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真実を追究する正しい態度とは
- 真実はわからずとも、真実を追究する正しい態度は完成できる。
- 真実を追究する正しい態度とはよく観て、よく聞き、論を一歩ずつ積み重ね、検証をおこなうこと。
- これらの態度は完全に行われることはないが、イデア(理想)に近づくことができる。
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「真実はわからずとも、真実を追究する正しい態度は完成できる」 ↑ そうなんですよね。 霊魂や宇宙人、超能力がどうのこうの、というのは こういう態度が欠落しているんです。 簡単に、霊魂だ、宇宙人だ、超能力だ、と結論を出して しまう。 やかんに水を入れ、ガスコンロにかければ お湯ができる。 千回やっても同じ結果が出る。 一億回やっても同じ結果が出る。 しかし、一億一回眼には、別の結果が 出るかもしれない。 真実などというのは、所詮は人間の手が届かない ところに有るのかも知れません。
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- moto_koukousei
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MOG777さんは、「質問している」ではないのですか。 質問歴も非公開なのでよくわかりませんが、MOG777さんの疑問点や質問は何ですか。 MOG777さんは、自分ではなにか、論理的で意味明確なことを述べているとお考えでしょうか。MOG777さんの文章がわかりません。 私も暇なので、再び、コメントします。 ~~~ コメントの対象に取り上げること ~~~ A「掘り下げるために改めて質問したいと思います」「公理を基に事実を組み立てていくのは理論上可能であるが、現実世界は公理の正しさが保証されているわけではないと思うが間違いはないか?」 B「ここでいう事実というのは、絶対的事実というものではなく」 C「事実を組み立てるとは、論理的に絶対的に正しい筋道を辿ることと考えて良いか?」 D「蓋然性を持ち出して絞り込んで推論するしかないのではないか?」 E「事実をもとにと表現する場合、そこに提示したことが事実かどうかよりも、その後に続く論述に論理的飛躍がないという意図を持っているのだろうか?」 F「真実はわからずとも、真実を追究する正しい態度は完成できるか?」 G「イデアは正しい、ただし現実には存在しないということか?」 ~~~~ 回答あるいはコメント ~~~~~~~ ⇒ 全体的に言葉の使い方がおかしいです。 概念が混乱しているのか、文章構成が論理的でないのか、理解することが難しい状態です。 空虚に言葉をつなげ積み重ねるだけでは、いくらつなげ、いくら積み重ね、いくら時間を懸けても、検証や考察に値する論述はできないし、思想体系もできません。 言葉や文章、命題を明確にし、その命題がどのような内容、意味を持つのか熟慮した上で、論を一歩づつ積み重ねるようにすることをお薦めします。 ☆ ☆ 個々のことについてのコメント ☆ ☆ A ⇒ 「公理を基に事実を組み立てていく」 意味不明です。 公理、公準というのは仮定の一種で、その公理や公準を組み合わせ論理的に別の命題を導き出すためのものです。 「公理を基に事実を組み立てていく」では、何を言っているのかがわかりません。 そのようなことが理論上可能であると云っている内容もわかりません。 「公理」は仮説なので「公理の正しさが保証されているわけではない」とは云えますが、「現実世界で」という限定付きのことでもないです。仮説というものは、何かの命題を説明する上で立言することが有効であれば、公理などの仮説を立てることに意義があります。 B ⇒ 「ここでいう事実というのは、絶対的事実というものではなく」は、「公理という地盤を基に事実を組み立てていくのは理論上可能であるが」の文章の補足ですか。そうすると、「公理という地盤を基に、論理的に絶対的に正しい筋道をとっているか?」「公理という地盤を基に、論理的飛躍がないか?」と質問したいのですか。 そうであれば、そのように質問すべきです。 ⇒ Eを参照 C ⇒ 「事実を組み立てるとは、論理的に絶対的に正しい筋道を辿ること」という表現で、多数の人の理解納得を得るのは無理です。 複数の事実を、接続詞を使いながらつなげて表現した論述が、論理的に整合性のない論述になることは多いです。 D ⇒ 「蓋然性を持ち出して、もっともらしいらしいものを確定し、除き、絞り込んで、推論するしかないのではないか?」 推理、推論は、論理だけでは特定命題に達することができない場合に、可能性、確率、確実性、そうらしさ、尤もらしさを考慮して、特定命題に達しようとすること、あるいはその思考や説明の過程のことです。 