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「せんせい、あのね。」
小学校1年生の娘がおります。 夏休みはもちろん、冬休みにも宿題として「楽しかったことを作文に書きなさい」というのがありまして、 その制作に付き合っていたのですが、私の頭が古いせいか、どうにも納得できないことがあります。 それは、現在の小学校で“作文の書き方”として教えている「せんせい、あのね。」という “語りかけ文”として書く、というものです。 こちらの過去の質問を検索したところ、 “語りかけ文”は、子どもの言いたいこと、書きたいことを一番に取り上げられる (=言いたいことを表現しているので褒めることができる) というような趣旨のものが多く見受けられました。 しかし、私には“語りかけ文”から入ってしまっては、後々まっとうな文章を書けるようになるとは、 どうしても思えないのです。 「今日、○○したよ。楽しかったよ」という文章を娘が書いてるのを見ると、「きちんとした文章で書けっ!」 と言いたくなるのですが、“語りかけ文”は教科書でも推奨しているやり方ですし、第一、宿題の例文がそうなっているので、 訂正させては娘が混乱するだろう、と思い、黙って観察している状態です。 前置きが長くなってしまって申し訳ありません。 お尋ねしたいのは、 1.“語りかけ文”による作文を「添削」(というと大袈裟かもしれませんが、ちょっとした批評)する場合、 どういった点に留意すれば良いのか。 2.今後、“語りかけ文”から一般的な普通の文章へと書き方を変えさせてゆくには、 どのような指導(助言)をすれば良いのか。 という2点です。 とくに、教職の経験者の方、 すこし上の年頃のお子様をお持ちの方で作文の指導について色々と経験された方の 御意見をお聞きできればと思います。 よろしくお願いします。
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私は30代前半ですが、「せんせい、あのね」から始まる作文は当時小学生であった私も経験があり、記憶にも鮮明に残っています。ですが、これが「語りかけ文」と言われるものであることは、このご質問のタイトルを見て始めて分かりました。 この「せんせい、あのね」という切り出し方は、実は作文の能力を育てることを本当の目的にしているとは私自身の経験からは考えておりません。なにしろ表現力の乏しい年代ですから、日常生活の中でさえも表現したいことが上手く家族に伝えられずにもどかしさを感じたり、ともすれば指摘されることで変に萎縮してしまい、表現する手掛かりを見失いがちになります。 とりあえず、どんなことでもいいので話し出すきっかけさえつかめれば、文体や内容はともかくとして自分の「内から外」へ表現する思考回路が徐々に組み上がります。 この表現することへ楽しさが加わること、つまり誉められる(「誉めることができる」というのはおそらくこの点でしょう)ことは子供にとっておそらく最も必要なことで、文章を組みたてるための工夫や意欲を育てる一助となり得ます。これは、後に周りの人の文章や話し方を「注意深く読む(聞く)」という姿勢へ結び付くと思います。 この学習過程(学校の授業という意味ではなく、人間の学習能力)で、自分が表現したいことに応用できそうな表現の蓄積が生まれるのではないのでしょうか。 ご心配されているような「まっとうな文章」が書けるかどうかという問題は、文章の組み立て力や適切な言葉・表現の選択、そして起承転結などの論理構成力であることのように思います。これは、全て学習による蓄積と訓練がなければ実らないと考えています。 また、「語りかけ文」という手法は「言葉」や「言語」という概念を自分の内側の世界と外側の世界(周囲の人間や哲学思想まで)を繋ぐ道具として捉えて、強い関心を持たせるには非常に有効であるとも言えそうな気がします。 添削については、あまり親御さんが主導的になることがないよう心がけた方がよいかと思います。むしろ、作文の中の出来事について、「いつのことなの?」とか「誰と誰のことなの?」とか、つながりのあるような情報を付け加えるよう促すのがよいのではないかと思います。作文の中で表現される出来事は、本人にとって大変関心があることですから、それについて更に様々な表現を試みるという「意欲」が芽生え、文章を組み立てる力を養うのだと思います。 文章を組み立てる力は、その必要性から文章を理解したり自分の表現を吟味したりする細かなプロセスも同時に(無意識的に)養うでしょうから、わざわざ学習カリキュラムとして「教え込む」ことをせずとも、本人の意欲で自ら自然に学習する脳の仕組みが形成されていくのではないでしょうか。 また、将来「語りかけ文」から「一般的な普通の文章」へとどのように書き方を変えさせていくかを心配されておられるようですが、私自身の経験では、その歳相応に理解できる範囲が広がり、事物に対する分析を自分なりに試みることができるようになりますから、文章の組み立て方も次第に筋道を意識したものとなるように思えます。 逆に、親御さんが手をかけ過ぎてしまうと親御さんの主観が影響力を持ってしまいます。ある程度必要なことには間違いありませんが、何分欧米人に比べてコミュニケーションが下手と言われがちな日本人ですから、家族間のコミュニケーションも「会議」ではなく「会話」が多くなるように希望を持たれてはいかがでしょうか。 少なくとも、私自身はこの「せんせい、あのね」がその後の表現力の吸収意欲に繋がったことは間違いありませんし、いつの時代でも「表現の苦手」な子に対しては無理をさせずに着地点を導く手法として貢献するのではないか、と思ったりもします。
