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意思薄弱な人間粗大ごみにいかなる処方を施すか、
芸術に由来して考えてみました。 芸術とは自らの心に感じた美の感動をいかに表現するかです。 あくまでも自らの心の感動でなければいけませんが肝心の自らの心がない日曜芸術家もいます。 私は写真芸術が得意なのでここから引用します。 竹内敏信と言う風景写真の写真家が日曜写真家から絶大な尊敬を集めています。 私は本物の芸術家ですから、彼の作品が、彼自身が風景を前に誰よりも深く感動しその自らの感動を写真としてカメラに収めたのだと理解できます。 日曜写真家が彼に触発されて写真を撮影し、かつ成功した写真を撮影するなら、彼がした様に自分なりに風景に強く感動しその自らの感動を写真として収める事が本来ですが、彼らは自らの感動をないがしろにし、竹内敏信のような写真が撮りたいとだけ願います。 神様に言わせればその願いは即座にかなえてあげています。 そして、日曜写真家はお手本至上主義的人格を発揮して美しい風景を目の前に、その風景にイメージを膨らませようとしないで、有名写真家の作風イメージのみが頭を駆け巡り、風景から真実をくみ取ろうとしない。 そうすると美の表現とはならないでどんなに頑張ってもカメラが自動的にシャッターを切っただけの無味乾燥とした写真となる。 自己を表現しないで誰かさんがかいたお手本を至上として掲げる行為が意思薄弱優柔不断な潜在的隷属人種です。一言でお手本を模倣するだけの人種です。 このカテで見かける哲学の多数派、すなわち潜在的隷属人種の生態を観察すると、彼らは無我を理想としますが、彼らの憎む自我とは自らの心の発露を妨げている重圧の事を指しており、それは自分自身の自我をないがしろにして、どこからか持ってきたお手本なり規範なりを人格の頂点に据えて、そのような規範に忠実であるが自らの心の理想であると七転八倒しているからです。 精神的充足を阻んでいるのはどこからか持ってきて据えたお手本の方なんですが、お手本至上主義なので「俺が悪いんだ」「俺は罪深いのだ」「すなわち無我が理想だ」このように本末転倒にも自分自身を否定しています。 この、はたから見ているだけなら笑える猿的馬鹿さ加減に有効な処方箋を検討しています。 ヒント募集です。 ちなみにゼロ思考、無我思考は理性的に理解可能かつ応用可能で私の場合は「ときわたりESP」と言う超能力に昇華しています。
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- kannzou001
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お礼
やあ、ありがとう。 芸術に関する意見としてまともだね。 あんたたち多数派を少しは見直したよ
補足
お礼の追加だよ。 写真技術の話なら技術よりもかならず感性が先立つ。 心を明かそうとした時にそこに技術が付いてくる。 技術が先に立つと思いこんでいるならサル踊り品評会芸術分野場外乱闘編、すなわち単なる真似だ。 高度な技術、独自の技術は、裏打ちのある確かな技術とも言い、被写体の前に立ち会い感動する心が全てだ、