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科学信仰

科学は自然の様々な面を論理的に矛盾がないよう理論的な説明をつけようとします。 そしてより矛盾がなく、うまく説明ができるものが正しいとされます。 その根底の精神には自然とは完璧なもので、一見無秩序に見えてもよく見れば 実は秩序立っていて矛盾することなどない。 だからこそ矛盾する理論は間違っていると言うのでしょうが そもそも自然界は論理的に整合性が取れるようにできているのでしょうか? 結局のところ、科学も信仰の一つにしか過ぎないのではないでしょうか? 回答よろしくお願いします。

みんなの回答

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.4

 「科学」では絶対的な結論はありません。ある問題に関する見解として幾つかの仮説が提唱され検証されて、可逆性や実証可能、論証可能、反証可能などの要件が整った時点で一つの共通認識となります(全ては総体的である)。  これに対し「信仰」では「絶対的な存在」などを前提とするため、それに対する「疑義を示す」ことすら認められない、不合理性を前提とします(教祖の教えは絶対に正しく、いずれは真理となるなどの戯れ言)。  よって認識としての信仰は低次元の存在でしかありません。信仰は科学による人間の進歩を阻害する意味で不要な存在です。

tttyyyuio
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「絶対的な存在」に相当するものが「自然は矛盾なくできている」というものです。 信仰における絶対的な存在を信じるように自然は矛盾なくできていると信じているからこそ 実験事実と反するからという理由で、この理論は間違っていると言うのではないですか。 それは経典に書いてないから間違っていると言うのと同じじゃないですか。 そして科学だってこの「自然は矛盾なくできている」ということに疑義を示すことすら 認められていないですよ。 だって今の科学者の仕事はすべからくこの信仰の下になされているのですからね。 自然は矛盾なくできているとは必ずしもいえないのだから、矛盾だって許容されるべきなんて 言ったら馬鹿にされるだけですよ。

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回答No.3

自然界は論理的に整合性が取れるようにできているのは仮説であって、それが正しいことは証明できません。 ある科学の仮説(理論)がそれまでの実験や観察と矛盾していなくても、その仮説が正しいことは証明できません。 いくつかの立場はありますが、科学と宗教は反証可能性によって区別されます。 科学の仮説は必ず実験や観察によって反証される可能性がなくてはなりません。 仮に、相対性理論であっても、矛盾する実験や観察があれば覆る可能性があります。

tttyyyuio
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 その反証可能性という考えが、自然に矛盾はないという信仰に支えられてるじゃないですか。

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  • NURU_osan
  • ベストアンサー率50% (297/593)
回答No.2

 信仰の基本は信じることにあり、科学の基本は理解することにあります。  信じることとは理解できないこと(あるいは理解していないこと)をそのまま「そういうものだ」と納得してしまう事を意味し、理解しようとする知的努力・関心を妥協(極端な言い方をするならば否定)することでもあります。信じるということは良いことであるように一般には理解されていますが、知的無関心になってしまうという負の側面もあるのです。  科学も信仰も、共に「世界をどう捉えるか?」という共通の課題に取り組む手段ではありますが、スタンスは根本的に違います。  信仰はそのスタート地点から既に世界を完全に理解する事を放棄しているのです。  では、世界を完全に理解する事を目標としているのであれば、実際に完全に理解することが可能なのか?というと、それはまたまったく別の問題です。  世界を実際に完全に理解できるかどうか?は科学か信仰かという手法の問題ではなく、人間の知力の限界の問題だからです。そして、人間が世界を完全に理解できることを証明する手段はありません。  しかし、理解できない事を理解できないまま「そういうものだ」と納得してしまうことで解決とする信仰とは違い、科学は理解できないことは課題として未解決のまま残しておくため、時間や世代を経ることで後に解決されていく可能性を残します。  このため、科学は「世界を完全に理解する」という目標に信仰よりも確実に近づくことが出来ます。

tttyyyuio
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自然は矛盾なくできていると信じるからこそ、実験事実と反する理論は間違っていると 言うわけですよね。 でも、神様がいるかどうかわからないのと同じように 自然が矛盾なくできているかどうかなんてわからないですよね。 なら科学も宗教同様に世界は「こういうものだ」とまず信じることから始まってますよね。 宗教は神様で説明しようとして、科学は無矛盾性で説明しようとする。 それはただ単に信じるものの違いでしかないのではないでしょうか。

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  • misawajp
  • ベストアンサー率24% (918/3743)
回答No.1

究極の所は判りません でも観測できる範囲で矛盾無く説明できなければなりません 矛盾が生ずることはどこかが間違っているからです(その対象に適用できると判断することも含めて)

tttyyyuio
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 矛盾が生ずることは間違っている、この発想は 自然とは矛盾なくできているものだという認識が根底にあるからこそ 出てくるものですよね。 でもそんなことは究極の所、判らない。 ならやはり科学も神様がいないだけで、信仰の一つなのではないでしょうか。

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