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- kaochan
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教職経験を持つ者です。私も皆さんと同じように、なんでも自分で思っていることを文字にして、文章に出来ることの少なくなっている今の子の実態からは、「語りかけ文」であれ、やらせてみるべきだと思います。 うちの子もこの方法で作文が書けるようになったし、日記もつけられるようになりました。 正しい文章の書き方は、3年生ぐらいから習うし、興味があれば調べるので、自己表現の一つとして、継続してやらせてみてはどうですか。
お礼
kaochanさん、こんにちは。 “語りかけ文”を「作文の指導方法」として捉えてしまっていたのが、間違っていたかなと思います。 肩肘はらずに、「思っていることを書く練習」だと思えば、あまり意識せずに見てやれるかなぁ、という気がしてきました。 まだまだ、「○○したよ」とか「あのね、今日はね~」という書き方に対する違和感は私の中から抜けませんが、今までよりは気楽に見ていけるような気がします。 簡潔なアドバイス、ありがとうございました。
- Largo_sp
- ベストアンサー率19% (105/538)
語りかけ文は、#1の方の言われるように、思っていることを、文字にできるか ということをさせたいのだと思います。 だから、 1.ちょっとした批判をする場合…… 言い忘れがないか、とか、話し言葉としても 間違った表現がないかどうか、というところでしょうか ただ、子供の表現の仕方は、大人とは全く違うことを 念頭においていないと、「雲さん笑ってるよ」が 間違った文になってしまいますけどね 2.一般の文章へ…… これは、中学になれば、確実に「です。ます。」調の文章を書かされることになります。 そのころにしっかり教えればいいと思いますよ……
お礼
Largo_spさん、ありがとうございます。 「話し言葉としても間違った表現がないか」というのは、たとえば、時間表現(「きのう」と「おととい」の区別とか)の誤解などがあれば、教えてやれば良い、という感じでしょうか。 ちなみに、ウチの娘に限って云えば、「雲さん笑ってるよ」なんて書いてくれたら、その感受性の発露に他事わすれて褒めちぎってしまいそうで、自分が怖いです(笑) 実にクールで理屈っぽいところがある子なので。 一般の文章への移行については、Largo_spさんのおっしゃることも解ります。 それは仕方なく、そう書くだろうとは思うんです。 ただ「三つ子の魂百まで」ということわざもありますし、最初に刷り込まれたことって結構、尾を引くのではないかなぁ、と・・・そういう心配がちょっとありますね。 心配しすぎかな(汗) アドバイス、参考にさせていただきます。 ありがとうございました。
- mishimo
- ベストアンサー率18% (8/43)
アドバイスでも回答でもありませんが・・。Mayutayaさんのおしゃる通りです。 姪(小1)の担任がやはり「先生、あのね」の書き出しではじまる詩を宿題としていました。なにかしら賞をいただいたのですが、姪はこのときのことが頭に残っているらしく、詩というと必ず、「先生、あのね」から始めてしまうのです。違う書き方を指導したのですが、わからないらしいのです。Mayutayaさんに便乗してたくさんの方の意見を私も参考にさせていただきたいと思います。
お礼
mishimoさん、こんにちは。 きっと姪御さんは、すごく嬉しかったのでしょうね。 ウチの娘は、そんな賞をいただくとかいうレベルでは到底ありませんので、そういう意味での強烈な印象は無いみたいですが、普通に書かせても、「○○したよ」のような文章になりがちで、ちょっと気になります。 いろいろと皆さんの御意見をおうかがいしたいですね。
- xxkissxx
- ベストアンサー率57% (136/236)
