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環境問題の態度について
a:「一、二酸化炭素放置→温暖化→猛暑に天変地異に水害→しまった 二、二酸化炭素カット→温暖化阻止→地球ひんやり→あーよかった」 というものだが、いまから二酸化炭素をカットしたって、地球が冷えたりしない、温暖化はどんどん続く、。 b:ここで、別の選択があるのなら、 「一、二酸化炭素放置→温暖化→猛暑に天変地異に水害→はげしく後悔 二、二酸化炭素カット→でも温暖化継続→猛暑に天変地異に水害→でもやるだけやったし、まいっか」 c:「これは最初の選択よりも実態に近いけれど、ひとつ重要なポイントを見落としている。炭酸ガスのカットは、地球の経済成長をかなり阻害するのだ。……だから本当の選択はこうだ。」 「一、二酸化炭素放置→温暖化だけど経済成長→猛暑に天変地異に水害→でもお金があるので対策可能→後悔ほどほど 二、二酸化炭素無理やりカット→でも温暖化継続して経済も停滞→猛暑に天変地異に水害→金がないから対策もできず『結局無駄だった』とはげしく後悔」 ──いま規制してみても、後で効果がないとわかるかもしれないので、「今経済的にマイナスの効果を被ってまで規制する必要はない」というのがアメリカによる解釈、後で無駄な規制のために損をしたとわかるかもしれないけれど、地球全体にかかわる重大な問題であるだけに、取り返しがつかないことになって後悔しないよう、とりあえず規制しておこうというのがヨーロッパによる解釈、そのうち私はどちらかといえばヨーロッパの側に立つべきじゃないかと思います。 途方に暮れるかもしれないが、20世紀の負の遺産を引き継ぐために、そのことを受容することは必要なのでしょうか? 、それとも負の遺産は無視して経済を押し進めて、その経済力で、解決していくアメリカ方式のほうが、現実的なのですか? 教えて下さい。
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こんにちは。 難しいことはわかりませんが、環境問題に関しては、地球保護、環境保護の観点から、背景としてpassagen1919さんもNO1の方のお礼欄にも書かれていらっしゃるように人間のエゴからきていると言わざるをえないと思います。 人が持っている常識、既成概念をそっくりくつがえすようなこともこれからは必要になるかもしれません。 例えば、地球がひとつの生命体であると考えれば、これらの天変地異、環境汚染も有限な資源を破壊しないように、大事に守っていかなくてはいけないな、と思うんです。 これからは、エコロジーの時代が大切ですよ、と一種の地球からの警告かもしれませんね。 今まで3回地球(今は3次元)の次元が変わってきていますが、今は4次元へと移行の時期であると聞いたことがあります、人間で言うと、”膿だし”の時期で いろいろ不景気、飢餓、戦争、テロと大変なことが起こっていますし。 資本主義もおそらく崩れていくのでは、と思います。 21世紀は人々のそういうエゴ的意識も薄れ、エゴから協調へとよい方向へと向かうってことらしいです。伝播していくのが人の考えですから、一人一人の意識が変わっていけば、時間はかかりますが、きっと良い世の中になると信じています。 私なりの独自の世界ですので、答えになるかわかりませんが(^^ゞ。
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- myeyesonly
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こんにちは。 これは何を基準に見るかって事でしょうね。 地球に済む人間全体を基準にすれば、経済どうのこうの言ってられる状態じゃありません。 経済を基準に見るなら、人間がナンボ死のうと、お金が活発に動けばいいわけです。 実際、先進国と言われる国々がどう経済成長しても発展途上国では連日沢山の餓死者が出てる状況を何も変えることができてません。 経済を基準にしてしまえば、地上に住むほんの一握りの人達だけの楽園がどこかに出来るだけですね。 その一握りから洩れた大多数の人は荒れ狂う暴風雨や砂漠の嵐の中で骸を晒す事になるでしょう。
お礼
「一、二酸化炭素放置→温暖化だけど経済成長→猛暑に天変地異に水害→でもお金があるので対策可能→後悔ほどほど これが、21世紀の環境問題の対策だと思います。この解決以外、資本主義の中からでてきません。特に日本では、この論理の背後にあるのは、意識の問題であり、エゴの問題です。私達は、死ぬのです。でも種としては、生き続く可能性があります。もし種を中心に考えれば、二酸化炭素放置はバカげてますが、エゴから、考えると二酸化炭素放置は、なかなかしぶといと思います。 二、二酸化炭素無理やりカット→でも温暖化継続して経済も停滞→猛暑に天変地異に水害→金がないから対策もできず『結局無駄だった』とはげしく後悔」 この現実は、超国家的な環境、管理装置みたいなシステムが、第三世界を管理する可能性がありし。 20世紀の負の遺産の認識は、まだ甘いし、楽観的ですし。
お礼
100年前の写真や、映画を見ると、ちょっといけば 、森や林があり、道路も鋪装されていずに、照明もなく、人間が環境に制限されていました。人間<環境。環境を支配して管理しようなど思っても、そんな技術にも乏しく、この居心地の悪さを人間の想像力によって解決するべく、神話や魔術てきな思考が分泌されました。 人間は、破壊と恐怖と欲望をごちゃまぜにして、自然を対象化して、役に立つ自然と役に立たない自然にわけ、前者を資源とし、後者を宅地や道路にしました。人間は、自然を克服した。勝った。台風や地震がきても、平気なように大地を人間の理性にしたがって書き換えていきました。ところが、勝ったと思ったら、オゾンホールがあいていたり、自然の豊かさ自体を否定して、自然とのつき合いかたまで、忘れてしまいました。もう来るところまできたという感さえします。現在の学問の方法では、自然の怪物性までは、理解できないと思います。自然ー構造ー対処。という医学的には、もうあの自然は回復しないでしょう。南方熊グスや、昭和天皇とかのナチュラリストは、もう絶望したと思います。今度は、われわれが、絶望する番が回ってきたのかもしれません。