その意味では間違いはないですが、特に質問し確認することが必要なことではないです。 E ⇒ 「「事実をもとに」と表現する場合、事実かどうかよりも論理的飛躍がないかという意味ではないのか?」 そのような場合があることもあるけれども、ケースとしてはまれです。 「事実を基に」という表現がなされる場合、その後に結論や提案が続きます。あるいは「○○、△△に示されるように、◇◇◇である」「○○、△△に示されていることからわかるように、◇◇◇をすべきである」というような論述になります。 つまり、論理の確実さは問題にされることは少なく、結論や提案のための理由付けを非論理的にしているケースが多いです。 こうしたケースでは、その論述の中で示されている事実なるものは、5W1Hも不明確なものでしかないのが普通です。 〝事実"の内容が不明確で、その〝事実"提示の後に続く論理も不明確なのが、普通です。 そもそも「事実」の通常の意味は、「実際に起きたこと」「実際にあったこと」であって、観測、認知、認識(されたこと)とは別のことです。 事実と記載報告されているのは文章でも数値データでも写真のようなものでも、事実の一側面をある視点から切り取ったりシンボライズしたものでしかありません。そのプロセスには、感覚器や計測装置等の特性に起因するバイアスが大きく影響します。言語化される場合には記載報告するものの言語経験、能力、偏見、執念、偏執的傾向、恐怖、願望が影響することも避けられません。 知覚表象や記憶表象であることよりも想像された表象というべきものです。 「これこれの事実があった、起きた」というメッセージであって、「事実」ではないです。 「地球上の重力(加速度)は9.80665 m/s^2なので」「日本では人口減少が始まった」「2010年の日本人の平均寿命は男性が79.64年 、女性が86.39年です」「1979年にスリーマイル島原子力発電所で炉心溶融事故が起きた」「2011年に起きた東北地方太平洋沖地震はマグニチュード9.0だった」「弥生時代の始まりは、九州北部で紀元前900~950年頃、関東南部で紀元前2~3世紀、関東で紀元前1世紀である」「2011年の9月と11月にニュートリノの速度実験で光速よりも速いことが確認された」などのメッセージは、記載発言者は「事実を述べたつもり」かも知れないが、記載発言者自身がどこかの記載やニュースを見て伝聞しているだけの場合が多く、本人が理解していると思っている内容もその言葉以上のものをもっていないこと(=実体的な理解をなにもしていないこと)も多いです。 「宇宙は無限だ」「病気は治療の管理のための記号だ」「患者は医者でもないのに勝手に病気と判断する」なども、「事実」を述べているのではなくて、発言者のメッセージに過ぎません。 この手の独自メッセージを多数並べて大きなテーマを述べたり、一つの思想体系を作ることを目指す人を、時々、見かけます。 しかし、そのモトにした独自メッセージが一般的に理解納得されないものである場合には、その後に展開した論述は砂上の楼閣に近いもので、むなしいものになることが多いです。 独自メッセージが一見奇異に思えるものであっても、その後に展開した論述の結果納得性の高い大きな命題を立証できたり、有用性の高い思想体系ができて、論述に使った一見奇異に思える独自メッセージが必要不可欠の重要な部分である場合にはとても有意義な論考になりますが、そのような可能性が感じられない中で、ただ独自メッセージを多数並べても空虚なことでしかありません。 こうした行為は「真実を追究する行為や思考」でもありません。 「よく観て、よく聞く。論を一歩づつ積み重ねる。検証する」ことは大切ですが、出発点も、その後も、何も見ないで、考えない、調べないで言葉を連想でつなげても、無駄なだけです。 F ⇒ 「真実はわからずとも、真実を追究する正しい態度は完成できる」 言葉の意味不明な羅列にしか思えません。 「真実はわからずとも」が「真実を追究する」に懸かるのであれば、「最終的に真実がわからないとしても、そのわかりえない真実を追求する」という意味になります。そうすると、「正しい態度が完成する」「正しい態度が完成しない」「正しくない態度が完成する」「正しくない態度も完成しない」 組み合わせを考えても、「正しい態度は完成できる」とのメッセージが何を伝えようとしているのか不明です。 「真実はわからずとも」が「正しい態度は完成できる」に懸かると考えても、意味不明なことに変わりがありません。 「真実はわからずとも、真実を追究する正しい態度は完成できるという命題は公理の問題となどなり得ません。 寝ぼけた意味不明の発声でしかありません。