教職関係者ではありませんが・・・。 今に始まった方法ではないと思いますよ。 私は20代後半ですが、私も小学生の頃毎日のように「せんせい、あのね」を書いていましたよ。 タイトルを見て久しぶりに思い出し懐かしくなりました。 B6ほどの大きさの紙に「せんせい、あのね」という書き出しだけが書いてあり その続きに自分で昨日の出来事や自分の思ったことなどを自由に書いていた覚えがあります。 別にその後、変な文章の書き方をしているつもりはありませんし、周りの人たちも普通に文章が書けます。 この「語りかけ文」(?)の教育方針や目的等はちょっとわかりませんが、 何でもいいから書くように言われましたし、今思えば#1さんのおっしゃるように 自分の考えたことを文字で表現する練習だったのではないかと思います。 いきなり「文章を書け」と言われても小学校1年生には難しいから、 先生に話しかけるという設定で文を書いて「てにをは(助詞)」の使い方や、 言葉を覚えられるようにしているのではないかと思います。 またそれと同時に、先生と生徒のコミュニケーションが取れて一石二鳥的な役目があるのでは? 心配されなくとも普通に学校で授業を受けていれば、自然に普通の文章が書けるように変化して行くと思います。 子供が赤ちゃん語(例:ワンワン)から徐々に普通の言葉(例:犬)を話すように、 時間をかけて文章力をつけていくのだと思います。 学校(文部科学省)にも指導方法があるのでしょう。 焦らずに見守ってあげれば良いと思います。
お礼
ありがとうございます。 焦っているつもりもありませんし、学校の方針にケチをつけるつもりもありません(納得いかない部分は、どうしても残るのですが(苦笑)) ただ、私自身はxxkissxxさんよりも若干、年代が上であり、“語りかけ文”を書く、という指導を受けていないため、どういう点に注目して褒めてやる(=のばしてやる)のか、ということが、まったく見当がつかないのです。 なので、具体的に、どういう点に留意するべきかを、おうかがいしたかったというのがあります。 そうですね。 先生とのコミュニケーションと割り切って、親が批評したり、コメントしたりするのを控える、というのも一つの手なのかもしれません。 それが「見守る」ということかどうかは判りませんが・・・ 参考にさせていただきます。ありがとうございました。
- kurokawa
- ベストアンサー率25% (38/147)
語りかけ文は自己表現ができる人間になる為の教育であり、ちゃんとした文章を書かせるためのものではありません。また、文字を書くことに慣れさせる為のものでもあると思われます。 ですから「ちゃんとした文章を書けと」小学1年生の児童に指摘するのは、スクランブルエッグを見て「(オムレツの様に)ちゃんと固まってない!」と苦情をつけるようなものです。 語りかけ文の採点は児童の自己表現=自我の確立がちゃんとできているかどうかにあると考えます。 一人称、二人称、三人称の使い分けを指導する際に、あるいは一般の出版物を見て成長する過程で「通常の文章は一人称(語りかけ文)ではなく、三人称で記述される」ことを学習します。 ので、一年生のお子さんに対してあれこれと言うのは自己表現を妨げ、行き過ぎると(学校でも家庭と同じ方針で教育をしていると)他人の指示がなければ何もできない人間にしてしまう可能性があります。 親の価値観を子供に教育するのは、親として当然の権利ですが、同時に世の中には他の価値観もある事を示し、価値観の押し付けにならない様に注意しなければ自分と子供がイコールであるとゆう考え方に陥ってしまいます。 ですから、語りかけ文で子供が何を書いたとしてもそれを訂正させる事こそしてはならない事と考えます。
補足
このような時刻にもかかわらず、早速の御回答、ありがとうございます。 私の言葉が足りなかったようです。 「語りかけ文を訂正させる」事は私も「してはならない」と思いますし、「親の価値観を押しつける」つもりもありません。 ただ、“語りかけ文”(私の感覚では“話し言葉の羅列”)というものに対して、どのようにコメントして良いか判らず、でも、何も言ってやらないよりは何か(私としては“褒め言葉”)を言ってやったほうが娘にとって励みになるのでは、と思い、どういう点を取り上げたら良いか、どのような言葉で褒めたら良いか、という助言がいただきたかったのです。 私自身が、つたない文章しか書けない状態で、娘の作文にどうこう口を出すなど、笑い話でしかないかもしれませんが、やはり気になりますので・・・。
お礼
IQ-Engineさん、こんにちは。 丁寧なアドバイス、ありがとうございます。 >いつの時代でも「表現の苦手」な子に対しては無理をさせずに着地点を導く手法として貢献するのではないか、と思ったりもします。 この最後の一文に、目からウロコが落ちる思いがしました。 実は私も、IQ-Engineさんと似たような年代なのですが、この「せんせい、あのね。」という手法で作文を書いた記憶(書かされた記憶)が一切ないのです。 考えてみるに、私自身は「文章を書く」ということが、そこまで不得意ではなかったんですね。 両親が共働きで、幼稚園時代から「カギっ子」だったため、親とのコミュニケーションは「置き手紙」が主流だったせいかもしれません。 とにかく、文章で「物事を表現する」ことについて、あまり苦手意識を持ったことがないのです。 自分が子どもを持つ身になってみて、「あのころは寂しかったよなぁ」などと思ってしまったこともあって、家で出来る仕事を選び、子どもたちとはできるだけ「会話」をするように心がけてきました。 そういう意味で、自分と子どもたちとは環境がだいぶ違う訳ですし、得意・不得意の違いも出てくるんだなぁ、と考えさせられました。 たいへん参考になりました。 もう一度、よく考えてみたいと思います。 ありがとうございました。