- ベストアンサー
神棚の榊が枯れたまま。対策は?
- 妻と別居してから、妻が行っていた神棚の榊が枯れたままです。神棚の手入れも全然やっていないので、どうしたら良いか悩んでいます。榊を新しいものに入れ替えるべきか、そのまま放置すべきか、そして枯れた榊の処分方法についても教えて欲しいです。
- 神棚には毎日、米と塩を捧げ、ろうそくを灯してお参りすべきでしょうか?また、神棚の中にある御札の扱いも分からないので、どうするべきか迷っています。妻が行っていたことをおぼろげに覚えているだけで、正しい神棚の手入れ方法については全く知識がありません。詳しい方からの教示をお待ちしています。
- 神棚の榊が枯れたままで困っています。妻と別れてから、神棚の手入れを一切していないため、どうすれば良いか分かりません。具体的な対策として、枯れた榊を新しいものに入れ替えることや、お参りの際に毎日米と塩を捧げ、ろうそくを灯すことが必要なのか知りたいです。また、神棚の中にある御札の扱いも教えてほしいです。正しい神棚の手入れ方法を知っている方からのアドバイスをお願いします。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
ずっと神棚を祀るつもりはあるのでしょうか? ないのであれば捨てればよろしい。 信じないのなら、維持する必要も畏れる必要もないでしょう。 以下はずっと祀るとしての最低限の話です。もちろんより以上という事になればいくらでも上がありますけど、まずは最低限でいいと思います。 榊は毎月31日と14日に新しいものを購入して、その晩か翌朝取り替えます。でも、最低限生気を失ったらでも構いません。勤め人なら都合よく1日・15日に取り替えることが難しいでしょうから。 最近ではスーパーやホームセンターでも置いてある所があります。近くに花屋でもあれば定期的に運んでくれるようにお願いしてはいかがでしょう。 神棚の前は米、水、塩を捧げます。酒を付け加えても構いません。広さに従ってどちらかにしましょう。 米を真ん中にして、向かって左に水、右に塩というのが基本で、三角に置くように神社本庁の冊子では示しています。酒を加える場合は米の両側に酒を置き、その手前に水塩を五角形になるようにしています。 しかし広さが取れない場合は横並びでも構いません。捧げる気持ちを最優先にして下さい。 祀り方は人それぞれのようです。 基本的に供物には生のものを捧げる場合と調理したものを捧げる場合があります。 神棚も同様で、毎日米を捧げ、拝礼した後に下げて自分達のご飯をたくときに一緒に炊く人。 ご飯が炊けてから神棚に捧げ、拝礼してから下げて食べる人、或いはご飯が終わったら最後に食べる人などそれぞれです。 水はご飯を炊くときに使ったり、お茶で飲んだり、そのまま飲む人も居ます。塩も調味料として使う人や外に撒く人も居ます。 お酒も同様に朝に捧げて調味料としたり、晩酌にしたり、外にまく人も居ます。 神棚に供えたものを頂くのは祭事の際の「直会(なおらい)」といって神様と一緒に食事をすることを意味します。 独りでは食しきれないので、また塩は取りすぎがよくないので、外に撒く人は清めの意味もあるのでしょう。 我が家では塩や酒は概ね撒きます。(食事制限が厳しくて、塩断ちしていますから)米は雀が喜びますしね。 ですからあまり多くても大変なので、専用の器でもいいですがなければ専用に決めた小皿でも構いません。 アルバイトで生計を立てている友人は月の最初と最後の土曜日にのみコップ酒を捧げて、晩酌にしています。 私が知っているもっともずぼらな人は、毎月1日15日にだけ全部を取り替えるという人です。 でもどれが正しくて、それが間違っているとは言いたくありません。作法に則っていても心を沿わせていなければ何の意味もありませんし、自分の生活様式に合わせて、ずぼらでいても毎日朝晩神様を意識している人のほうがはるかに信仰深いと私は考えるからです。その方は祠でも地蔵でも見かけると必ず頭を下げる人なのです。道の向こうやバスに乗っているときでもお宮が見えると頭を下げます。 神棚を祀るのはあくまでも神様を家の中に招く事、神様と共に暮らすことが第一ですから、あまり律儀に考えて無理すると長続きしなくなります。生活パターンにあわせて、慣れてきたら少しずつ替えていけばいいんです。昔の人だって全国統一などではなく、地域ごとに特色があったのですからね。 御神札は、ずっとそのままであれば、氏神様に行ってとりあえず新しい御神札を頂いてきましょう。あとは毎年暮れになったら新しい御神札に取り替えます。 取替え時期や古札の納め方は神社で聞いてください。これも地域によって多少の差がありますから。 氏神様は私達の土地と生活を見守って頂く神様です。氏神様が分らなければ、町内会の人や地元の人に聞けば分ります。 神社詣ではわざわざ拝殿まで行かねばならないわけじゃありません。