これを「その人の〝感性+理性"が言葉になったもの」と解すれば、これが目覚めいているときの発言なら〝理性が鈍磨している"と解さざるを得ません。 論理的議論では非論理的な議論は話になりません。 G ⇒ 「イデアは正しい、ただし現実には存在しないということか」 イデアは「理念形」「純粋に理性によって立てられる超経験的な最高の理想的概念」のような意味合いで使っていますか。そうすると「イデアは正しい」とはどのような内容を持っていますか。「イデアは正しくない」とはどのようなことを主張していることになりますか。 「イデアは現実には存在しないということ」というメッセージでなにを伝えたつもりですか。 思考を突き詰めずに、ただ言葉を連ねて時間を消費し、知、知性を使わないように努めているとしか思えません。 ~~ 全体コメントの再掲 ~~ 命題を明確にし、その言葉、文章、命題がどのような内容、意味を持つのか熟慮した上で、論を一歩づつ積み重ねるようにすることをお薦めします。 空虚に言葉をつなげ積み重ねるだけでは、いくらつなげ、いくら積み重ね、いくら時間を懸けても、検証や考察に値する論述はできないし、思想体系もできません。
補足
回答ありがとうございます。 全部に答えるのは大変なのでピックアップさせてください。 >複数の事実を、接続詞を使いながらつなげて表現した論述が、論理的に整合性のない論述になることは多いです。 例えば、データと計算プログラムを考えてみれば 両方ともそろっていなければ、正しい解はでませんよね。 それらの組み合わせは以下ですよね。 誤 誤 誤 正 正 誤 正 正 複数の事実と接続詞を使いながらつなげて表現した記述の関係に上記を参考にあてはめて考えてください。 >G ⇒ 「イデアは正しい、ただし現実には存在しないということか」 イデアは「理念形」「純粋に理性によって立てられる超経験的な最高の理想的概念」のような意味合いで使っていますか。 元々の文章を再度読んでいただきたいのですが、「イデア」を概念上にしか存在しない公理や幾何学的な図形の完全な姿という意味で使っています。 >そうすると「イデアは正しい」とはどのような内容を持っていますか。「イデアは正しくない」とはどのようなことを主張していることになりますか。 例えば、三角形の角を際限なく拡大していくと、どこまでいっても三角形の先っちょというのはみあたらないのです。 現実かつ厳密!には先っちょは確定できないが、だからといって幾何学的な図形(イデア)が間違っているということにはならない。 という説明でよろしいでしょうか? >空虚に言葉をつなげ積み重ねるだけでは、いくらつなげ、いくら積み重ね、いくら時間を懸けても、検証や考察に値する論述はできないし、思想体系もできません。 ふと疑問に思ったことを質問するわけですから、曖昧なイメージや曖昧な表現で示すしかないわけです。 はやい話、たたき台なわけです。 そうでありますから、文章中の「図形(イデア)」「現実かつ厳密」といのもしっくりこないのですけど仕方なく使っているので、あまり突っ込まないように^^
- ok9608
- ベストアンサー率38% (50/129)
「真実はわからずとも、真実を追究する正しい態度は完成できる」 という命題は ご指摘の通り 公理の問題となり 決着はつかないと思います。公理は定義の問題であり その人の主張の問題になり その人の 感性+理性 が言葉になったものであろうと思います。だから その主張が真実かどうか は厳密には不明と思います。主張の根底に 信じるものがある場合は 延々とその主張を繰り返すのです。この哲カテでも多々みられるところです。もちろん 論理的議論では非論理的な議論は話になりませんが 公理の問題は残ります。 その人の主張(言葉)に意味があるかどうかは その内容によると思います。
お礼
回答ありがとうございます。 私もそう思います。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
他人と議論する時は、1つの意見を提起する必要がありますが、 自己の認識を深める上で、1つの考えに固執する必要もないし、 それでは進歩が鈍くなります。 常にいくつかの可能性を心にキープしていてこそ、好奇心に つながるのです。 たとえば、神の存在も、本当に全知全能なら、自己の存在の 証拠を全く消すことも可能でしょう・・・・ただし、自己を信仰させる ために人をつくっていながら信じるに値する証拠を残さないのは、 非常に屈折しており、「全知全能にして意地悪」だと言えますが、 可能ではあります。
お礼
回答ありがとうございます。
お礼
回答ありがとうございます。 >簡単に、霊魂だ、宇宙人だ、超能力だ、と結論を出してしまう。 ミスリードされやすいから、秘密に迫っているようで遠ざかっているわけであり 真の意味での神秘主義者でもないわけなんでしょうね。