- ベストアンサー
おとなしい生徒の発言から
- 10年前の高校時代、授業で発表することになったが、おとなしい生徒が「人前で話すのが得意な人と苦手な人がいるため不公平だ」と意見した。
- 友達はその意見に反論し、「苦手だから不公平と言うのはおかしい。それは泳ぎが下手だから体育からプールをなくすと言っているのと同じ」と述べた。
- プレゼンは行われ、皆の発表から学びを得たが、おとなしい生徒の意見について考えるべきだったのか疑問に思っている。教える立場になる自分にとって、どのように対処するのが賢明なのかを考えたい。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
大変興味深い教育評価の問題なので、私見と教育臨床論の視座で回答したい まず、教育評価として 「「人前で喋るのが得意な人もいれば苦手な人もいる。普段から明るい人(?)には有利だから不公平だ。それで成績を決められたくない」」 という可能性は全面的には排除できないだろう。 これは教師も人である以上は、人間性含めて偏りのある評価をしない保障はない。 したがって、この評論は全否定することは出来ないだろう、とは思う。 しかしながら、総合教育において、人前で喋る技能は成績としての評価対象でありえる 実際に高校の指導要領においても、 第1章 総則 第1款 教育課程編成の一般方針 1 各学校においては、法令及びこの章以下に示すところに従い、『生徒の人間として調和のとれた育成を目指し、地域や学校の実態、課程や学科の特色、生徒の心身の発達段階及び特性等を十分考慮して、適切な教育課程を編成する』ものとする。 とあるように、人前での振る舞いも教育評価対象として加味するのが適切かつ要請されているとも言える。(指導要領上においては、課題とするだけである、という反論はありえるが) したがって、問題の子女の反論は教育法的には受容する必然性はない、とも言える しかしながら、それを全否定することも教育的には適切とは言い難いことを踏まえるべきだろう、と思われ >結局プレゼンはすることになり、 それぞれ調べてきたことを発表して、皆の発表が本当に勉強になりました。 私はプレゼンして良かったと思っているのですが、始めに発言した生徒の言い分は、聞き入れるべきだったのでしょうか。 それを判断するのが学習、というのが小生の見解である つまり、その問題提起について取り扱ってみるべきだったようにも思うが、それなりに重いテーマなので無理ではあっただろう。 本件については、小生の業務上の課題としても取り扱う価値はあるので、小生は将来的には整理された結論を出したい、とは思うが 暫定的には、聞き入れるべき、ということではなく上記した通り、議論した上で決定するべきものだと思う次第である。 教師の立場としては、聞き入れられたら面倒なことになるのでイヤだがw >常にリーダー的存在の生徒と、おとなしい生徒。 こういう立場の違いから、お互いにマイナスの感情を持っていることもあると思います。 (うるさい・調子に乗ってる、何も言わない・人任せ、など。実際高校時代耳にした言葉です) リーダー的存在の生徒の意見の方が通りやすかったかなと思っています。 これから、私は教える立場になりますので、今回の場合は双方の言い分はどう思い、どう対処するのが賢明と思いますか? 対処法は色々だろう。そして、小生と同じく教職員の道を歩むならば、総論的な結論は持つことが望ましいが、やはり、より仔細な状況を踏まえて個別的に判断するべき問題だろう。 つまり、教育臨床的には、仔細情報を総合的に勘案して判断するものであって、大上段で「こうあるべきだ!」という回答は危険であろう。 (おそらくこの程度は質問者も理解しえると踏んでの回答であることを理解されたし) >決まった答えはないと思いますが、だからこそ、たくさんの方のご意見お待ちしています。 指摘する通りであるので、小生も興味ある問題なので、回答はなるべく長期間募集にしてほしい・・・ いずれまた回答するかもしれないが、矛盾していても立腹しないでほしいので、予防線を張っておくw 以上
その他の回答 (2)