通りすがりにでもちょこっと頭を下げる。見える場所から頭を下げることも立派な拝礼です。 参拝というのは本来は、今で言うところの昇殿参拝(拝殿に上がり祝詞をあげていただく参拝)をいい、日常私達が行っているのは自由参拝という略式の参拝法です。 敬神崇祖が神道の基本であり、あまり形式に固執せずに、常に神様の存在を感じることが重要です。儀礼などは昇殿参拝などの祭事だけが、明治時代までに定められたものなのです。 神道では祈願といい、祈祷とは異なります。災難や苦難は受け入れるべきものであり、避けるものではありません。人に限らず活けるもの全ては苦難を乗り越えることによってのみ進化や進歩を得ているので、避けていては進化しません。そこで、苦難を乗り越えるための助力を「大難を小難に、小難を無難に」と替えて頂く。これは神道の基本理念です。 灯明ですが、これはろうそくにこだわる人も居ますけど、私はやめました。 やはり火災は自宅だけではなく隣家などにも被害を及ぼしますから、自分の都合だけで考えることはできません。またろうそく型の電灯を使う人も居ます。これでもいいでしょうね。 いずれも「ろうそくは途中で消してはいけない」という言い伝えもありますけど、防災を考えれば拝礼が終わったら消しても構わないです。 拝礼というのは「再拝・二拍手・一拝」或いは「再拝・四拍手・一拝」することを言います。通常は“二拝”とか“二礼”といっていますけど皇學館大学名誉教授「鎌田純一」氏の書に因れば「再拝」が正式だそうで、二拝は一度完全に身を起こして(立位では完全に起き上がり)もう一度頭を下げるのに対し、再拝は続けて二度(立位では頭を下げてから膝まで掌が戻ったらまた下げる)の違いがあるそうです。二礼という言葉は使いません。 四拍手は出雲大社の拝礼というのも間違い、明治時代に神祗庁から離脱した神道のいくつかは四拍手をしています。今でも神祗庁の流れを汲む神社本庁に属さない神道は多く、この中には四拍手にこだわっているところも多いので、氏神様に拝礼法を聞いてみて下さい。 神社本庁と和解した神社でも出雲大社や宇佐八幡、弥彦神社など四拍手をしているところ、或いはどちらでも構わないとしているところも多いです。 出雲大社も自由参拝であればどちらでも構わないとしています。
その他の回答 (1)
- harapekoqoo
- ベストアンサー率27% (225/816)
榊ですが、枯れてしまったのなら うちなら普通に生ごみにだしてます。 水をいれかえていても、枯れていくので 普段は枯れた葉っぱだけとって捨てていくかんじです。 榊はスーパーにも売っててすぐ手にはいりますが、 造花もありますよ。 あまり気にしないのであれば造花が楽かなと・・・(笑) 信仰心が強い方は「ええー」って言うかもしれませんが。 うちではろうそく、米 塩はしてません。 入れ物だけおいてあります。 米 塩は毎日交換が正しい参拝方法です。 (ろうそくは使ってる神棚をみたことがありません) 新鮮なお水は毎日です。 それと酒の小瓶は1年ごとに交換。 このお酒の小瓶は神社でもらってきてます。 お札関係は、神社がひきとってくれます。 決まった日や、お祭りの日などですかね。 私の家はお正月に古いお札をもって、 燃やしてもらい、新しいお札を買って帰ってきてます。
お礼
早速の御回答、有難うございました。 いつも私が家の中で最も長く居る天井に据えつけられた神棚で、妻と別居してから、気になっていました。 何か気になっていたので質問した次第です。 実親に聞いたら、そのまま で良いのでは?といわれたのですが、私も親も、信仰に詳しくなく、放置しておりました。 しかし、気分的にも何とかしたいなということでしたので、慣わしというもの自分一人で出来ることから やって行こうと思います。 大変、参考になりました。
お礼
大変、ご丁寧な御回答、有難うございました。 回答者様の <<ずっと神棚を祀るつもりはあるのでしょうか? ないのであれば捨てればよろしい。 ということも、仰るとおりと思います。 最近、悪いことばかりで、辛くて、こんな気持ちを少しでも癒す為に、きちんとは出来ませんが、自分なりに(ずぼらかも?)神棚に手を合わせようと思うようになりました。 勿論、捨てることには抵抗があり、できません。 正直、私は信仰の厚い人間ではありませんが、私が家の中で最も長く居る場所に祭られているので気になっていましたが、御回答で、気になっていたことがほとんど払拭された気がしました。 つまり気分がスッキリしたことです。 但し、こんな性格に神棚は必要なのかという疑問もありますが、私ができる限りの範囲で守って、守られてという関係は、よくないのでしょうか? 自由参拝・あまり律儀に考えない、このお言葉に心配は、払拭されました。 とにかく、私の出きる範囲、神様と一緒に暮らすという考え方で行きたいと思います。 一人で淋しすぎますから。 感謝申し上げます。