやを晴らすことでもあります。 そして今からできることとして、適当に思いつくワード「森、海、空、青い、黒い、真っ白」など適当に紙に書き、その隣合うワードによって連想するワードを書き込む(例:森、海→富士山 海、空→空海 空、青い→運動会 青い、黒い→絵の具 黒い、真っ白→洗濯物など)これをワードが一つになるまで延々と続けます。何も考えず、適当に思いついた言葉を思いついたまま書き込みます。ただ始める前にテーマだけ決めておきます。例えば「1年後とか」「介護について」とか決めるだけ、あとは思いつくワードを書き込めるだけ書き込むだけで、自分が選びたい道が何となく導き出せます。自分を解放できるようにすっきりしてきます。それでいて背筋が自然と伸びてくるような感じでもあります。 赤ちゃんのような気持ちで、心を軽くさせて、遺恨フリーして、真っ白なマインドでいつづけられることはできませんが、それでも思考を整理整頓し、それに近いことはできます。心は整理しなくてもいいのです。整理すべきなのは、思考。そしてふっと肩の力が抜けるはずです。できることはするけれど、できないことはお願いできる愛が持てられますように。あなたが一人頑張ることは、あなたの兄弟に介護の場を、考え迷い葛藤をする場を奪うことでもあるのです。何も目の前の辛さが、本当の辛さとは限らない。目の前の辛さがあったからこそ、乗り越えられるものができることをあなたは知っているはず。それを育む場をあなたは奪ってもいいのでしょうか。 問題を共有する自由や権利をご兄弟にも与えてあげてください。
- nonkiyoko
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嫌ならやめるべきです。 親だから仕方無いという事はありません。他の兄妹もいることですしいくら遠方でもお金出せば何とかなるものです。 兄貴を家の相続人にするといているのでしょう。これチャンスです。引きましょう。 > 私はそんな事に関わらず後で後悔のないように自分のために両親の > 世話をしようと思う気持ちでいますが、時々なんともやりきれなくなります。 感謝もされないことやりたくもないし、世間に非人間と言われるような事したくないしという、それは単なる無理というものです。 やりたくないのが正直な気持ちでしょう。その気持ちに素直でないのがあなたの「偽善者の気持」です。世間体のいい偽善者をしたいならそれを通せば良いですし、別に悩む事はないです。 あなたの親が意見を変えてあなたに感謝するようになることはありません。もし親父さんが事態を少しでも認識していても、自分の一生のものの見方の敗北をみとめることになりますから、自分の一生の人生の敗北を認めるなど、今更あり得ないでしょう。 物事を正面から認められない弱い性格は親父さんもあなたもそっくり。遺伝ですね。 腹決めてやり通すか。もちろん誰にも感謝されないし、馬鹿にされるだけです。キット事態が理解出来る年頃になればお子様方からもあなたは軽蔑されるでしょうけど、お人好しを通すのも人生でしょう。イワンの馬鹿ですよね。それだけの強さがありますか?
今こそ、幼い頃の仕返しをする時だと思いますが・・・。
お礼
そう思う時もあります。 でも、出来なくて悩んでいます。 親と一緒にいると、緊張してドット疲れてしまうんです。 それだけマインドコントロールが強いんだと思います。 恐ろしいことです。 でも、一歩離れて眺めてみると、親もあんなにかわいがった兄にも全く世話してもらえず 妹も離れてしまっていて私が仕返しするまでもなく十分不幸かなと思っています。 やはりすべては自分に返ってくるんだと・・・。
親子の縁というのは不思議なものですね。つい前世から続く関係とかその手のことを考えたくなるほど、繋がりは複雑で一言で思いを語れないものだと思います。 娘と母の親子の関係というのも、お互いの気持ちが深く絡み合っていそうで他人のうかがい知るところではなさそうですね。 人間関係は適度な距離があったほうが、相互に遠慮が生まれてうまくいくことが多いです。 実の親子は一緒にいるだけでストレスが貯まるということがあります。 我が家では、病院の診察の為に3か月に一度、妻の母が上京してきます。ほんの10日ほどの期間でも、妻はストレスが貯まるといいます。 親子は、夫婦や友人関係と異なり「気があうから親しくなった関係」ではなく気が合わなくても出来上がってしまった関係という点に問題があるのですね。親子だから仲がよくて当たり前、親子だから気持ちが通じてあたりまえ・・・そう考えると無理が生じます。 