>ある生徒が >「人前で喋るのが得意な人もいれば苦手な人もいる。普段から明るい人(?)には有利だから不公平だ。それで成績を決められたくない」 >と意見があがりました。 先ず、この生徒の誤解を解くべきです。この生徒の考えだと、 「調べ物や発表内容はどうでもよく、ただ声が大きく、明るく、はきはきと発表すれば成績が良い」 という評価基準であるかの様です。 「新聞や書籍を利用する、体験者へインタヴューする等、しっかりとした調べ物をして、発表の為の図表や原稿も、伝わり易い様に工夫した」 等という部分も十分成績に加味され、 「発表時の態度(声の大きさ、明るさ、等)」 は、あくまでも「評価の一部」でしかなく、 「途中で言葉がつかえたり、どもったりというのは、減点にはならない」 という事を生徒全体に周知させるべきでしょう。 又、「どうしても人前に立って(大勢に注視されて)発表するのが苦手」という生徒には、 マイクやレーザーポインター等を使って、 「プロジェクターのスクリーンから離れた位置(他者の注視を受けない位置)で発表する」 という配慮をすれば良いのではないでしょうか。 >その発言を受けて友達は >「苦手やから不公平ってのはおかしい。それで成績つけられないというのは、 >泳ぎが下手やから体育からプールをなくしてくれっていうのと一緒」 >と反論しました。 あながち間違ってはいないでしょう。 誰しも「得意な事」「苦手な事」があり、 物事にもよりますが (例えば、「ミミズを素手で掴む」のは、苦手なままでも構わないでしょう) 「得意な事しかしたくない」 「苦手な事はしたくない」 は、単なる「我が儘」であり「甘え」です。 「苦手なりに、精一杯取り組む」 「苦手でも、投げ出さずに最後までやり遂げる」 「苦手という度合いを、自らの力で幾許かでも下げる」 といった事が生きていく上で必要不可欠な経験です。 蛇足ですが、 「調べ物学習」を行う(児童生徒学生に取り組ませる)際には 「参考文献・参考資料を明らかにする事」 「情報収集の手段をインターネットだけに頼らない事」 「インターネットで得た情報は、書籍や新聞、辞書、辞典等で必ず確認する事」 「質問サイトを利用しない事」 (質問サイト利用は「自力で調べた」事にはならないので) 等を、児童生徒学生に周知徹底させると良いでしょう。
お礼
そうですね! その人の発言した意味をもっとよく考える必要がありましたね。 喋りが下手でも内容で勝負という意見が出せればよかった。 大変参考になりました。 ありがとうございました!
- TheTukkomi
- ベストアンサー率22% (76/332)
私見ですが、 >「苦手やから不公平ってのはおかしい。それで成績つけられないというのは、泳ぎが下手やから体育からプ>ールをなくしてくれっていうのと一緒」 もっともな意見です。 苦手や不公平の問題をクリアしていたら、たしかにみんな平等かもしれませんが、成績もみんな平等になり、成績としての意味を成しません。 また、成績とは結果論であり、過程や、得られたものの方が大事だと考えます。 例えると、 テストで80点のAくんと、60点のBくんがいる。 成績で言えばAくん>Bくん しかしAくんは前のテストも80点だった。 対するBくんは40点だった。 それならば点数を維持したAくんよりもBくんの方がすごいと思います。 もしも成績が全てなら、極論ですが不正をしようが何をしようが成績を上げればそれが正しい。 でもそれが本当に「勉強」なのかどうかを考えると答えはNOです。 前者の意見も分かりますが、成績こそが答えじゃない。苦手なことでも立ち向かって壁をこえるべきと思います。 もしかしたら壁をこえることはできないかもしれない。それであってもやらない事には壁をこえることは絶対にできない。可能性があるのは諦めより挑戦です。
お礼
回答ありがとうございました。 そうですよね。苦手だからという理由ですべてをやめるわけにはいかないですよね。 そこを今後うまく指導できるようがんばります。 大変参考になりました!
お礼
大変詳細な回答ありがとうございます。 思いも寄らない視点からのアドバイス、とても参考になりました。 こうあるべき!という考えは持たないようにしていましたが、悩むとこっちの方向に行きそうだったので、改めてハッとしました。 確かに、もう少しこのことを掘り下げてもよかったと思います。 でも、意見があがることは良いことですよね。 教育者を目指す私にとって貴重な実体験だったと気付きました。 これから回答がつくかはわかりませんが、もう少し待ってみようと思います。 回答ありがとうございました。