むしろ「義理・義務・責任」と割り切ってやっていかないと続かないところも多いのではないでしょうか。とはいえ、人間関係ですからどこかで誰かが見ています。相手も口にださずとも感謝の気持ちがいつかは形に現れるものではないでしょうか。 親孝行はしてもらうほうは幸せなんで、してもらって当たり前と思っている。それは子供が「親孝行したがっている」と勘違いしているからかもしれません。自分が子供にしてきたことは無心の愛情と信じて疑わないから、子供が自分い尽くすことも子供は自発的なものであってほしいと無意識に願っているのでしょう。だから、ありがとうなんて言ったら他人行儀で気持ちが悪い。ただしてもらってそのことに満足していたいのです。 さて、親孝行、したいときには親は無し さればとて、墓に布団は着せられず 私の両親は私が45歳~50歳の間にともになくなりました。 今、たまに来る妻の両親を見ていてもうすこしマシな親孝行をしてあげられたら よかったと思います。親が子供に求める時期は5年~10年くらい。その先10年すれば今度は自分が人に面倒をみてもらう時期になります。 今は大変でしょうが気持ちを切り替えてお世話をしてあげてください。 ご主人も家事を少し手伝ってもらうなど、相談なさってはいかがでしょう。 そしてなにより、質問者さまが頑張っておられる姿は、お子様を含めた周囲の人が見ています。人のお世話をすることは、結局は自分に返ってくるのだと思います。子供に面倒をみてほしいとかそういう意味でなくても、誰かが尊敬や関心の念で見ているはず。
お礼
大変心のこもった回答をありがとうございました。 「人のお世話をすることは、結局は自分に返ってくるのだと思います」 ホントにそうですね。 これだけしているのだから私の事を認めて感謝してほしい。 と傲慢な態度になっていた自分に気がつきました。 これでは私も親と同様 独りよがりでしかないですね。 いただいたお言葉を常に胸に反芻してやれるところまで頑張ってみようと思います。 そしてまたモヤモヤしてきたらこちらの回答を何回も読み返させてもらって 気持ちを切り替えるようにしていきます。
- kinkan66
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今の状態が私とソックリなので、驚いています。 嫌なことはさせられ、それなのに文句ばかりいわれ、 何もしない妹に財産を全部やる、といわれています。 全面的に妹を経済的に助けているのに、 入院時の保証人は私、という感じだったので、 今回の入院のサインは拒否しました。 うちの母も2度目の手術で入院中ですが、 今回は一度も行ってません。 妹は大事なときには来ないので、相談にのってくれている 近所の母の友人が行ってくれてます。 母の長年のひどい仕打ちに、すっかり疲れてしまい、 母と妹の顔は、一生見たくないです。 会っても、心に傷がつくばかりで、何日も落ち込みます。 私の場合、こんなに嫌われている自分が悪いのだから、 割り切って、自分から離れることにしました。 質問者さんは、離れられない状況で辛いと思いますが、 割り切って、最低のことだけこなし、 あとは看護婦さんに任せる感じでいいのではないでしょうか? 入院患者で、誰もお見舞いに来ない人もいますし。 親の愛情を求めれば求めるほど、傷つくと思います。 親なんていなかったことにして、他のことで心を豊かにしていく ほうが、前向きだと思います。 妹は母に好かれていますが、妹はお金が欲しいだけで、 心の中では母を嫌っています。 優しい人に、損な役が回ってくるそうです。
お礼
同じような境遇と共感していただける方がいて、アドバイスをくださりうれしく思います。 他のことで心を豊かにしていくほうが、前向き・・・ ホントに狭い世界にとらわれて、自分で自分を追い詰めてしまっていると思います。 もっと違う事にも目を向けて、前向きにすすんでいかなくては・・・と勇気をいただきました。 つらい経験が人への優しさや思いやりにつながるようになりたいです。 お互い、自分の人生を豊かにできるようにがんばりましょう~! ありがとうございました。
お礼
いろいろな考え方があるのですね。 あなたのように、白か黒 そうはっきり割り切れる人生を送っていたら悩むことなどないのでしょうね。 うらやましいかぎりです。 偽善者の気持ち・・・ そうかもしれないですね。 今回の介護の問題は、自分と親がどう生きてきたか・・・ そして、人が老いるということ。 様々なことを投げかけています。 今はいろんな考えが錯綜して混乱していますが、もう少し考えていきます。